フランス軍ルール占領


フランスはベルサイユ条約に不満だった。

そしてフランスの基本的な考え方は、ナポレオン戦争のあとのウィーン条約の再現でありそして力の均衡による国境線の維持だった。そもそもフランスはアメリカ・ウィルソン流の民族自決に賛成でなかった。そして国際連盟による安全保障など何の役にも立たず、フランスが中心にいる相互攻守同盟こそ平和を守る唯一の手段と考えていた。それには英仏協商を維持し、ロシアに代わりポーランドを援助し攻守同盟の要とする必要がある。

この考えはポアンカレに具現されていた。1920年、クレマンソーは選挙に敗北、ポアンカレは大統領から首相となった。その地位を実質1929年まで維持することになる。

1921年賠償委員会はドイツに1320億金マルクの支払いを確定させた。そのうち52%はフランスが受け取ることが予定された。

別にベルサイユ条約によればドイツは1921年5月までに200億金マルクを支払わねばならない。これをドイツは現物支給で全て支払った。現物は家禽類から電信柱に及ぶ。それを敵対感情が収まらない両国が金マルクへの算定評価で一致させることは到底不可能だろう。現在に至ってもドイツが支払った正確な金額は不明である。

ドイツは450億金マルク支払ったと主張し、フランスは200億金マルク以下の価値しかないと言い張った。フランスは1922年12月ドイツの債務不履行を宣言した。これにより無条件の報復措置が可能となり、フランス軍とベルギー軍は1923年1月11日ライン川を越えてルール地方を占領した。

イギリスの反対

このルール占領に対して、イギリスは激しく反対した。すでに戦線終結から3年を経ており、ドイツに対する敵意は急激に退潮に向かっていた。イギリスではフランス人を怠け者のキリギリス、ドイツ人を働き者のアリだとみなす世論が存在した。

更に事情を悪化させたのは対トルコ政策だった。イギリスはケマル政権下のトルコをも敵とみなし、ギリシャを応援した。これに対し、ポーランドをドイツ牽制の友邦とみなすフランスは、ソ連を敵とみなした。フランスからみれば、ソ連の不倶戴天の敵とみなしうるトルコを味方につけるべきだとの考えにつながる。

ソ連ポーランド戦争

イギリスはケマル政権に対するギリシャ軍の反撃に未だに期待した。ただ実際のところ1921年8月、サカリヤ川の会戦でギリシャ軍は致命的な打撃を受けており、イギリスの期待が実現する可能性は薄かった。イギリスはトルコに対して複雑な感情を抱いていた。19世紀ロシアに圧迫されたトルコを徹底的に応援したのはイギリスであり、第1次大戦でイギリス軍がドイツ軍の次に悩まされたのはトルコ軍だった。更にトルコ内で反ケマルの動きを鮮明にしつつあったメフメト6世を支援していた。

希土戦争

この時ケマルは国際的に孤立していたが国民の支持があり、トルコ人軍隊の大半を支配下に置いていた。大国が内戦で一方の政権を支援し失敗するのは必ずこのケースである。つまり大国であっても、中規模の国の国民軍を圧倒する程自国の軍を駐留させることは普通できない。

イギリスはセーブル条約によって海峡周辺地区の駐兵権を得ていたが、既にダーダネルス海峡のチャナックの兵営に孤立していた。イギリスはシリアを委任統治し駐兵させていたフランスに支援を要請した。1922年9月カーゾン外相はポアンカレにパリで直接交渉に及んだ。会談は途中で怒鳴りあいとなり、カーゾンは怒りに震え泣き出したという。イギリスの外相が泣き出した数少ないケースである。ポアンカレはイギリスの要請を断然拒絶した。

チャナック危機

ポアンカレが正しくイギリスのトルコ政策が失敗だったことは現在を考えれば自明である。しかし同盟国の救援要請拒絶は重大なシコリを残す。フランスは13年後、ヒトラーのラインラント進駐に際し、イギリスから同様の拒絶にあうが、それは第2次大戦に繋がる重大な事件となった。

このトルコをめぐる英仏の対立は当時深刻で、フランス軍は急遽大西洋海岸の防衛に乗り出したほどだった。そしてこのトルコの成功が同じくベルサイユ体制打破を狙うドイツ人を励ましたことも疑いない。

イギリスの誤りは二重である。トルコ政策とその国際連盟中心主義だ。つまり、現状を武力で打開しようとする交戦団体または国家に対し軍事的措置を講じる場合、国際連盟により軍隊を組織する時間的余裕が存在しない。戦間期は中規模な国家でも軽武装の国民軍は自然障害に拠り補給が続く限り、寄せ集めの軍隊に勝利することができた。これこそまさにトルコの事態が示したものだった。

そして重大な利害が絡まず戦局を予想できる国は断然参加を断るだろう。ただ大局的にみれば英仏が同盟してもヨーロッパ大陸では単独のドイツにも対抗しえない軍事バランスの喪失が根本にある。ただこれは第1次大戦前に生じており、そのために露仏同盟が存在していたのだ。ところが仇敵ドイツは1922年4月ソ連とラッパロ条約を結び、フランスにとり悪夢の露独神聖同盟が復活したかのように思われた。

このように英仏間に亀裂が走って行った。ただ誤解してはならないのはイギリスはフランスにドイツ政策に対する自制を求めているのであって、現状維持=平和そしてフランス大革命の理念=啓蒙主義の意義については一致していた。すなわちアンタンテ=協商は残っているのである。

ドイツの受動的抵抗

フランスはベルサイユ条約履行のためだけにルールに進駐したのではなかった。ラインラントまたはルールもしくは両方を独立させ傀儡政権を樹立させようとした。

エッセンに入城するフランス軍

ドイツ・クーノ内閣は官吏・労働者にゼネストを指令し、すべての生産的な活動を中止するよう求めた。これの補償のため、すべての賃金労働者に従来の給与を中央政府が支払った。これはあまり成功したと言えない。すなわちドイツのインフレは最早収拾できる水準を越えていた。ドイツ経済はクーノの受動的抵抗方針のため大混乱に陥った。

更にフランス軍と市民との間に衝突が発生し、またフランスの呼びかけに応え独立を主張する人々も現れた。ベルリンがイメージするプロイセン官僚政治に対するラインラントの反感は1848年から80年経過しても消えることはなかった。第2次大戦後の西ドイツ首相アデナウアーはこの時、フランスに協力しケルン共和国の樹立を画策した。

フランスは受動的抵抗に対抗するため、アラブ系などの労働者を送り込んだ。フランス兵士へのテロ活動も活発だったが、フランスもスト参加者にしばしば銃撃を加えた。

  • 3/17エッセンでフランス軍兵士、路上で狙撃・死亡
  • 3/31エッセンのクルップ工場で労働者とフランス軍衝突 ドイツ側死者10人
  • 4/18ミュールハイム 市民とフランス軍衝突 ドイツ側死者5人

ドイツの残された地域の混乱は最早限界に達していた。クーノ内閣が退陣し右翼人民党党首シュトレーゼマンが、ワイマール三党以外から初めて首相に就任した。シュトレーゼンマンは国民に人気のある首相であり、人気のない政策を実施することができた。

1923年9月26日、シュトレーゼマンは受動的抵抗の停止を指令した。

フランスの表面的意図は達成された。シュトレーゼマンはドイツ人がそう呼ぶ履行政策(条約を遵守すること)を採用した。これはドイツの完敗のように見えた。

フランス軍の撤退

進駐の際、フランスは条約に基づいて賠償金が支払われるまで駐兵を継続すると宣言していた。ところが駐兵費用そのものが莫大な支出となった。つまり占領地から税金を取り立てることは新たな条約がなければ不可能である反面、支出は続く。

フランスはイギリスに働きかけ、ドイツが支払い可能な賠償金の新案を作ることを促した。シカゴの銀行家のドーズが呼ばれ、ドーズプランというアメリカのドイツへの借款とセットになった改正案が示された。内容にフランスは不満だった。

だがフランスは英米の圧力に屈した。フランス軍は1925年8月ラインラントから撤退した。


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