水没・地下水

1914年9月マルヌ会戦でドイツ軍は後退、エーヌ川の線まで退いた。その後北に向かい右翼から海岸に向かい再度包囲を試みた。しかしベルギー軍の予想外の抵抗、イギリス軍の増強で、右翼からの包囲=機動戦は失敗しニューポール付近のドーバー海峡からスイスまでの切れ目ない塹壕が出現した。

始めに塹壕の設営を命じたのはその時のドイツ軍参謀総長ファルケンハインで、ドイツ側のイニシアチブで始められた。このため低湿地のフランダースでやや標高の高い所にドイツ軍は塹壕を設営できたが、これに対抗すべく遅れて作り始めたイギリス軍は低地に塹壕を作らざるを得なくなった。

イギリス軍の塹壕のあった場所では地下1メートルで地下水が涌き出た。そしてイギリス軍の4年に及ぶ泥と水の戦いが始まった。といっても対策は底にスノコを敷くぐらいしかなく、ついに抜本的対策はたてられなかった。

そして塹壕水没を放置すると塹壕足症状が兵に現れた。塹壕周辺は常に砲火にさらされたから、弾丸孔で月面のようになりそこに水がたまった。そして水溜りが決壊すると塹壕に水がたまった.そして水を含んだ塹壕の胸壁は崩れやすくなり、しばしば崩壊した。

イギリス軍兵士はこの明らかにドイツ軍よりも悪い条件のなかで4年間戦うことになる。もちろんイープル突起部を放棄すれば、イギリス軍は好条件で戦うことができた。しかしイープルはわずかに残されたベルギー領土のなかにあった。ベルギー中立侵犯を理由に参戦したイギリスにとり放棄は選択になかった。これも戦争の不条理だろうか。

ひざまで水につかる塹壕1917年イープル突起部

証言
インピー大尉…ロイヤルサセックス連隊
「塹壕はいつもぬれて冷たかった。ときどき地下壕も崩れ、スノコもなくなった。大隊は泥と水のうえで暮らさねばならなかった。」

リブゼイ初年兵…1915年3月6日付け両親への手紙
「塹壕はくるぶしまで水につかっていた。ところどころでは腰までだ。毎日穴掘り、土嚢詰め、胸壁作り、そして泥運びだ。不安となる時間もない。」

ポラード初年兵…1932年出版の本のなかで
「塹壕についたとき、半分泥と水で埋まっていた。排水作業にとりかかったが、困ったことは前にいたフランス兵がやたらに死体を胸壁や底に埋めたことだ。ツルハシを振るうたびに死体にぶちあたった。その臭いと言ったら…」

ベアンズファザー…「弾丸と野営」1916
「それは見たなかで最悪の塹壕だった。何人かが中にいた。よっかかって立ちながら、次のような状態にいた。敵は少なくとも200ヤード以内にいる。どこも真っ暗だ。雨は絶え間なく降り水は3フィートの深さに達する。だから皆腰まで水につかりながら立っている。前面の胸壁は泥の塊にすぎない。むしろ水のおかげで全てなくなったといってよい。皆全身ズブ濡れで、装備も携帯品もみな水のなかだ。皆そこにいた。ただ大戦争の必要な一部だと受け止めていたのだろう。皆不平をいうどころか一言も発しなかった。」

1915年頃イープル突起部のドイツの塹壕。完成度が高い。


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