交代制度
第1次大戦の兵士は一日中、第1線壕にいたわけではない。通常半日交代で、哨戒などに当たり、その後補助壕で休むか睡眠をとった。また場合によれば近くの宿泊所に戻ることもできた。また月中でも交代勤務となっており、イギリス軍の場合は16日単位で交代制度がとられていた。通常は8日間が前進壕、4日間予備壕、4日間後方だった。しかし、兵員が不足した場合は後方勤務が取り消され、前進壕勤務が多くなった。
前進壕にいること自体が大変に危険なことだった。塹壕戦で戦死した将兵の三分の一は突撃中でも、防御しているときでもなく、ただ待機中に死亡した。これは狙撃されての戦死も当然あるが、多くは突然、砲弾の直撃を受けて戦死した。第1線壕で掩蔽が施されているのは機関銃ポストぐらいだから、直撃はおろか破片を受ければひとたまりもなかった。また第1線壕の掩蔽施設では直撃には耐えられない。
また、時には味方の砲弾が飛んでくることがあった。当時野砲の最大射程距離は15kmぐらいで、重砲陣地・野砲陣地は第1線壕の後方10km前後にあった。敵味方は300メートル以内で近接して対峙しているから、わずかの計算相違で同士討ちが起こった。イギリス軍の誤射による戦死は5万人を越えると言われる。
証言
G.コパード初年兵…1915年6月 ロイヤル・ウエスト・サリー連隊
その日は『スタントゥー』で始まった。過去の経験では夜明けと夕刻が最も危険とされている。そういった時攻撃方は発見される前に十分距離を稼ぐことができる。夜明けか日没の30分前に、『スタントゥー』が命令され、全大隊に静かに行き渡る。こうして連合国の全戦線が交代勤務となるわけだ。
朝食のすぐ後、将校が来て当日の任務と作業の明細を説明する。だいたい小銃の分解・手入れのあと、穴掘りだ。塹壕での作業は終わりのない仕事だ。天気と敵のおかげで、修理・一段と深く、広く、頑丈にの繰りかえしだ。そして新規の補助壕も必要だ。そして後方からの食料と弾薬が年中行ったり来たりしている。
T.アレン少尉…1915年1月実家への手紙
塹壕というのはちょっと考えてで済むほど簡単なものではない。なにしろ4メートルを越えて直線のところはどこもない。行き止まり、将校用の地下壕、別の塹壕線とあらゆるしかけが作ってある。この迷路で互いに地面の奪い合いをしている。そのまま行ってドイツ軍の塹壕に紛れ込むこともあるかも。
N.ウッドロフ中尉…1914年11月3日、戦死の3日前の手紙
この2日間は地獄だ。ドイツ兵が前線を突破した。10人の士官が死んだ。昨日までに大隊は200人になってしまった。誰かもうすこしさまよい出ると良いのだが。私の小隊の士官は自分を除いて全員戦死だ。とにかく全然休んでいない。皆疲れ果てている。数日でもよいから予備壕に行きたい。
D.L.ローランド伍長…1918年2月5日、婚約者への手紙
たぶんあなたはここにいる兵士の気持ちを知りたがっていると思います。真実(このたわ言を上官が知れば私は銃殺ですが)は誰もここにある全てにうんざりだということです。もう愛国心の一かけらもなくなりました。ドイツ人がアルザスをとろうが、ベルギー人がとろうが、フランス人がとろうが、そんなことに興味はなくなりました。皆が望んでいることはやめて家に帰りたいことだけです。実際のところ、これは誇張ではありません、最大多数の最大意見は国内で暴動が起きて、国がどんな条件でもよいから和平を結ぶことです。
C.キャリントン中尉の1年間の行動実績
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場所 |
日数 |
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第1線壕 |
65 |
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補助壕 |
36 |
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予備壕 |
120 |
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後方 |
73 |
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休暇 |
17 |
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病院 |
10 |
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