ヘルメットと防具・軍服
第1次大戦では当初どこの軍隊も鉄製のヘルメットは着用していなかった。イギリス軍は通常の軍帽であり(日本ではなぜか高校生がかぶる)オーストリア軍・フランス軍はケピ(東京の地下鉄の勤務員が最近かぶる。また陸上自衛隊の制帽である)、ANZACとアメリカ軍は中折れ帽だが、アメリカ軍は恥じてすぐ着用をやめた。
このページでは他国のものよりユニークなドイツの装備を中心に扱いたい。
ピッケルハオベ
そしてドイツ軍は有名なピッケルハオベ(スパイク付き軍帽)を着用した。ドイツ軍の侵略性の象徴のようにみられたが、原型はフリードリッヒ・ウィルヘルム王によって、1842年、プロイセン軍の軍帽として制定された。この1842年ピッケルハオベは貴重品で数点しか残されていないが、極めて不評だった。
あまりにもスパイクが高く演習中まともにかぶっていることが不可能だったらしい。その後、1870年普仏戦争までにスパイクも短くなったが、その勝利とともにこの軍帽は有名となり各国に普及し、アメリカ陸軍も採用した。チリ陸軍の大統領警護隊は現在でも着用している。そしてスパイクはその後も短くなりつづけ、1890年に第1次大戦のときのスタイルとなった。
1914年頃のドイツ軍の塹壕;
ピッケルハオベをかぶっている。
ピッケルハオベは皮製で、黒く塗られている。連隊によって異なるマークが銀メッキされた真鍮で表面を覆っている。製法も凝ったもので厚手の牛皮を蒸して、プレスし何度も塗料を塗り固め、黒い光沢が出るまで磨くというものである。だが銀メッキが光を反射し、狙撃手の格好の目標となることは普仏戦争のときから気づかれていた。このため大戦前から演習時においてはキャンバス布で覆うことが指示された。大戦勃発時は布の色は一定せず、黄系統から緑系統まであらゆる色があったようだ。
マルヌ会戦以降、塹壕戦が開始された。そしてこの皮製のヘルメットは完全に戦闘に適していないことが判明した。まず塹壕戦となると脅威は殆ど上部から来る。榴散弾の破片でも狙撃による弾丸もすべて上部を襲う。にもかかわらずピッケルハオベは全く耐弾性がなかった。そしてアルゼンチンからの輸入が止まり、皮が入手難となった。また工程が複雑すぎてコストが高くついた。始めは代用品として薄いプレスした鉄が使われた。しかしこれでも耐弾性はなくまた塹壕内では皮と同じく耐久性に問題があった。
この事態はコストの点を除いては、他の交戦国も同一だった。塹壕戦の特徴は一つあげれば接近戦という点である。両軍は西部戦線の活発な地点では平均300メートルで相対峙した。見える敵への防御として既に打ち捨てられた古い中世的な防具が再度脚光を浴びるようになった。
鉄製のヘルメットもその一つである。最初に導入したのはフランス軍で、1915年3月アドリアンヘルメットの支給を開始、年末までに300万個を配布し終えた。このヘルメットはアドリアンのデザインによるもので、消防夫のヘルメットにヒントを得たという。この様式はセルビア軍、ロシア軍、イタリー軍、ベルギー軍に普及した。
イギリスは半年遅れ、1915年秋からブロディーヘルメットの支給を開始した。このヘルメットはブロディーにより考案されたもので、中世の騎士のものに範を置いたという。各国のうちでコストが低くまた直上部からの打撃に有効だった。材料はマグネシウム合金鉄で腐食に強くまた貫通にたいし剛性があった。このヘルメットをイギリス軍は1980年代まで愛用した。またアメリカ軍も1942年までこれである。
シュタールヘルム
ドイツの鉄製ヘルメットの採用は最も遅れた。遅れた理由はデザインに凝りすぎたためで、最終的にそのユニークな形状である石炭すくい型に決まった。名称のシュタールヘルムは鉄製(スティール)ヘルメットの意味で、なんの変哲もない。
形状は16世紀の騎士の兜かららしいが、はっきりしない。特徴は首までの保護を念頭においたことと横に2個のボッチをつけ空気循環と他の防具を取り付け可能としたことである。また材料はクロームニッケル合金鉄で、破壊剛性に優れているといわれ、当然コストも高い。また形状が複雑なためプレスだけで9工程を要したという。
配布はベルダン戦の直前、1916年2月からで1917年半ばには全員これを着用するようになった。この後数多くのマイナーチェンジがあったものの1935年までこの形が踏襲された。なお現在のアメリカ陸軍の戦車兵や空挺師団の兵士のヘルメットがこのシュタールヘルムに酷似している気がするが、気のせいだろうか。

ドイツ軍の制服
ドイツ軍の制服は極めて多彩であり、また連隊毎に特色があり古いものは中世からの伝統を残す肩章・バッチまた襟の縁取りなどを最後まで残した。
ところがこのような区別は容易に敵が部隊を識別することになり、索敵上の有利さを与えてしまう。このため参謀本部は制服の統一を図ったが、あまり成功したとは言えない。なぜならば新たに職務毎の服装差が生じたためである。現場は斥候兵と工兵では当然任務が違い服装に機能上の差が生じると主張した。
ともあれ複雑な制服の体系は最後まで残った。このためコレクターや写真家に人気のある原因ともなった。この傾向を有するのはアメリカ軍で現在でもあまり変わらない。一方、日・英・仏軍は単調である。この原因はこの三国とも気候が激しく違う地域での戦争が予定されたためだろう。夏・冬・本国・北方・南方とあって更に違いを加味されたらたまらない。
絵は左が1918年の通信隊のプロイセン様式の将校(乗馬が想定され先窄みのズボンと拍車のある長靴を着用した)、中央はプロイセン様式の歩兵・突撃隊仕様である。右はワイマール共和国の歩兵で、旧帝国のものとは一新した。
一目でわかる違いは旧帝政期のものは胸ポケットがなくワイマール期のものは両胸にある。また将校服の袖口には、ボタンで留めるフラップ(ヒラヒラした矢印状のもの)がある。これはブランデンブルグ様式と言われ1910年ワッフェンロック(軍服)が正式の名称である。日本でも古い様式の学生服などにまだついている。兵卒用にはこれがなく、折り返すのが普通である。
プロイセンの騎兵将校は特色のある先窄みタイプのズボンを着用した。このズボン形式はなぜか大戦以降はソ連赤軍騎兵将校のみが愛用した。現在も残っている国は北朝鮮のみではないかと言われる。
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