砲撃

第1次大戦の砲撃は見方が二つに分かれる。すなわち塹壕に立てこもる歩兵に無力だったという説と、騎兵が後退したあと戦場で決定的な兵器になったという有力説である。

これは砲兵の二つの面を表現していると言える。つまり打撃力はあるが制圧力がないという点である。歩兵は第1次大戦では(でも)消耗部品であって、たとえ減耗しても補充すればよいという残酷な思考にたっていた。

砲兵がいくら歩兵をたたいても、予備隊が追いつけないほどの速度の達成または量を破壊しない限り前線突破はできない。そして論争は前線突破が必要か否かに移る。銃後では砲弾の量確保が主眼となり、西部戦線では4年近く人命と砲弾の消耗戦が続いた。

砲の分類は多種でまた国により異なる。この時代の最大の技術革新は水圧式の駐退機の発明だった。これにより砲の発射反動による後退が砲全体でなく砲身だけとなった。第1次大戦では野砲ではこの駐退機付きが各国とも主流となり、当時は速射砲といわれた。

このタイプの砲の出現により砲弾の消費量が著しく増大したことは否定できない。ところが後世でいう自走砲は内燃機関の出力不足から実現せず、機動性は人と馬に制約された。砲は人よりも機動性が劣りこのことが機動戦が西部戦線で発生しなかった理由の一つにあげられる。

ところが砲弾のほうは現在使われている砲弾と大差なく進歩した。榴散弾、散弾(時限信管を用いて爆発させ空中でボール玉を飛散させる。)、徹甲弾の三種は実現し広範囲に使用された。火薬も綿火薬、ピクリン酸と進化しTNTで究極の火薬となったようだ。また火薬の主用原料である窒素についてはドイツ化学者により空中窒素の固定法が発明され、硝石による制約がなくなった。

砲は野砲(移動可能)重砲(移動困難)山砲(野砲より軽量)騎砲(更に軽量)と分けられる。日本ではこの他に直線軌道か放物線かでキャノン(加農)砲、榴弾砲(曲射)砲、臼砲(移動不可)に分類した。臼砲(28センチ臼砲が有名だが要塞攻撃に使用)を除けば、キャノン砲と榴弾砲が更に野砲などに分類されることになる。

砲兵は照準と陣地設定で特殊な能力が要求された。またこの時代から直接照準から間接に移行した。このため砲兵陣地は前進塹壕からは10km程後方にあり、歩兵とくらべれば危険のすくない仕事だった。第2次大戦のように浸透されたり、航空機から狙われたり、いきなりロケット砲で面射撃を受けたりいうこともなく、牧歌的な最後の時代かもしれない。

砲の軌道による分類は各国によって異なるが、野砲(75ミリから77ミリ)と曲射砲(ホウイッツァー:日本でいう榴弾砲)と2分類したものが多い。野砲は前進壕に近接設置され歩兵が前進するのにも後続した。西部戦線ではフランスの75(ミリ野砲)が圧倒的に有名でその高性能を誇った。フランスの軍律に退却は砲兵が後退するまで許されないとあり、この砲にたいする愛着がよくわかる。また日本でいう歩兵砲または迫撃砲はドイツがやや多用しただけで余り使われていない。まだロケット推進はないが撃針を起こして爆破・推進するものは実用化されていた。

フランスの75:その優秀な駐退機が高速射撃を実現させた。砲兵のうち一人はアドレアンヘルメットをかぶっている。後方の薬莢の山はこの砲の高性能を物語る。

10km後方から間接照準で砲撃するより、前進壕にいる歩兵が高い放物線とはいえ接近して迫撃砲を発射した方が命中するのは当然である。ドイツはミネンベーファーと呼ばれる各種口径にものを初期から投入した。これは初期モデルから弾道を安定させるために羽がついていた。フランスもドュメーツルと呼ばれる迫撃砲を1916年に導入した。イギリスは日本からも輸入するなど実験したようだがストークスというモデルをようやく後半になって実用化させた。

大戦も後半期に入ると長時間連続射撃はすたれ、一点に集中して短時間砲撃を行う方法が流行した。これは這う射撃と呼ばれるもので地下壕を完全に破壊することは無理なので、第1線壕にいる敵をまず倒し、そこを制圧し次に砲撃を徐々に前進させることを狙った。

はじめは野砲そのものを前進させ1日数キロメートル単位の前進を狙ったが縦深陣地を築かれ失敗、次には攻撃地点の後方に何段階もの各種重砲・野砲を構える方法が取られた。このため1キロメートルの攻撃予定地点に100門を越える各種砲が集められた。これは10メートルに1門である。当時臼砲を除いては1分に1発は発射できたから威力は容易に想像できる。だがこうなると前進させた砲は敵の射程距離にはいり砲兵も敵弾の直撃を受けるようになった。

ブルフミューラーの砲術

第1次大戦は、狭い面積への弾丸集中度は第2次大戦より濃かった。また朝鮮動乱を除けば、戦闘人員当たりの被砲弾量も一番多かったのではないか。

砲弾恐怖症(シェルショック)

1914年の開戦初期、砲弾恐怖症という症状が何人かの兵士に現れたことが報告された。症状ははき気、興奮、めまい、集中力欠如、頭痛だった。状況によっては砲弾恐怖症に陥った兵士は精神的に前進壕での勤務が困難となった。ある医師は高速の砲弾が真空を生じ、脳髄液が片寄ることによって引き起こされると主張した。

また治療法は前線勤務から下がり後方で休養するしかないように見えた。だが大半の司令部は患者が臆病者で戦闘から離脱したいので意図的にそうしているのだとみなした。

イギリス軍の1918年までの調査によると約2%の兵士が砲弾恐怖症にかかったとされる。

だが大戦期間中はこれらの兵士は悪意ある戦場離脱者とみなされ、むしろ最前線に送られた。何人かは自殺に追い込まれたという。またいくつかのケースでは圧力に負け脱走を計り、その場で射殺さるか軍法会議に付された。そして多くは野戦処罰NO1といわれる罰を受けた。これは敵の砲の射程内に対象者を固定物に拘束する罰である。

証言
ヘンリー・グレゴリー伍長
野戦病院にいたとき始めて砲弾恐怖症の患者をみた。敵は午後のなると毎度長距離砲で撃ってきた。最初の弾着で患者は錯乱状態になってしまう。絶叫して荒れ狂うので8人がかりで取り押さえた。弾丸が飛んでくるたびに悲鳴をあげどこかに逃げようとする。
患者を見ているだけでつらくなる。恐怖の表情は描写不能だ。顔中の筋肉がひきつり、歯をガタガタ鳴らしている。
砲弾恐怖症の原因はいろいろあると言われている。睡眠不足・間断なしの砲撃・ノミ、シラミ・不規則な食事だ。患者の頭は次の砲弾は自分に命中しそれで最後だという妄想に占められているのだろう。


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