7月28日オーストリアはセルビアに宣戦布告した。しかしこの時点では参謀総長のコンラートは動員に時間がかかるため、宣戦を布告しても作戦は実施できないことを外相のベルヒトルトに通告していた。実際はコンラートの鉄道官吏への命令が二転三転したため更に遅れ動員令自体が8月4日となった。
ところがドイツの反応、とくに軍部のそれは全くオーストリアの想像を超えたものだった。
7月26日オーストリアの最後通牒にセルビアが回答した翌日、ドイツ参謀総長小モルトケはなんと一日をかけてベルギーへ無害通行を要求する最後通牒の案を起草していた。小モルトケは前日、温泉への休暇旅行から戻ったばかりだった。
小モルトケの頭にはすでにシュリーフェンプラン(改)を効率よく実施に移すことしかなかったのだ。だが刻下の問題はセルビアをめぐってのものにすぎない。ウィルヘルム二世も首相ベートマンホルベークもシュリーフェンプランの説明を受けていたが実際こういうことだ、とは思っていなかったのではないか。
7月28日中に草稿はできあがり、外務省とベートマンによる修正と承認が加えられた。翌日には秘密クーリエにより指示のあるまで金庫保管とし封印のまま駐ベルギー大使に渡された。この事務処理の優秀さはドイツ民族特有のものだろうか。
内容は次の通り。
「ドイツは信頼すべき筋からフランス軍がナミュール‐ジベットの線を越えてベルギー領内に侵攻している、という情報に接している。ベルギー軍はこの強力な敵に抗すべくもなく、ドイツは自衛のためこの敵対行動に対処せざるを得ない。もしベルギーがこのドイツ軍のベルギー領内への突入を敵対行動とみなすならば、ドイツは非常に遺憾に思う。反対にベルギーが好意的な中立を保つなら、ドイツは和平達成後すみやかに、ベルギー領から撤退する義務を負う。そしてあらゆるドイツ軍による損害を補償するとともに、ベルギー王国の主権と独立を尊重する。もしベルギーがドイツ軍の通行を阻害するならばドイツはベルギーを敵国とみなし、両国の関係は武力で決せられることになろう。12時間以内の取り消し不能条件での回答を要求する。」
極めてプロイセン的レトリックの脅迫であった。
8月2日、ドイツ駐ベルギー大使ベロウは、この最後通牒をベルギー政府に手渡し、12時間以内にベルギー政府の反応を電信で連絡すること、および自動車で国境を越えアーヘンのロイヤルホテルに滞在するエミッヒ(リエージュ攻城臨時編成軍司令官)にベルギー政府の回答を手渡すこと、の三点の指示を受けた。
前日、ベロウはベルギー外相ダビグノンからドイツ軍のルクセンブルグ侵攻について詰問され、「隣の家の屋根は火がついているかもしれないが、あなたの家はまだ安全だ。」と答えたばかりだった。
ベロウは8月2日午後7時、リドラ‐ロアにあるベルギー外務省を訪問、最後通牒をダビグノンに手渡した。文書が大臣室に入ると直ちに翻訳され、秘書により大声で読み上げられた。間違いなく無害通行を要求する最後通牒だった。そこに首相兼陸相のブロンカビルが入室した。
すぐに選択肢は誰にもわかった。もし拒絶すれば、自軍の十倍が予想されるドイツ軍の侵攻にさらされる。屈服すれば、フランスを敵にまわすことになり、また和平後ドイツが無事に占領を解除するかの保証はない。更に名誉が失われる。これは誰にもわかる厳しい決断だった。
ブロンカビルは草稿をもちただちにアルベール国王との面会に向かった。そして数種の回答につき草案の検討が始まった。アルベールはこの時代のどの王家のメンバーにも似ていない傾向を有していた。極めて向学心に燃えまたアウトドアースポーツとりわけ山登りを愛好した。読書は習慣として1日2冊を越え範囲は純文学から軍事学に及んだ。
また領内の炭坑員や繊維工場の女工と親しく交際しまたコンゴ植民地にも足を運んだ。これらは立憲君主としてはむしろ似つかわしくないかもしれない。しかし独立後75年間とまだ日が浅い小王国にとって断固たる判断力をもつ君主をもったことは幸運だったと思われる。
午後9時国王主宰の閣議が開かれた。国王は開口一番、「回答はNOだ。領土保全は我々の義務だ。」と言いきった。首相のブロンカビルも「戦争終了後のドイツの約束など信じてはいけない。やつらは必ずベルギーを併合する。」と付け加えた。
閣議は夜12時に一旦散会し、首相ブロンカビル、外相ダビグノンと法相の三人が外務省で回答案の検討にうつった。
すると午前1時半ドイツ大使ベロウが再び外務省を訪れた。ベロウの訪問は本国の不安を反映したもので、無害通行のためにダメを押す目的だった。ベロウはドイツ本国がフランスによって空襲されている、と説明した。ダビグノンは空襲がドイツ向けであれば我々に関係がない、といってベロウを午前2時追い返した。
午前2半回答草案について閣議が再開された。回答は、あらゆる主権侵害にたいし断固として戦う、さもなくばベルギーはヨーロッパにおける義務を放擲し、名誉を失うことになるという徹底したものだった、会議は最後、国王が実際にドイツ軍がベルギー領内に入ってから、他の中立保証国に援助を要請すべきだという点を主張し紛糾した。しかし国王は主張を押し通した。アルベール国王の中立に対する一貫した考えが早くも覗える。
8月3日午前4時ようやく太陽が出たとき閣議は終了した。ダビグノンは清書ののち、きっかり指定の時刻午前7時に秘書にドイツ大使館まで回答を渡させた。その時までには全世界の通信社にドイツの最後通牒とベルギーの回答が、ベルギー外務省から発表された。
しかしブロンカビル首相は、断固たる回答によってドイツ軍がベルギー領内をかすめるだけで侵入してこないかもしれないという最後の期待を持っていた。だが午後、ウィルヘルム二世の国王への親書が到着し全てが打ち砕かれた。「まだ時間は残っている。無害通行を認めよ。」という内容だった。
アルベール国王は「人を何だと思っているのだ。」と激怒した。ただちに共通国境とルクセンブルグ国境へ通じる鉄道の橋梁とトンネルの破壊を命令した。しかし一方で他国への支援要請はドイツ兵が入るまで、ストップさせた。
8月4日、イギリスのグレイ外相も前日の議会の承認を得て、ベルギーの中立侵犯があれば、参戦することを決めていた。しかしドイツのベルギーへの最後通牒を見てもまだイギリス側から行動を起こすことは躊躇した。フランスに至っては、ベルギーへの最後通牒は、フランスに先にベルギーに侵入させ、イギリスとの決定的な離反を招く策略とみなした。アルベール国王の発想にも、仮にフランスに支援要請を行ってフランス軍が来援しその後ドイツの侵攻がなかったらばという恐れがあった。
一方ドイツでは小モルトケが、フランスと戦争をしたならば(ロシアではない!)イギリスはベルギーの中立侵犯と関係なく参戦すると説いて回っていた。最後にはイギリス兵が大陸の多く来た方がよい。なぜならばより多くの兵を包囲戦で捕虜にできると力説した。
小モルトケは自分のシュリーフェンプラン(改)の実施のためにはあらゆる詭弁を動員した。このあたりは英米一体論を唱えて太平洋戦争に突入した旧日本海軍に酷似している。事実(もちろんその時は小モルトケを始めとしてドイツ人は知らない。)は英・仏とも参戦自体に懐疑的だったのだ。おそらくフランスはオーストリアがセルビアだけを攻撃すればたとえロシアがどう出ようとも参戦しなかったのではないか。またベルギーの中立侵犯がなければ少なくともイギリスは当座には参戦しなかった。そして当座でなければマルヌ会戦にBEFは間に合わなかったのだ。ここに作戦主導主義の恐ろしさがある。
英仏露を敵にまわしたことを知り、ドイツ社会民主党はすでに戦争賛成に回っていたが、無能外交と政府を非難した。徹底反対をしなかった責任はあるが、これは外交官の責任ではなく参謀総長と参謀本部の責任だろう。
ただ外交官は軍部に必要性を説かれると、安易に国益と錯覚し妥協しがちである。同盟するよりも打ち切ることの方が楽に決まっているからだ。だが戦争で敵が少なくなれば勝利の公算が大きくなるのは当然だ。また外交官と軍人は不思議とウマがあうようだ。イギリスやアメリカは味方にすべきだと考えるフランス人の方が健全ではないか。
8月4日午前8時20分、ドイツ軍はゲメリッヒでベルギー国境を突破した。ベルギーの国境警備隊も直ちに応戦した。局地戦争でないヨーロッパ戦争が開始された。そして最後まで平和をあきらめなかった人々の期待をも打ち砕いた。

Bassompierre,Baron Alfred de,The Nights of August 2-3,1914
at the Belgian Foreign Office, (tr.)London, 1916
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リエージュ要塞