サラェボ7人の刺客


サラェボ事件でテロリストとして参加した7人は、イリイッチを除いて未成年で、ほとんどが結核を病んでいた。メフメトバシッチだけはイスラム教徒のサーブ=クロアチア人だが残りはイスラム教徒ではない。セルビア人とクロアチア人は同じサーブ=クロアチア語を話すが、一般にセルビア人はギリシャ正教徒でクロアチア人はカトリック教徒である。

またセルビア人は文章にキリル文字を使うが、クロアチア人はローマ字である。この関係でセルビア人とクロアチア人を区別するのは難しい。刺客たちはメフメトバッシチを除きオーストリア官憲に全員逮捕されたが、名前はキリル文字表記で発表された。それでも全員がセルビア系とは断言できない。

1. プリンチップ Princip, Gavriro (1894-1918)
2. チャブリノビッチ Cabrinovic、Nedjelko (1895-1916)
3. グラベッツ Grabez, Trifko (1896-1918)
4. イリイッチ Ilic, Danilo (1891-1915)
5. ポポビッチ Popovic、Cvijetko (1897-?)
6. チュブリロビッチ Cubrilovic、Vaso (1897-1990)
7. メフメトバシッチ Mehmedbasic, Mohammed (1887-ca1940)

以上7人のうち1.−3.と4.−7.は行動で違いがみられる。1.−3.のうちプリンチップはまさに実行犯であるし、チャブリノビッチは第1回の爆弾投擲を実行している。グラベッツは実行に失敗し、獄中で反省もしているが、セルビア国家主義者を通した。また未成年であるが1年違いで同年齢である。そして奇怪であるが獄中とはいえ全員結核で死亡している。すでに3人とも事件当時発病していたといわれる。プリンチップとチャブリノビッチは官憲の追及にも耐え、ついに一切の自供を拒んだ。これが事件の全容解明を難しくしている主因である。

三人は友人であるが、ベオグラードで知り合っている。契機はセルビア陸軍のタンコシッチ少佐を介してと思われる。タンコシッチはブラックハンドの一員であるが、明確に軍の任務としてスパイやテロリストの訓練を行っていた。

これが政府機関であるのかブラックハンドの私的なものかは判別しがたいが、文民政府の支配を受けない政府機関だったようだ。三人はついに完全に自供しないで死んだが、この時テロリストとしての訓練をうけた可能性が高い。とするとタンコシッチは三人の寿命がいくばくもないことを計算していたかもしれない。

またチャブリノビッチの父はオーストリア警察のスパイだったらしい。14歳で中学を卒業すると、父親は無理に学業をやめさせ、徒弟に出した。ところが配管工や印刷工と仕事を転々とするが、どれも雇い主と衝突しうまく行かなかった。そしてベオグラードに流れていったが、そこで無政府主義者の経営する印刷所に勤めた。その後またサラェボに戻るが、そこで印刷工のストに関係した証拠がある。チャブリノビッチの主義はこのように無政府主義、社会主義、国家主義と定まらない。再度ベオグラードに戻ったとき、タンコシッチ少佐と知り合った.。

グラベッツ(グラベッジに近い発音が正しい)はギリシャ正教の高僧を父にもった。グラベッツは中学を卒業すると、高校就学のためベオグラードに行った。中学で教師を殴打し実刑判決をうけていて、父は転居を望んだのかもしれない。タンコシッチとどのように知り合ったのかは不明である。

ベオグラードの公園での写真;右がプリンチップ、中央がグラベッツ、左は友人 1914年5月とられた。

主犯のプリンチップは郵便局員を父としてもち9人の子供の4番目として生まれた。中学を1912年卒業し、ベオグラードに行きタンコシッチ少佐と知り合う。この時は年齢が低く訓練をうけただけだったようだ。1914年、フェルディナンド大公のサラェボ訪問計画を知り暗殺をタンコシッチにもちかけた。そしてタンコシッチが、訓練期間中の二人を紹介したようだ。あるいは以前から知っていたかは、はっきりしない。

残りの4人はイリイッチを介して後で参加した。このように始めからプリンチップがリーダーであることは疑いない。プリンチップはその後も巧みにリーダーシップを発揮した。殺人をほとんど単独で成功させかつ公判でも活躍した。イリイッチを除き未成年であったため、懲役10年以上の有期刑(大逆罪)に限定されていた強みもあった。イリイッチは成年のため、死刑を求刑され自白したが、それをプリンチップは他の被告へ波及するのをよく食い止めている。

プリンチップは最後の公判でこう述べた。
罪を軽くしようとして、人は他人に教唆されたものだと言いたがる。それが真実を遠ざける。アイデアは我々の頭に生まれ、そして実行した。我々は人民を愛している。私は自分の刑を軽くするため何かしようとは思わない。

ヒロイズムで近く予想される死を飾ろうとしているかのようだ。このプリンチップという暗殺者をどうしても好きになれない。フェルディナンド大公を暗殺するのはよいとしてなぜゾフィー大公妃を殺さねばならないのか。そこが分からない。また誤って大公妃を殺したとしてなぜそれについて語らないのか、そこも分からない。

だがこの断固たる態度に敬意は表さねばなるまい。セルビアの国士であることは間違いない。

プリンチップが収監されたテレジエンシュタット監獄内部

収監された独房の前。後日プレートが埋め込まれた。

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残りの四人のうち中心人物はイリイッチである。イリイッチは他の三人を勧誘して、参加させたが、自らは現場の監視役をつとめただけで実行には参加していない。また四人のうちイリイッチは処刑され、メフメトバシッチは逃亡に成功した。残り二人は戦後出所し、第2次大戦以降まで生き延びている。

イリイッチは元教師で、新聞社につとめていた。そしてブラックハンドのメンバーであったことを自白している。しかし活動歴はそう重いものではなく、重要なのはタンコシッチ少佐と知り合いだったことである。この線からプリンチップ以下の三人と暗殺計画を知った。

イリイッチは高校生のチュブリロビッチとポポビッチを勧誘し、爆弾・銃・青酸アンプルの使用法を1日コースで教えた。メフメドバシッチは以前ブラックハンドの計画に参加したことがあり、サラェボ在住者としてタンコシッチが選にいれた。タンコシッチはプリンチップ三人組だとベオグラード色が強くなりすぎるため、地元四人を加えたのだろう。

イリイッチは暗殺後、自宅で息をひそめていたが、9日後逮捕された。イリイッチは実行の前プリンチップを自宅に宿泊させており、警察の関知するところとなった。現行犯と逃亡に成功したメフメトバシッチを除いて、全員イリイッチの自供にもとづき捕縛された。

たぶん死刑を恐れたのか、罪を軽減するため全て自白したようにみえるがセルビアの関与を真実以上に語った可能性もある。1915年大逆罪で有罪とされサラェボ監獄で絞首刑による死刑を執行された。

チュブリロビッチは懲役16年を宣告されたが、オーストリア政府の崩壊に伴い出所した。その後大学教授となり、チトー政権下で森林相をつとめた。

チュブリロビッチの証言

ポポビッチも13年の刑を宣告されたが戦後出所した。その後サラェボ博物館の民俗学館の館長をつとめた。

最後のメフメトバシッチの事件後の行動はこの事件の背景について、ある程度のことを教える。

メフメトバシッチは1914年1月のポテイオレック ボスニア総督の暗殺未遂事件にも関与した。しかし警察官を目にして、短刀を捨ててしまったという。サライェボ事件の際も、爆弾投擲に成功したチャブリノビッチの前に配置されていたが、何もせずに終わった。事件後メフメトバシッチはモンテネグロまで逃亡した。そこで暗殺について自慢してまわった。オーストリア政府は交戦中にもかかわず、モンテネグロに本国送還を要求した。モンテネグロ政府は対策に苦慮したが、メフメトバシッチは再度脱出に成功、サロニカに向かった。

ブラックハンド

当時サロニカは英仏軍と敗残のセルビア軍が駐留していた。メフメトバシッチは元の雇い主タンコシッチが戦死したことを知り、その先の親分アピスことディミトリエビッチ大佐(この時セルビア第3軍参謀長)を頼ったのだ。

しかし、1917年アレクサンダー王暗殺のかどでブラックハンドの首領アピス(ディミトリエビッチ)が逮捕され連座、再び実行犯の嫌疑がかかった。そして15年の刑を宣告されたが、1919年釈放された。その後サラェボに戻り園芸店を開いたようである。第2次大戦のいつか確認できないときに死亡した。たぶんメフメトバシッチは金銭で雇われた唯一のタンコシッチのエージェントだろう。 

                                    (別宮 暖朗)



Gilford, H., The Black Hand at Sarajevo, Indianapolis, 1975

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