セルビア小史
近代セルビアに歴史は1683年オスマン帝国軍のウィーン包囲の失敗から始まった。この後ハプスブルグ家を盟主とする神聖ローマ帝国軍はオスマン帝国に何回か重要な勝利を収める。とくに1697年オイゲン公はツェンタの戦いで勝利し1699年カルロビッツの講和を結ぶ。
セルビア人はどこから来たか
この講和によってハプスブルグ家はハンガリーの王位を確かなものにし、またオスマン帝国の膨張に対抗する北部の防波堤としての役割を自他ともに認めた。そしてオスマン帝国はこれ以降縮小の一途を歩むことになる。
この講和でも現在の旧ユーゴスラビア一帯はオスマン帝国領とされたが、セルビア人はギリシャ正教会を軸に広汎な自治を獲得した。ただしオスマン帝国は元来宗教には干渉しない方針で、他宗教の地域にはこれと同様の自治を以前から他地域では認めていた。
ところがセルビア人のうちバルカン半島で最後まで抵抗しまた山岳地帯への逃亡に成功した者はモンテネグロを名乗り全期間独立をまっとうした。更にジェノアを中心するイタリー諸都市と連合し、平野にも再三侵攻した。このためオスマン帝国はセルビア人に対する警戒心を解かなかった。これはアルバニア人やルーマニア人に対するものと際立って違っていた。
だがハプスブルグ帝国との緊張はそれを許さず、緩衝地帯としての役割をセルビア人にもたせることになった。この時からハプスブルグ家に寄って独立を達成するか、ハプスブルグ家の膨張にたいする防壁となるかの運命的な選択に迫られることになる。
そしてオスマン帝国の背後でロシアの勢力が増大してくると、バルカン半島は三帝国の接点の位置を占める形となった。ロシアの膨張は第1次ポーランドの分割(1772年)から始まり最終的にポーランドを消滅させた。この膨張はバルカンの諸民族にはむしろ好機と受けとめられた。ハプスブルグ帝国とオスマン帝国の双方がロシアと対抗せねばならずバルカン半島に真空状況が生じるかに見えた。
1792年のフランス大革命はバルカン半島に新たな啓蒙主義の機運をもたらした。独立と政治的自由の双方を同時に達成する好機と知識人は説いた。
カラジョルジェ(黒いジョージ)
1804年、カラジョルジェ(黒いジョージ)と呼ばれたジョルジェ・ペトロビッチに率いられたセルビア人はオスマン帝国に反乱を起こした。戦いはセルビア人に有利な展開でジョルジェはロシアに救援を求めた。しかしナポレオンの脅威が存在するところで、新たにオスマン帝国と戦いを起こすことはできず、ロシアは拒絶した。1813年反乱は最終的に鎮圧され、ジョルジェはハンガリーに逃れた。
髑髏の塔
カラジョルジェ(Karadjordje
Petrovic c.1768-1817)
カラジョルジェは農民の出身で、後家畜商人。義父はトルコ兵に殺されている。反乱中、弟を強姦のかどで絞首し、門外につるし来客のみせしめにしたなど、正義漢である反面乱暴な人物だったとされる。反乱の事情は他のバルカンの内乱と同じように極めて複雑である。墺土戦争(1788−1791)でオーストリアはセルビア人に独立を約束しセルビア人義勇軍を組織したがナポレオンの脅威の前にシストバの和約を結びオスマン帝国と講和した。しかしベオグラードを中心とする区域(パシャリク)ではイェニサリが反乱を起こした。これに対抗してスルタン・セリムは自治を含む懐柔策をセルビア人に示した。その時までにカラジョルジェはオーストリアの組織した義勇軍からトルコ組織の反イェニサリ軍に転じていた。しかしイェニサリのリーダー、ダヒスはいち早く反撃に出てセルビア人指導者150人を処刑した。カラジョルジェは、その後残されたなかから、始めはむしろスルタン・セリムの組織した反イェニサリ軍の指導者として登場した。
1815年セルビア人は再度ミロシュ・オブレノビッチに率いられ立ちあがった。ミロシュはただの武人ではなく優れた政治家でもあった。1817年トルコに宗主権を認め臣従し、貢納金を収める見かえりにセルビア総督の地位を得て、セルビア公国を自称するに至った。しかし一方で政敵であったジョルジェを暗殺した。
オブレノビッチ朝の成立
ミロシュはオスマン帝国と妥協しながら国内での改革を進めていった。1820年にスルタンから『セルビア人の君主にしてベオグラード公』の称号を得た。1826年のアッケルマン条約1829年のアドリアノープル条約、そして1830年のスルタンの勅令により議会(スクプチーナ)の開催が認められた。また常備軍の保有をオスマン帝国の軍の一部であるという名目で勝ち得た。そして1832年セルビア正教会はコンスタンチノープルからの独立を果たしセルビア正教総主教はセルビア公国内部の聖職者の互選で選ばれることになった。
ミロシュ・オブレノビッチ(Milos
Obrenovic 1783-1840)
こうしてセルビア人はオスマン帝国からの独立をほぼ自力で達成するに至る。しかしその半独立というアジア的形態は西ヨーロッパの列強の認めるところとはならず、1814年のウィーン会議でもオスマン帝国の一部として無視される存在だった。
ミロシュは極めて貴族層には強権的で1832年、貴族の一切の特権を廃止し、封建制度を取り除き中央集権制度に改めた。しかしこの改革は知識人には不評で、反ミロシュ感情からカラジョルジェビッチ家に支持を集める結果となった。
1842年議会はセルビア公にアレクサンダー・カラジョルジェビッチを選び、翌年またミロシュ・オブレノビッチが復位するなど王位は混乱した。しかし1820年以来サーブ・クロアチア語による初等教育の実施に力をいれるなど、改革は着実に進行した。そして1869年憲法を採択、立憲君主国となった。
歴代王家にとり無視できない問題は域外とりわけオーストリア−ハンガリー領内のセルビア人およびクロアチア人の問題だった。相次ぐ改革を実施しても、文化面・経済面でオーストリア領内のセルビア人が一歩先んじているのは明らかだった。貧しい側からの裕福な地域の吸収は常に大波乱を伴う。
1875年ヘルツェゴビナで住民暴動が発生した。この時オスマン帝国は慢性的な対外債務の支払いに悩んでおり大幅な増税を実施した。暴動はこれに反対するものでまたたくまにバルカン半島全域に広がった。とくにブルガリアとボスニア・ヘルツェゴビナでの暴動は収まらず、セルビアは義勇軍をボスニアに派遣した。1876年にはいるとセルビア・モンテネグロ連合軍はオスマン帝国軍と公然たる交戦状態に入った。
1876年ロシア外相ゴルチャコフとオーストリア外相アンドラーシは、ボスニア・ヘルツェゴビナをオーストリアの影響下におき、ブルガリアをロシアのそれにおくことで妥協が成立した。一方この秘密外交を知らないイギリスはオスマン帝国の存続、コンスタンチノープルからのロシア勢力の排除を前提に外交活動を続けた。
このイギリスのオスマン帝国存続策に反発しオーストリアとロシアはキリスト教徒の保護を訴える共同戦線を張った。1877年4月、ロシアはイスラム教徒の民兵組織『バシボズク』がブルガリアで虐殺事件を引き起こすに及び、トルコに宣戦を布告した。(ロシアはオスマン帝国全体を一つの帝国とみなさず、トルコが敵対国だとして交戦状態にはいる。露土戦争)
露土戦争
ロシアはプレブナでしくじったもののコーカサスとブルガリアの二手に軍を分け好調に進軍を続け、アルメニアとブルガリアを占領した。トルコは和を乞い1878年3月サン・ステファノ条約に調印した。
この条約でバルカン半島にある半独立国が完全な独立を得た。セルビア、ルーマニアとモンテネグロである。またブルガリアが独立した。そしてセルビア、ルーマニアは僅かに領土を増やした。またロシアはコーカサスのカルスとバツーミ、並びにベッサラビアを得た。そしてオーストリアはロシアとの秘密協約によりボスニア・ヘルツェゴビナの管理権を得た。しかしディズレリを首相とするイギリスはサン・ステファノ条約の破棄を主張し、1876年6月ベルリン会議が開かれた。
西ヨーロッパ諸国の共同の圧力にロシアは屈しサン・ステファノ条約の破棄に合意し、セルビアはニシュを含む南部、モンテネグロはアンティバリ港を除く獲得領土を手放した。またブルガリアは細分化され、大ブルガリアの夢は挫折した。ロシアは新領土を確保したものの海峡への道は厳しくなった。
このベルリン会議でまたオーストリアはロシアとの密約を裏切り、西ヨーロッパ諸国に味方した。このことにロシアは恨みを含むと共に、他のバルカン諸国もトルコの次の敵をオーストリアとみなすようになった。またトルコはイギリスの干渉に感謝しキプロスをイギリスの植民地としてさしだした。
1882年ミラン・オブレノビッチは国王となり国号もセルビア王国となった。
議会では親オーストリアの自由党と親露の急進党に分かれていた。1883年議会で急進党が勝利したにもかかわらずミラン国王は急進党に内閣を組閣させず、それに反発した農民暴動が発生した。この暴動は簡単に鎮圧されたが1888年、国王がロシア人王妃ナターリャを離別すると国民の間の反感は高まった。1889年高まる反対に抗しきれず、ミラン国王はまだ12歳の王子アレクサンダーに王位を譲った。国政は摂政会議に委ねられたが政争は収まらなかった。
1892年成年に達したとみられたアレクサンダーは親政に乗り出した。しかし方針は時代錯誤の専制主義で議会多数派の急進党は落胆した。1894年ある青年将校と離婚したドラガ・マシーンとアレクサンダーが1900年結婚すると隠然たる不安が生じた。
ドラガは策謀家で政治に干渉した。急進党は弾圧され多くが投獄された。1903年6月10日深夜、クーデターが発生した。
5月クーデター
ピーター国王(1844−1921)
クーデターは成功した。
カラジョルジェ朝の復辟
議会は事件のあと満場一致(!)でカラジョルジェビッチ家のピーターを国王として迎えることを決めた。ピーターはフランスに長く亡命していたがフランス軍に加わり軍功をたてると同時に極めて教養にあふれる人物で、スチュワート・ミルの著作をセルビア語に翻訳したと言われる。
外交的には親仏・親露的傾向が強く、オブレノビッチ家の親オーストリア的傾向と対極をなす。内政面は開明的で一旦廃止された1889年憲法を復活した。また地方行政制度も一定の改革を実施した。急進党のパシッチを重用、また二度のバルカン戦争に勝利し第1次大戦まで比較的政情は一応安定していた。
セルビア人は伝承によれば一世紀にローマ皇帝ヘラクリトスに招かれてバルカン半島に定着したとされる。また言語的にはスロベニア人とクロアチア人と同一であることは疑いを容れない。ただし近時スロベニア人は大幅にドイツ系語彙を取り入れたため、文章語としては相互理解が難しくなっている。スロベニア人とクロアチア人はローマ字を使うが、セルビア人はキリル文字を使う。しかし現代セルビア人でも会話でクロアチア人との疎通は問題がない。また宗教ではセルビア人がギリシャ正教であるのにたいしスロベニア人とクロアチア人はカトリック教徒である。
セルビアは1914年6月、サラェボ事件の直前、ピーター国王が老齢のため譲位を決意、次男のアレクサンダーを摂政とすることを発表した。このためには議会の承認が必要で、パシッチは一旦議会を解散、総選挙に臨んだ。オーストリアが最後通牒を手交したときパシッチが遊説中だったのはこの事情である。
第1次大戦中問題となったのは大セルビア構想または南スラブ構想だった。この問題では老ピーター国王とパシッチは小セルビア主義でアレクサンダー王子は大セルビア主義を信奉、クロアチア人のトルンビッチと組んだ。最終的にはイタリーとオーストリアに対抗する強国の存在を意識したフランスの支持による大セルビア(サーブ・クロート・スロビーン)王国が成立した。しかし1921年ピーターの死後王位についたアレクサンンダー国王は1934年クロアチア独立主義者に暗殺される皮肉な運命となった。
MAP(セルビア領土の拡大)
クロアチア人は第1次大戦終了時にイタリーの脅威におびえ、セルビア人との合邦を支持する者がいた。しかしその僅かな時期を除くと常に独立を求めた。
セルビアの完全独立はベルリン会議以降現在に及んでいるが、歴史に登場する度合いに比較し、規模の小さい農業国だった。第1次大戦勃発時の人口は450万でそのほとんどは農民だった。首都ベオグラードは人口僅か3万で、日本では市への昇格も難しい。鉄道は南部最大の都市ニッシュまで1881年に敷設されたばかりで、それもオーストリア資本によるものだった。この小国が人口5200万を数えるオーストリアを震撼させ、第1次大戦の導火線となったことは奇観といわざるを得ない。
外交に戻る
サラェボ事件に戻る
アルバニア逃避行に戻る
このページTOPに戻る

セルビア人はどこから来たか?
髑髏の塔