1914年6月28日、フェルディナンド大公が暗殺された。歴史上政治家または王家の重要人物の暗殺事件はほとんど自国民でなされた。サラェボ事件も例外ではない。現行犯で逮捕されたプリンチップも自国民だった。ただし自国内少数民族のセルビア人だった。オーストリア=ハンガリー二重帝国にとって厄介なのはセルビア人が隣に独立国を持っていることだ。オーストリアは直ちにプリンチップの背後関係を調査したが限られた時間のなか、ブラックハンドにたどりつくことができなかった。しかし、プリンチップの使用した武器はセルビア軍の武器庫から出ており、そしてセルビアの現役軍人が手渡していたことが確認された。
大国は皇儲が暗殺されたならば何かしなければならぬ。これは自明のことだ。そして背後に他国があったならばその国に何かしなければならない。
連合王国の宮内大臣にして外務大臣(オーストリアの肩書きは通常で理解しうるものでなく、なぜ外相の肩書きに連合王国がつくかも検証に値する。)ベルヒトルト伯爵は7月1日、おなじく伯爵の次官フォルガッハとバルハオセプラッツ(舞踏館広場:オーストリア外務省)の菩提樹の木漏れ日がある部屋で密談する。
フォルガッハは外務次官だがハンガリー人でハンガリー政府の特別外交使節(ハンガリー政府はウィーンの中央政府に使節を派遣していた。)を兼ねていた。以前はオーストリアの駐ベオグラード大使で、フリードユング事件という失敗を犯した。事件は領内のザグレブにいるクロアチア人の政府転覆陰謀事件に関係するとされるが、完全なでっち上げだった。証拠はすべて偽造で、なんと一部はフォルガッハの自宅で発見された。この事件によりフォルガッハは召還されいらいセルビアを仇敵と目すようになった。
一方ベルヒトルトは昨今の二回のバルカン戦争で二度失敗した。第1次バルカン戦争では、イギリスのグレイにかきまわされ、不干渉を約束させられた。オーストリアはブルガリアを支持したが、ブルガリアはなんとあのセルビアと組んだ。干渉を計画したときはすでに遅く、軍部に準備を要求し取り消すといった失敗をした。そのうえドイツは同盟の存在にもかかわらず、支援をしないことを通告してきた。
第2次バルカン戦争はもっと悪かった。干渉を計画したとき、ドイツ・イギリス双方に止められ、動員をかけた軍は国境地帯を遠足しただけで中途で帰るという、不手際となった。これも軍部が激しく非難し外務省の面目を失ったばかりか、ドイツ軍部にも嘲笑された。またドイツ外務省は非スラブのルーマニアとギリシャを支持するというオーストリアにとり理解できない外交政策をとった。イギリスとドイツはオーストリアのことを鈍重で決断できないと嘲っているらしい。セルビアの領土を増やしたブカレスト条約を破棄させる方法はないか。
二人の反セルビア感情は病的で、外交決着では不十分で戦いに訴えるのが最適だと一致した。しかし前のように一旦動員を下令してあとで取り消すようなことがあってはならない。昨日、参謀総長コンラートは戦争になれば、4週間でセルビアを抹殺できると豪語していた。気になるのはロシアの動向だ。バルカン戦争でもいろいろ言ってきた。でも1908年のボスニア危機では何も出来なかった。とにかくセルビアとロシアに海の出口を与えないことは我々の伝統的政策だ。これはイギリスもドイツも賛成するに違いない。このように考えベルヒトルトは前より情勢が好転していると信じた。
二人の外交官と軍部の示し合わせた戦争案にハンガリー首相伯爵ティサは即座に反対した。ティサのフェルディナンド大公暗殺の報を受けたときの気持ちは複雑だった。フェルディナンド大公の三頭民族案すなわち、ドイツ人、ハンガリー人の二つの指導民族に南スラブ人を加えるという案に最も反対したのはティサだった。だがセルビア人を最も嫌っていたのもティサだった。
ティサの計算は複雑だった。仮に戦争をしてセルビアに大勝しセルビアの旧領を併合したらどうなのか。これはセルビア人の人口が増えることを意味する。そして領内通じての普通選挙を実施したとすると、ハンガリー領内の今までのドイツ人、ポーランド人、セルビア人にたいするハンガリー人(マジャール人)の優位すら崩れかねない。
ハンガリー領内のマジャール人優位はいかなることがあっても維持されなくてはならない。そしてもしスラブ人がチェコ人のようにドイツ人の側についたら、いままでのドイツ人とマジャール人均衡という帝国の政策が見直される。
ティサはベルヒトルトが戦争計画に本気だと知るや、老フランツヨゼフ皇帝に直接手紙を書いた。
「私はサラェボ事件を契機としてセルビアとの係争に決着をつけるという、ベルヒトルト伯爵の考えに同意できません。私はベルヒトルト伯爵に直接申しあげましたが、これは致命的な誤りであり、また責任をともにすることはできません。第一にセルビアに責任を帰する十分な根拠が得られていません。するとセルビア政府が満足のいく説明をし始めたとき、戦争をしかけるということになりかねません。我々は想像しうる最悪の状態に陥るかもしれません。全世界から戦争開始者の汚名を浴び、最悪の状態で大戦争を始めることになります。第二にルーマニアを失い、唯一友邦とたのむブルガリアが疲弊している現在はあらゆる点からみて不適切と思います。・・・
・・・現在のバルカン情勢では開戦の理由をみつけることは、難しいことではありません。まずカイザーのブルガリアにたいする敵対心をとりはらい、カイザーの存在を最近の腹立たしい、保護者きどりのセルビア応援者に見せ付け、そして我々のバルカン政策を支持するよう働きかけたらどうでしょうか。」
見事な修辞とあいまってこの手紙は内心を隠蔽しながら戦争否定を論理だてている。
フランツヨゼフ老帝はフェルディナンド大公の葬儀終了後イスチルにある別荘に滞在した。ティサの手紙がまず来てそしてベルヒトルトの対セルビア戦争計画が来た。フランツヨゼフ老帝はフェルディナンド大公を好まなかった。暗殺の知らせをきいたときの第一声は「神は挑戦をうくることなし」というものだった。そもそも自分のあと誰が帝国を統べるか興味がなかった。帝国はいまや老帝のその齢だけが統一をもたらしているかのようだった。
幾多の戦敗と近親者の不幸な死はまた自ら判断するより臣下にまかせるべきだという考えに落ち着かせた。もちろん戦争を好まなかった。しかし平和主義者というわけではなかった。老帝は現セルビア王ピーターを王殺しではないかと疑っていた。またバルカン問題を解決するにはセルビアを弱体化させるより方法がないと考えていた。老帝はベルヒトルト案を採用した。そしてティサの建言もいれカイザーに支持を依頼することにし、自ら筆をとった。
「私の甥の暗殺はオーストリアとセルビアにいる汎スラブ主義者による扇動の直接の結果です。汎スラブ主義者の目的は三国同盟を弱体化させ、私の帝国を滅ぼすことです。我々の政策はセルビアの孤立化と弱体化に向けられなければなりません。バルカン半島の平和はセルビアが国家としての力を喪失しない限り達成されません。セルビアとの宥和はもう考えられなくなりました。ベオグラードでの犯罪的な扇動の火が消されない限り、ヨーロッパの王家が追求する平和政策は達成されないでしょう。」
7月5日ポツダム、オーストリア駐ベルリン大使伯爵スツォグイニー・マリッヒはこの親書をカイザーの昼食の席で手渡した。そしてカイザーはオーストリアの伯爵たちに白地小切手を渡してしまう。しかしカイザーはあのオーストリアが金額を記入して呈示することなど夢にも考えなかった。翌日バルト海クルーズに予定通りでかけた。
7月7日、バルハオセプラッツの会議室で責任閣議が開催された。文民からベルヒトルト外相、オーストリア−ハンガリー筆頭大臣伯爵シュツルグ、大蔵大臣ビリンスキー、ハンガリー首相ティサの4人が出席した。また軍部からクロバティン陸軍大臣、コンラート陸軍参謀総長、海軍大臣の3人が出席した。会議はベルヒトルトが主宰し議論の口火をきった。
サラェボ事件が表現しているボスニアヘルツェゴビナでの政治的混乱を収拾するために軍事力の発揮によって、セルビアの陰謀に終止符を打つこと、ドイツからは完全な合意が得られたこと、この戦争によってロシアが介入する可能性があること、をベルヒトルトは主張し説明した。
ティサは反対した。
外交的手段を伴わないいかなる奇襲戦争に反対する。我々はまずセルビアに困難ではあるが妥協しうる要求を提示する必要がある。もしセルビアが受け入れれば名誉ある外交的勝利が得られたことになる。そして我々のバルカンでの地位は上昇するだろう。もしセルビアが拒絶するなら軍事的手段をとることに反対しない。ただしその時はセルビアの絶滅を目指してはいけない。ロシアはセルビアの絶滅を目指したとするなら、死ぬまで戦うだろう。また私はハンガリー首相としてセルビア領土の併合に反対する。戦争は現段階では不必要かつ危険である。
シュツルグとビリンスキーは、ポチョレックの建言書(このサラェボ事件の警備責任者は、ボスニア統治の内部的混乱を断ちきるのは剣の力によるしかないと、主張した。)に同意し戦争を支持した。クロバティン陸相は軍人として典型的な言葉で始めた。「外交的成功は無価値だ。」そして、予防戦争を主張した。「遅くなるよりも今が好都合だ。」
シュツルグは更に「ベオグラードで統治する王家はヨーロッパからの方がよいのではないか」と言った。シュツルグは当時のオーストリアでドイツ語を喋る人々に一般的なようにスラブ人をアジア人とみなしていた。
全員が戦争を主張してもティサは屈しなかった。誰かがセルビアに受け入れ不可能な要求をセルビアにしたらよい、と言ったとき反論した。「よいですか、皆さん。要求を厳しくすることは認めています。だが受け入れ不可能な要求だということが暴露されたら、我々は宣戦を布告することに正当性がなくなります。私の見解が最後通牒で無視されたとするなら私は以後の責任をうけかねます。」
ティサの主張は外交交渉でセルビアがオーストリアの要求するものに譲歩したならば、戦争に訴える理由はない、と予防戦争そのものを否定するものだった。これは国家の独立が武力によるのみでない、と言うことだろう。ティサは突然ビリンスキーを振り返り、「そもそもサラェボ事件はあなたに責任がある」と言いきった。
これはビリンスキーがボスニア担当大臣で、セルビアから事前にテロ発生の可能性の警告を受けたのにも拘わらず放置したことをついたものだった。ビリンスキーはポーランド人で反ロシアということで最も好戦的だった。会議はティサ一人の抵抗で紛糾しついに結論を出せず散会した。
ティサはそのままブタペストに戻った。しかし1週間後ウイーンに戻ったとき別人になっていた。突然戦争支持にまわったのだ。これはどのような事情によるものか。
一方ベルヒトルトは、コンラートと軍事作戦の打ち合わせにはいった。ベルヒトルトが驚愕したことに、ロシアの参戦が予想されると、総動員か始めから動員をしないかどちらかだと説明をうけた。すなわち、セルビアに対してのみ動員をかけると、ガリシアはがら空きになる。その後ガリシアをうめるためにセルビア作戦を中断することはできないというものだった。そしてかつ動員を完了させるのに16日前後はかかるというのである。コンラートはまたセルビアは国土が狭く総動員の完了まで時間がかからず、セルビアに時間を与えないことは極めて重要だと付け加えた。
実際の戦争はほぼコンラートの予想通り進んだ。しかしコンラートは予定を何度も変更し動員自体は完全な失敗に終わった。事実は対セルビアの攻勢作戦は準備したが、対露作戦をコンラートは考えていなかっただけである。
コンラートは更に手紙でベルヒトルトに警告を発した。
「政治的決定に干渉するものではありませんが、すでに口頭でも申し上げた通り、閣下に以下のことを承知して欲しいのです。すなわち外交交渉で相手方に遅延を許すこと、及び同じような繰り返しの交渉で相手に軍事的準備の時間を与えてほしくないのです。決断には手続きを要するように、軍事上有利にことを運ぶには、最後通牒では短い時間的余裕しか与えず一回で終了させることが肝要です。」
この手紙は現存するが短時間で書かれたらしく日付すらはいっていない。それでも、この後のオーストリアの行動を完全に縛っているばかりでなく、他の大国の時間をも奪う結果となった。
コンラートは文面でも分かる通り説得力のある議論を展開し、かつ軍政改革でも力を発揮した。それでもいつもの主張、予防戦争論となるとなにか判断を狂わせるものがあるようだ。それとも末期のハプスブルグ帝国を予感した男の最後の処方箋であろうか。
この頃になるとベルヒトルトの神経が参ってきた。戦争開始の緊張に耐えられなくなり、対立したティサが最後の救世主のように思えてきた。誰かが戦争を止めると思っていたら誰も止めずにむしろ煽るではないか。後になりオーストリア外務省の役人はこの頃を振り返り、「皆が予行演習だと思っていた。そして多かれ少なかれいつか中止することができると信じていた。」と回想している。
ベルヒトルトはティサの領土拡大はしない、という提言を受け入れた。そして自分の立場を説明するために、コンラートの手紙をティサに送った。
このコンラートの手紙がティサに影響したのは間違いない。またブダペストでも戦争熱は盛んで、街中が「セルビアの豚に死を」「立つのは今だ。」という言論にあふれていた。当時人々は今と異なり非常に政治的だった。あらゆる場所で政治集会が開かれ、コーヒーショップでは政治議論のために人が集まった。
ウィーンでも事情は同じだった。新聞は「強盗と人殺しの国家」「羊泥棒」「のみの国」という論調で占められた。ティサはドイツ駐ウィーン大使チルシュキー・ベーゲンドルフに厳しい最後通牒に賛成する側に回った、と告げた。
ベルヒトルトは7月13日から最後通牒作成を私邸でとりかかった。あとで妻は「とにかく拒絶するように…」と独り言をいっていたと回想している。ベルヒトルトはまたコンラートに言われた通り、最大限秘密を確保するようになった。そしてドイツにも最後通牒の中身も含めて秘密にした。とにかく無条件でオーストリアをバックアップすると言った以上知らせる必要はないと。これが白地小切手の決済方法だった。
最後通牒草稿
7月14日夜、前回の責任閣議のメンバーがベルヒトルトの私邸に集まった。そして議論もなく最後通牒案を承認した。
セルビアへの最後通牒全文
フォルガッハは草案をうけとり、バルハオセプラッツで修文にとりかかった。実際やったことは内容をむしろ厳しくしたことで、またセルビアに与える猶予時間は48時間とした。
またセルビアに手渡す時は、フランスのポアンカレ大統領一行がロシアを離れたときが好都合として、その通りになった。ただ実際にはヤゴウがポアンカレ一行のロシア滞在スケジュールをよく把握していて、オーストリア側に出発時刻の誤りを指摘、1時間遅らせた。それ以外は計画通り進んだ。
だがドイツの駐ウィーン大使が草案を受け取ったのは手交日の僅か2日前だった。そして内容が煩雑なため、暗号化に時間がかかりすぎるとして、メッセンジャーに送らせることにした。こうして1日が空費された。ヤゴウは2週間前カイザーが白地小切手を渡したのは知っていた。そのとき新婚旅行でベルリンにはいなかったが、そのあとオーストリアがなにか危険なことをしているのに気がついていた。
ヤゴウは気になっていた白地小切手をオーストリアがこうして金額欄を埋めてきたのをみて、これでもオーストリアを支持するのか迷った。しかし約束は約束だ。これは厳しすぎる、だがやれることはない。なにしろ明日が手交日だ、と解した。そしてその時ベルリンにいたベートマンともども、最後通牒が公開されたあと、ドイツの態度として、オーストリアを支持し内容は受け入れ可能で温順なものだと説明しなければならないとまでは想定しなかった。
7月23日オーストリア駐ベオグラード大使ギーゼルは朝からこの最後通牒手交の歴史的瞬間に備えていた。唯一の変更は時間が最終的に夜6時となったことだけだった。外務省で大蔵大臣と面会し渡したところ、「時間が短すぎて、責任者と連絡がつけられるかどうか。」と言われた。ギーゼルはこれを聞いてやや顔を紅潮させ、「鉄道・電報電話の時代にこのサイズの国で連絡をつけあうのは難しくないでしょう。」と答えた。これも歴史に残る言葉だ。
セルビアは最後通牒を受け取り、2日後回答した。殆どを受け入れた。しかし全部を受け入れることは独立国としてできないと考えたようだ。実際は回答がどうあれオーストリアの開戦意思は固いと判断したのだろう。
ロシアからは慎重に進めるべきだ、と両義にとれることしかアドバイスはなかった。イギリスからは最大限受け入れるべきだとの意見が寄せられた。すると全部認めるのは両国の意見に反するようにもみえた。総動員が下令され、首都の南部への移転が開始された。回答期限の7月25日3時に支払い準備の金塊から政府書類までが積みこまれた特別列車がベオグラードからニッシュへ出発した。
首相のパシッチだけ残りギーゼルに回答書を手渡した。ギーゼルはベルヒトルトの指示通り、少しでも留保条件があれば大使館をたたんで、その日最後の6時半のウィーン行き急行に乗って帰る予定だった。一読して「仮に」という単語をみつけた。そして準備しあった国交断絶の通知をすぐさまパシッチに送りつけた。それまで僅か30分だった。これはヤゴウの示唆で最後通牒の手交が1時間遅れたためである。それにしてもコンラートのいう動員スピードの確保というのはここまで要求するのか。ギーゼルは6時半の急行に間に合った。
ベルヒトルトは当時の外交慣習に従って、英仏に1日前に最後通牒草案を送り。ロシアには戦争となってもセルビアの領土は奪わないと連絡した。だがこの男は予防戦争をドイツも含めて他国から干渉されて中止はしないと決意していた。しかしベルヒトルトの戦争は実弾の飛ぶ戦争ではなく、戦勝の名誉が伴う戦争であればよかった。この新しい戦争概念を周囲は理解できなかった。とくにドイツは理解できなかった。
イギリス外相グレイはドイツ駐ロンドン大使リヒノウスキーにドイツはオーストリアに圧力をかけ、態度を軟化させるべきだ、と説いた。その日リヒノウスキーは本国にオーストリアのとった手段が他の諸国にどのように受け止められているか報告を書いた。
「セルビア全体を強盗・殺人人種の国家だとか叫んで、現在の状況が打破できるだろうか。オーストリアのとった方法が、問題の根源的解決や汎セルビア運動の根絶に役立つとは思われない。戦争を局地化する試みは現在のところ希望的観測にすぎない。私の今後の予想では、セルビアがロシアまたはイギリスの圧力により全面的屈服に追い込まれるか、ベルヒトルトの名前が有名となるだけの戦争か、その二つのどれかではないか。」
ドイツの外交官として極めて的確に事態の推移を把握し、予想している。残念ながら後者の予想が的中してしまったが。また小国のテロ行為・ゲリラ行為を抑えるのは、そのスポンサーとなっている大国がその気にならねば難しい。これは現在でも同じである。またその小国が大国の代理を務めているかのように錯覚するが、まずそのようなことはない。セルビア民族主義をロシア政府が支援することはなかった。とくにそのテロ活動を支持などしていない。ロシアにとり海峡は重要だが、汎スラブ運動など一貫して興味がない。リヒノウスキーの言うようにオーストリアはまずロシアと話しをすべきだったのだ。しかし1908年以来の両国の関係悪化はそれを許さなかった。ドイツとして両国関係を心情的でなく戦略的に捉えるべきだったのだろう。
ベルヒトルトはまた工作を始めた。セルビアの回答をドイツに転送することを遅らせた。セルビアの回答がベルリンに到着したのは7月26日の夕刻で、カイザーはまだ船のうえだった。7月27日、グレイが国際会議の開催を提案したとき、ベートマンはまだセルビアの回答を検討中で、交渉をオーストリアーセルビア二国間ですべきか、オーストリア−ロシアですべきか分からず、またベルヒトルトはオーストリアの意思を正確に伝えることはなかった。ベートマンは苦慮したうえ、一旦オーストリアにまかせ戦争を局地化させるしかないと考え拒絶した。
カイザーがポツダムに帰り、セルビアの回答を読んだとき、これで一件落着だとメモをつけると、ベートマンから願ってもないグレイの仲介を拒絶したと事後で連絡が来た。そして翌日収拾策をツアーと図るべく検討している所に、オーストリアがセルビアに宣戦を布告したとの連絡がはいった。
このようにベルヒトルトの戦争開始の栄誉を一人で担う作戦は成功したかに見えた。もちろんベルヒトルトが狙ったのは局地戦争でヨーロッパ戦争ではない。
そして局地戦争に止めるのはドイツの仕事で、自分ではない。少なくともドイツはそう約束したではないか。ロシアの戦争準備はできていないと、カイザーは自ら宣言したではないか。そう考えるとこの段階で戦争を止める動きは邪魔をしたほうがよい。このように考えた。
歴史はしかし、ロシアの動員・シュリーフェンプランの発動・ベルギーの中立侵犯と進んだ。ベルヒトルトは開戦2年後、職を解かれたあと、友人に「戦争のほうはどうか。」ときかれた。するとベルヒトルトは「平和にしておいてくれ。戦争はもうたくさんだ。」と答えたという。
しかしベルヒトルトの一つの夢は達成された。
1914年、7月28日、オーストリアはセルビアに宣戦を布告した。夢が実現したあとベルヒトルトは奇妙な行動をとり始めた。8月3日までにドイツは露仏に宣戦布告し、露仏も同様に返した。8月5日イギリスはドイツに宣戦布告した。それでもオーストリアはセルビア以外には宣戦布告しなかった。ベルヒトルトはこの間に何か新事態が起きることを期待したのだろうか。ドイツに強要され8月6日ようやくオーストリアはロシアにだけ宣戦布告した。
ベルヒトルトは本当に局地戦=予防戦争を望んだのだろうか。宣戦布告は明らかに望んだ。しかしこれで実弾が飛び交うとは思わなかったのではないか。またベルヒトルトはティサと妥協するためにオーストリアは領土的要求をしないことを宣言しただけで実際は二枚舌で戦争結果では奪取するつもりがあったという見解もある。この件はニッキー・ウィリー交換電報でカイザーがツアーに約束しておりドイツの手前不可能だしティサの目論見通りロシアに面目を立たせる唯一の材料だったのではないか。ただしブカレスト条約に不満であり、マケドニアをブルガリアに割譲させた可能性はある。
エミール・ルードイッヒの戦争開始責任者への断罪

Emil Ludwig, July 1914, London,1929
Williamson,S.R.,Austria-Hungary
and the Origins of the First World War, London,1991
7月危機
ボスニア危機
オーストリア=ハンガリーと各民族
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