昭和天皇と事変の拡大
昭和天皇は第一次上海事変の租界を大きく越える拡大に反対した。そして太平洋戦争の開始についても陸海軍合意の戦争計画に反対した。にもかかわらず1937年7月の上海への増援軍の派遣について昭和天皇は積極的にこれを推進したようにみえる。これはなぜだろうか。
佐藤尚武の宥和外交
1937年3月林内閣のもと佐藤尚武が外相に就任した。佐藤は中国国内で居留民が殺害される事件の多発を憂慮し満州事変以来の対華強硬方針を改める方針に転じた。「再認識論」というもので中国と一定の距離を置きながら対等外交を進めるというものだった。佐藤は広田弘毅の一期先輩で欧米派の外交官である。ところが蒋介石は前年の綏遠事変や西安事件により権力基盤を固めており、この佐藤の宥和外交を日本の弱さと受け取った。蒋の上海に執着する姿勢は生涯変わらず、ファルケンハウゼンの案出した戦争計画にのめり込んでいった。
ファルケンハウゼン(Alexander
Freiherr von Falkenhausen 1878-1966)
裕福なシュレジエンのユンカーの家庭に生まれた。士官学校卒業後日本へ駐在武官として派遣された。第1次世界大戦ではパレスチナ戦線でトルコ軍とともに戦い大佐として終えた。首に下がるプールラメリットはこの間に受勲した。ワイマール共和国期はドレスデン歩兵学校の校長をしており1930年に退役した。その後ゼークトの推薦により蒋介石の軍事顧問となる。1938年帰国後、フランス戦で再役を命じられ従軍、終了後ベルギー兼北フランス総督に任命された。しかし1944年7月、ヒトラー暗殺未遂事件に連座、強制収容所に入れられた。1951年連合国はベルギー領内のユダヤ人移送と戦争残虐行為のかどで戦犯として逮捕、裁判のうえ懲役12年を宣告した。しかし老齢により3週間後仮釈放された。
6月、林内閣は倒れ近衛内閣が成立した。東亜同文書院の創設者は近衛の父、篤麿(あつまろ)であり、自身も古いタイプの中国趣味があり対中宥和外交に賛成だった。蒋介石と親しく大アジア主義者の広田の外相起用を決めた。
7月7日盧溝橋事件が勃発し蒋介石の軍事マシーンは回転を開始した。たちまち4個大隊5千人ほどの北支派遣軍は北京と天津に孤立した。
蒋介石の戦争決意と石原莞爾の動転
満州事変というクーデターの首謀者であり参謀本部の実質トップ、石原莞爾作戦部長は内地師団の動員に反対した。これは北支派遣軍の撤兵と上海からの軍民総撤退を意味する。そして同時に華北における日本人の全資産の喪失と上海租界をドイツ支配とし外国人総撤退を招く。石原の表面上の反対理由は中国本土での兵員が大量に必要とされる作戦に反対というものだった。対ソ戦に備えての正面装備に割く予算がなくなる。しかし真意は違う。石原は第1次大戦における西部戦線のような塹壕対峙による長期戦をおそれた。
石原は蒋介石=ファルケンハウゼン戦争計画(上海決戦)をとうに見抜いていた。中国軍の配置は間諜、特務の手により完全につかまれていた。おそらく6月の時点で無線傍受と暗号解読で国府軍の異動は完全に掌握していたものとみられる。防衛線の詳細もつかまれ個々の作戦指導も内報を得ていた。7月20日蒋介石は部分動員を下令した。どう対処すべきか?
石原は蒋の策に乗るべきでなく蒋と交渉すれば妥協可能とみた。また武藤章作戦課長は拡大を主張したとされるが、華北をひた押しに攻めろというもので、上海で決戦に出ようというものではない。この二人の考え方は当時の軍人の平均的な考え方だった。そして現在の日本人もこの二つしか政策オプションがないと考える。ところが実際にとられたオプションは上海で総力をあげて敵に反撃することだった。
中国政策でそれ以前も日本が誤り、その後も繰り返す失敗の原型がこの石原の誤りにある。石原の誤りには思想的な背景が存在した。すなわち大アジア主義である。このイデオロギーには社会主義的な公有概念があり財産を日本人が保有しようが、中国人の名義になろうが意に介さない。当然華北や上海にある日本国民が所有する私有財産を保護しようという考えはない。発想の根本は均田法的な平等であり法のもとでの平等ではない。すなわち貧者が富者から奪う平等であり、富者になる機会の平等ではない。また政策のイニシアチブは「王道」すなわち王、本人にあることしか認めない。しかし、この時石原でなく蒋介石が軍事のイニシアチブをとっていた。
蒋のイニシアチブに対して「避ける」「逃げる」が方針となるだろうか?
初めから大多数の閣僚はこのことに気づいた。しかし統帥権の誤った解釈から友軍の救助のための動員と開進(予定地への軍隊への展開)にすら陸軍参謀本部に提案する権利がないと考えていた。石原に噛み付いたのは上陸(しゃんりく)を擁する海軍だけだった。そしてその海軍も省の一部は陸軍が蒋介石の軍に対抗することができず、あるいは石原と同様に蒋介石と交渉可能ではないかと考えた。これも誤りで宥和政策というイニシアチブが常に戦争回避に役立つという保証はなく、もし蒋介石が計画にもとづいて駒をすすめているとしたら、交渉提案を受け取ればそれを日本側の弱さと受け取り戦争への決意を加速させてしまう。
統帥権の独立
実際にとられた方針に昭和天皇の影を見る人々はマルクス主義歴史学者(小山 朗ら、また思想的には対極にあるが独文学者の小堀桂一郎も拡大に賛成したことを認めている。)しかいない。しかしこの件については妥当している印象をもつ。昭和天皇は、現在におけるマスコミの理想像の平和主義者ではない。自然科学的なものに基礎を置くリアリストである。
昭和天皇は石原に反対し上海への集中を主張した
昭和天皇は蒋介石の設定した上海決戦に応じる以外ないと考えた。昭和天皇の石原にたいする見解は満州事変での独断専行は暴挙、2・26事件での討伐命令要請は快挙という相矛盾したものだった。昭和天皇は陸軍の内部事情には精通していた。石原の言説についても承知していた。また第一次大戦終了直後、ベルダン戦場を訪問しており塹壕線を挟んだ戦いがいかに陰惨で国力を消耗させるかよく認識していた。
昭和天皇は蒋の8・13上陸(しゃんりく)攻撃を軍事的な面だけで判断しなかった。このようなアウトライトな攻撃は大国として容認できず、満州事変と異なり、外交的に孤立することはなくそれへの対抗は英米と共通の利害にたつと考えた。そして蒋の軍に重大な損失を与えない限り、日中間の懸案は解決できないと考えた。この事変発端の前後に中国本土内で日本人(朝鮮半島に住む人々を含む。)の中国官憲(保安隊)などによる虐殺事件が多数発生していた。
通州では150人が殺害されている。為政者として何か回答をださなければいけない。
そして同様の危害が英米人にも加えられていた。一方昭和天皇は香月北支派遣軍司令官には急速な進軍をしないことを求めている。これは矛盾する行動のように見える。ところが違うのだ。昭和天皇は武藤作戦課長がいうように長期戦をかまえ不動産を得ても蒋は特段敗北感を持たないとみたのだ。つまり、蒋の直系軍に短期間に大被害を与え、敗北感を持たせることが問題の鍵と認識した。
石原莞爾は動転していた。この満州事変の張本人は自分のクーデターの結果がこのようになったことに愕然とした。刻々と入る軍事情報は国府軍の上海集中を伝えるが、現実を直視することが最早できなかった。7月28日、内地3個師団の動員を決めたのが精一杯のところで船津工作など藁をもつかむ私的外交に乗り出した。
船津工作
軍政畑の経験がないとしても蒋の部分動員が攻勢作戦を含むことはドイツ軍事学の研究から石原はわかっていたはずだ。しかし、学問からの結論が正しいとしても判断の基礎となる実感とならなかった。石原の軍事学はナポレオン戦争や普仏戦争当時の装備・編制から進歩していない。シュリーフェンプランや近代的浸透戦術についての理解は浅く独特の長期戦・短期戦交代発生論についても論拠は源平交代論的な迷信でしかない。クーデター首謀者の多くは自分のロマンに熱中させることにより1個中隊程度の指揮をとることができるが大軍を指揮させるとしばしば失敗する。
石原莞爾批判
2・26事件以前陸軍大学の軍事学を担い作戦部を牛耳っていたのは皇道派だった。昭和天皇は近代軍事学をむしろ皇道派を通じて得ており、塹壕戦打開の方法などは最先端のものを吸収していたとみられる。昭和天皇は石原莞爾の表面的な対ソ警戒論やその浮薄な長期戦・短期戦交代論を受け付けることがなかった。
8月13日上陸(シャンリク)が実際に攻撃をうけ閣議は紛糾した。陸相と外相を除く各閣僚は上海における断乎たる反撃を要求した。病欠の参謀次長に代わり多田駿(はやお)が起用された。多田は石原と異なり自分のロマンにつかる軍人ではなかった。参謀本部は上海での反撃への準備を開始した。
昭和天皇は8月18日、閑院宮参謀総長に下問した。
「いろいろな方面に兵を用いても戦局は長期化するばかりである。重点方面に兵を集中し大打撃を加え、我々の公明なる態度を以って和平に導き、速やかに時局を収拾する方策はないか。」
重点方面が上海を指し、決戦に応じ勝利のうえで妥協的態度で和平に臨むべきだとする昭和天皇の意思は明らかだ。この単純な指示を当時の多くの政府要人は真面目にとりあげようとしなかった。そしてこの意思を現在の人々も理解しようとしない。
他国からの武力攻撃やテロにたいし国家は宥和的な態度を取りえない。侵略者やテロリストが暴力による抗争を継続する意思を保有していれば交渉に応じることはできない。総力をもって反撃するしか道がない。戦局が見え敗者が交渉を求めてきたとき、それが責任をとることができる政府・交戦団体であれば逆に必ず応じる必要がある。これは歴史上単純なことで、極めて一般的なことである。日本人はこの当然の事実をしばしば認めない。昭和天皇はこの当然のことを当然としたにすぎない。
石原の作戦部長からの更迭は上海決戦をめぐっての政治決断(応戦すべか撤退すべきか)に関して発生したのは疑いない。その後省部で重要なポストにつけなかったことは、官僚組織では仕方のないことだったと思われる。昭和天皇の判断は常に現実的で夢を見ることはない。大アジア主義そのものが夢で現実的な根拠を欠き明治憲法の基礎である啓蒙主義に批判的であるばかりでなくテロやクーデターの要素も孕む。しかし政府は第二次南京事件以来この主義を実現しようとする組織を真剣に取り締まろうとする努力を払わなかった。
一説によれば第2次大戦末期のおそらく実現することがない対重慶工作で石原莞爾の名前が出たとき、昭和天皇はどうしても石原を信用しなかったという。当然のことだろう。
繆斌工作(朝日新聞社の和平工作)
(別宮暖朗)

栗林健也 佐藤尚武の面目 原書房 1981
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