
黒い森
1921年(大正10年)10月27日、陸士16期の逸材といわれる3人の同期生が南ドイツに集まった。
欧州出張中の岡村寧次は、小畑(ソ連駐在武官として赴任予定であったがビザが下りずベルリンに待機していた)と会い、バーデンバーデンに鉄道で向った。スイス公使官付き武官永田もベルンから鉄道で向った。バーデンバーデンは黒い森の西端にあり、温泉保養地である。
3人が宿泊したのはホテル・ステファニーで、「高級ホテル」(岡村)とされていた。3人は痛飲し夜通し話し合い、最後はホテル側に注意された。これが世上に名高いバーデンバーデンの密約と言われるものである。なぜ有名かは単純で、極東(国際軍事)裁判で検察側がとりあげたためである。そして翌日東條英機も加わった。
前年には尼港事件が発生し、陸相は田中義一であった。新聞はシベリア出兵を「無益」な戦争だと論じた。翌年にかけ、尼港事件について大量の死者を出した陸軍が追及され、田中は辞任を決心し、後任者として陸大同期の山梨半造を推薦した。
この年、陸軍は批判にさらされ、組織として危機にあった。またワシントン会議も前年にあり、世界は「平和主義」に満ちていた。
ホテル・ステファニー"von
Brenner's Stephanie Hotel"
1935年、ヒトラーがこのバルコニーで喝采を浴びたことがある。当時はカジノも併設していた。高級ホテルだったことに違いはないが、ドイツにはインフレが発生しており、この3人には余裕があったであろう。
三人とも陸大卒の優等生であった。この当時派閥がありそれで動いたのも事実だが多くは人事にからんだ官僚らしい抗争で、それで政策や作戦が決まったとは思えない。
しかも密約というのだから紙に書かれた資料は乏しく、岡村の日記で
について密約す。とあるだけである。3人と東條の後日の行動から、派閥解消というのは当時有力だった山縣有朋や田中義一を中心とする長州閥をたたくという意味であろう。
永田は長野県諏訪出身、小畑は土佐の維新志士男爵家出身、岡村は東京出身であって共に長州閥=山縣閥に反発していた(ただし、山縣に親炙したことはなく、新聞知識であった)。この反山縣が三人のエネルギーであり、そのときの田中義一陸相への反発であった。
加えて、山縣は陸大卒業生を優遇せず、日露戦争の満州作戦で拙い作戦計画をつくった陸大1期、3期優等の松川敏胤・井口省吾を省部(陸軍省・参謀本部)に登用しなかった。3人は陸大卒の恩典で欧州旅行が可能になったのであり、誇りとするところがあり、能力=陸大入学と思い込んだのであろう。
このころから陸大卒エリートには「隊付」を嫌い、省部に配属されることを望む気風ができつつあった。
山縣の信念は「一介の武弁」であって、試験・陸大を通したエリート・コースを認めなかった。かといって、長州閥をつくることもなかった。山縣は「陸軍のドン」であり、その力の源泉は「公平」「自由」と明治天皇の信頼であった。だが大正天皇は、大正9年ごろから病気がちになり、また皇太子(昭和天皇)は「石地蔵」のごときであった。皇室も危機にあった。
昭和天皇は大正10年3月〜9月に欧州巡遊に出かけた。バーデンバーデンの会合が起きたのはその日本帰国の直後であり、山縣は翌年2月に死亡した。3人は「重し」のようなものが、なくなりつつあったのを感じたのであろう。また陸士16期とは日露戦争に従軍しなくて済んだ最後の世代であった。
3人は長州閥反対、および陸士・陸軍大学の成績重視を熱心に主張した。ただし陸軍人事は陸相の権限であるが、山縣は寺内以降長州出身者を岡市之助(じつは山縣と不仲であった)と田中義一以外陸相にしたことはない。
歴代 氏名 出身 内閣等
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9 寺内正毅 |
長州藩
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@桂 @西園寺 A桂
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10 石本新六 |
姫路藩 |
A西園寺
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11 上原勇作 |
都城藩
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A西園寺
野津道貫の女婿
2個増師問題で上奏辞職 |
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12 木越安綱 |
金沢藩
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B桂 @山本 |
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13 楠瀬幸彦 |
土佐藩
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@山本
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14 岡市之助 |
長州藩
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大隈
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15 大島健一 |
岩村藩
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大隈 寺内 |
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16 田中義一 |
長州藩
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原
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17 山梨半造 |
平民
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原 高橋 加藤(友) |
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18 田中義一 |
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加藤(友)
一カ月間のみ |
次の軍制改革は何を意味するのだろうか。岡村は小畑を除く3人は一応ドイツ語を専攻していたからルーデンドルフの総力戦論に感銘したのではないかとする。ルーデンドルフの「総力戦」は、Der
Totalle Krieg"、1939年にダイジェスト版『国家総力戦』として邦訳とされて以降出てきた言葉であった。1921年にもルーデンドルは"Kriegsfurung
und Politik"を書いた。この本について、翌年に参謀本部は『統帥と政略』(戦争指導と内外政が正しい訳と思われる)と題し、翻訳・出版したが、3人の手許にドイツ語版すら入らなかったであろう。
岡村はあとで永田・東條の「統制派」を支持したため、「皇道派」の小畑をおとし込めるため、太平洋戦争後になって、このように虚偽の記録を残したのであろう。これらの本の内容は政治にたいする統帥の優先を説くもので軍人には魅力があったが、軍事論であって、経済論ではない。
それでも不思議なことに、この3人ともどうやら、統帥または作戦(=軍事 ルーデンドルフの定義)ではなく、政治・経済体制について話し合った。「総動員」とは「軍制」に関連したものではなかった。またルーデンドルフは戦時について「軍事の政治への優先」を説いたにすぎず、平時については言久していない(その意味で"Kriegsfurung"は「戦争指導」でドイツ語では「大戦略」(独・英米戦が開始されて独ソ戦に訴えるべきかなど)をさす。陸軍は「統帥」について平時も含むと主張したので、そもそも「戦争」を落として訳を意図して違えた。
当然、ルーデンドルフの総力戦論は総動員後(それをドイツ軍事学では戦時と認識、それ以外は植民地戦または警察活動)を論じたのである。
統制派の世界では、「軍制」は、「国家総動員体制」に関連する。日本は師団制をとり軍団制ではなく、陸軍は総動員ができるようになっていなかった。師団単位で全兵科を備えることは、さすがに欧州諸国でも困難であった。現在では米海兵隊がそのようであるが、4単位で3万人と、そもそも巨大な組織であり、輜重部隊や野戦病院は陸海軍に依存している。
師団制を廃し、軍団制に以降すれば、地方都市に病院から兵舎・一時宿泊施設まで建設し、鉄道など輸送能力も増加させる必要があった。日本社会全体を変えねばできることではない。
3人は「総動員体制」を論じたとされるが、ルーデンドルフの「戦争経済」について論じたのではなかろうか。永田鉄山は「統制経済」「国家総動員体制」の名付け親であり、生涯、軍事より経済体制変更を念願した。
そのうえ、総動員体制はすでに歩兵から専門兵の以降により、旧弊な制度になりつつあった。ヒトラーは徴兵軍より「プロフェッソナル」陸軍を目指した。
しかしなぜ将来陸軍を背負うと目された4人が揃ってルーデンドルフに参ってしまったのか。しかも、この時ドイツは敗戦の混乱にありルーデンドルフは本の印税で暮らしていた。"Kriegsfurung
und Politik"自体も注目を集めず日本以外では訳されてもいない。また「総動員」とは軍事用語であるが、「国家総動員体制」とは経済用語である。
国家総動員体制=社会主義経済体制
この3人がルーデンドルフに「参った」のは何についてであろうか。1921年に昭和天皇は欧州を訪問したさい戦争惨禍として「ベルダン要塞」に足を伸ばし、衝撃を受けた。そのとき見た情景に驚いたのである。この3人がワザワザドイツに行き、ルーデンドルフのタンネンベルク戦やカイザー戦を検討したとは思われない。
このとき最大の問題は「ドイツが敗れた」ことであり、その原因について話したのではないか。ドイツ第2帝国は国内に一兵も敵を入れなかった。ドイツに進駐したアメリカ兵は、北フランスの荒廃とドイツの静けさと豊かさに驚いている。3人はステファニーホテルに宿泊し、その向かい合う美しい公園にや繁栄したカジノや温泉場に感動したに違いない。しかもインフレの亢進によるドイツ人の混乱と円高メリットを享受した。
3人とも「ケインズ経済学」など知るよしもなく、インフレ発生のメカニズムも知るよしもなかった。このドイツの繁栄と不幸がルーデンドルフ「戦争経済」の後遺症と考えたに違いない。そしてドイツについて「敗北」より繁栄と肯定的にみた。
このとき陸軍を取巻く環境は厳しく、自分達が陸軍内で栄達できるどころか、文民政府により減師でポストを縮小されるか、権限縮小を迫られる身の上であった。自分達の頭の上には、押さえつける長州閥の日露戦争の戦争英雄がいた。陸軍若手はこのあと日露戦争の「成功した」戦争英雄を「テロ」も含めて付狙うようになった。
そして「解決策」として永田鉄山は「社会主義」を打ち出した。ワイマール共和国ドイツの公理は社会主義であった。リベラルな民主党に属したマックス・ウェーバーやユーゴー・スティネスのような人々ですら経済体制は社会主義しかないと思い込んでいたのである。社会主義とは「私的自由」と「私有財産」を「社会=国家=国家公務員=官僚」が管理することである。
ルーデンドルフ戦争経済主義とは社会主義そのものであり、それゆえレーニンが評価した。永田と小畑はこのあと1927年(昭和2年)までは仲良しであった。小畑は社会主義をマックスウェーバーのように、内々では議会制国家や自由経済を前提としたうえで、官僚が軍事や外交について独占すると考えた。社会主義を軍事目的達成の手段と考えた。ところが永田は自由経済を滅亡させ、暴力的手段であっても社会主義経済体制を実現させるべきと考えたのだ。
そのあとの軌跡は大きく違った。小畑は対ソ作戦の鬼となり、永田は国家総動員体制(社会主義)確立とそのためのテロとクーデターに熱中し、「統制派」の創始者になった。残念なことに帝国陸軍は永田の目指した方向に進むのである。
現在の、3人が宿泊したホテル。"Brenner's Park Hotel & Spa"
国家総動員機関設置準備委員会
1926年(大正15年)4月、若槻礼次郎内閣下に国家総動員機関設置準備委員会が設けられた。永田鉄山は陸軍側幹事になった。それ以前から永田は積極的に「国家総動員」を講演してまわっていた。安井藤治(陸士18、阿南惟幾と同期)は「この機関を準備したのは陸軍であり、永田中佐であった」と語った。
このときの陸相は宇垣一成であり、永田の陸軍内の強い影響力がうかがえる。9月、陸軍省内に整備局が設けられ、永田は初代動員課長に任命された。軍事用語としての「動員」は軍隊を平時編制から戦時編制にすることであるが、「省」における「動員」とは軍需産業の育成を目的とするものであった。
第一次大戦では、英仏においては民間企業を軍需産業に転換させ、女性を労働力化した。独露にあっては、軍需産業が寡占化しており、民間企業を準国営企業に転換させた。次に従来からあった軍工廠も含めて、資材割当と配給を行い、原料調達と販売先・数量を「参謀本部」管理にした。国有化と計画経済化が柱であり、「社会主義体制」に他ならない。
永田は平時において日本経済を社会主義化しようとした。
「世界戦を一期としてどう変わったか、まず国民的性質を帯び、国力の全部を賭して争うものになった。戦争は極めて真剣な執拗かつ深刻なものになった。文運の進歩による新兵器の発展は、大規模な戦争を可能にして、通信・交通の変革は従来にない大軍の運用を可能にさせた」
「戦争の規模は格段に拡大し、巨額の軍需品供給が必要になった」
「各国は軍隊のみならず社会のあらゆる方面で、戦争遂行のための動員を行わざるを得なくなった」(永田鉄山『国家総動員』大阪毎日新聞社1928)
永田の論理は平時における日本経済の社会主義化(計画経済化)であった。第一次大戦を観戦したり、その直後ヨーロッパを旅行すれば、長期かつ激戦であった西部戦線に驚愕せざるを得なかった。
継戦能力は経済能力またはGNPによる。これを兵隊頭の社会主義者永田は資源の代替性や科学の進歩を考えられず、官僚が一国経済を「最適供給」「最適消費」を実現させるべくコントロールし、科学者も官僚になれば「最高の研究」「最高の発明」ができると思い込んだ。それの方が市場経済や自由主義経済体制よりいずれの点でも優れると考えた。
そのうえ、永田ら参謀将校は同時に「終身雇用制」にもとづく高級官僚であった。平時においても市場経済や自由主義経済体制を廃止し、経済は官僚によって「指導」された方が、GNP拡大=成長経済維持にも都合がよい、うまく運営できるのだ。永田・岡村・東條はいずれも「地方出」の「試験秀才」であり、エリート意識が格段に強かったのである。自分たちは軍隊だけでなく、平時戦時を問わず、全ての分野でイニシアチブをとり領導できると信じた。
それがためにはテロやクーデター全てが許されると思った。

Asprey, Robert B., The German High Command at War : Hindenburg
and Ludendorff Conduct World War T, New York, 1991
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