カンブレーの戦闘

カンブレーの戦闘

カンブレーの戦闘

1917年11月20日、イギリス第3軍司令官ビンはカンブレー西南を走るヒンデンブルグ線を奇襲した。方法は従来の準備から始まる砲兵援護射撃下の歩兵の突撃ではなく、タンクの突出前進と歩兵の追随であった。攻撃は一時的に成功し、幅16キロ深さ10キロの大突破をなしとげた。確保した面積は、数倍の歩兵と古い方法で戦われた第3次イープル戦(パッシェンデール戦)より大きかった。

ヘイグの戦略

BEF司令官ヘイグは、参謀総長ロバートソンと同じく「西方」派であった。これにたいし、このとき首相であったロイド=ジョージは「東方派」であって、イタリア戦線を重視していた。西方派の主張は「西部戦線にドイツ軍より、強大で優秀な連合軍を配置せねば、この戦争には勝てない」に尽きた。一方、東方派は「西部戦線における無駄な消耗を避け、中央同盟諸国の弱い環、オーストリアを崩壊に導けば、ドイツは決定的に孤立し、降伏する」と主張した。

両方とも史実に合致しているので、当時、甲乙つけがたい議論に発展していったことはうなづける。

一方、フランスでは社会党が戦争継続に難色を示していた。9月、連立内閣から閣僚を退け、「アルザス・ロレーヌ返還前に住民投票を実施すべきだ」と、フランスの大義を否定する提案を行なった。11月13日、首相パンレーベは議会で不信任され、罷免された。そのときの大統領ポアンカレは急進党(リベラル)のクレマンソーと平和党のカイヨーのどちらを首相とすかで迷ったが結局、徹底抗戦を唱えるクレマンソーを選んだ。このとき、オーストリアの新皇帝カールはフランスに「妥協による和平」を申し入れていたが、クレマンソーはそれを一蹴し、さらに翌年になるとカイヨーの「平和攻勢」を反逆罪にあたるとして投獄した。

独墺軍はイタリア・イソンゾ戦線で攻勢に出、カポレットーを突破、ベネト・フリウリ平原に躍り出て、ベネツィアに脅威を与えつつあった。ロイド=ジョージはイタリアに支援軍派遣を約束した。

ヘイグはフランスの動揺、イタリアにおける連合軍の大敗北をうけ、西部戦線で何かせねばならないと思った。だがもちろん第3次イープル戦における消耗は大きく、戦線を大きく動かすような攻勢は不可能である。そしてヘイグの手許に余裕のある戦力はビンの第3軍と戦車連隊しかなかった。

それまで戦車はソンムやイープルで使われてはいたが戦績は芳しくなかった。戦車連隊長のエリス大佐はこれの原因を「ソンムやイープルは低湿地であり、戦車の活動に適さない」と説明し、高燥な地面の固い場所であれば、活躍できると意見具申した。ヘイグは戦車の運用方法について自身の見解をもっていなかった。野戦軍司令官である以前に政治家であった。東方派がイタリアへの増派を強要する以前に、西部戦線で具体的な戦果をあげなければならない。

ヘイグはいかにも凡庸な結論を下した。戦車・歩兵・騎兵・砲兵の共同作戦である。どうしてもヘイグの頭から、急速な前進は騎兵隊に期待するしかない、という考え方は離れなかった。高燥な場所としてカンブレーが選ばれた。ここは鉄道の結節点であり、占領すれば大いなる戦果と主張できる。

タンク・歩兵の共同

ヘイグは第3軍司令官ビンに構想を示し計画を立案させた。ビンはさすがにヘイグよりは柔軟であった。エリスは戦車しか鉄条網と塹壕からなる第1線壕を突破できないと力説し、戦車を大量使用し、先頭にたたせることを主張した。エリスは戦車は後続するものではなく、先頭にたって砲弾を引き受ける役割を果たすべきだとした。

ビンはエリスの提案を容れ、「戦車3台ずつ3列として先頭にたたせ、歩兵を続行させる。奇襲性確保のため、それまで鉄条網破壊が目的であった準備射撃はやらず、戦車の前進に合わせた援護射撃を実施する。騎兵は後方に控え機をみて投入する」という作戦計画DYを承認した。この計画は9月、ヘイグの手許に持ち込まれた。ヘイグは、2日目夜に撤退が前進か決定するとの付帯事項をつけた。東部戦線からの移送が開始されているので、ドイツ軍の予備隊は存外早く到着するのではないかと予想した。これは的中することになる。

攻撃軸としてはいったん10キロ幅で前進し、1日目でマスニエールにおいてレスコー運河を突破し、2日目で突破口から騎兵をカンブレー東方に進出させ、包囲の機をうかがうというものだった。

カンブレー周辺の地形は、概ね平坦であったが、ところどころに高地があり、また運河が走っていた。守備するドイツ軍は、マルウィッツを司令官とするドイツ第2軍の一部で、第13軍団が主力であった。当初守備配置についていたのは、第20、第54、予備第9、第183師団の合計4個師団であった。

イギリス軍は攻撃予定の9・6キロ幅にたいして、第3軍団と第4軍団が攻撃部隊として区処された。さらに第5軍団が総予備として控えた。

戦車は各歩兵師団に分散配置されたが、当初突撃に向う戦車は216台であり、予備は96台が別に準備された。戦車は全部重戦車に区分されたマーク4型であった。

1918年11月20日

6時20分、イギリス軍の攻勢が開始された。空には飛行機14機が戦車騒音を隠蔽するためと、敵側塹壕を機銃掃射するために上空を舞った。戦車は梯団となって進み、歩兵が50ヤードあとに続いた。1003門の各種大砲・迫撃砲は、戦車隊前方300ヤードに照準が合うよう、発煙弾やガス弾による射撃を開始した。

西部戦線でも11月を過ぎると冬季とみなされ、重大な作戦が実施されることはそれまでなかった。ドイツ軍は虚をつかれ、完全な奇襲が達成された。

戦車隊は先頭にたち、鉄条網を乗り破り、歩兵のための突撃路を開設した。発煙弾の濃煙により、戦車の前進は秘匿され、ドイツ砲兵の射撃を妨害し、塹壕を超越して機関銃を破壊し、歩兵を駆逐した。続行する歩兵は地下壕やピルボックス(トーチカ)に潜むドイツ歩兵を掃討した。ヒンデンブルグ線は完全に突破された。

最右翼の第12師団はゴンヌリュー北方大道に沿って前進した。だが2キロにしてドイツ砲兵陣地があったラトー森林において頑強な抵抗に遭遇し、苦戦奮闘の結果、午後に至ってようやく占領し、多数の火砲を鹵獲した。

その左に位置する第20師団はウェルス高地にあった堅固な陣地を強襲、占領した。

その左の第6師団はリベクールを占領した。

この左に第51師団が位置したが目標に達せず、フレスキエールで停滞を余儀なくされた。これについては後述する。

第62師団はアブランクール村落を強襲し、若干の抵抗を排除し占領した。

その左方、ノール運河西方面では、第36師団がまず運河の堤防上の拠点を占領し、第62師団左翼と共同して北方に前進した。

ここまでの前進はフレスキエール方面を除いて10時半までに達成され、計画通り第2期の攻撃に移行した。

第2線にあった第29師団は超越前進し、マスニエール村落に進入、マルコインを占領した。そして、マスニエールとマルコインの中間にあるレスコー運河の渡河地点およびヌー森林を占領した。このとき、退却するドイツ軍がレスコー運河にかかる橋梁爆破を妨害した。だが、メスニエール村落においては大道上にかかる橋梁の一部を破壊、このため最初に渡ろうとした戦車1台が橋梁より転落し、同時に橋梁は破壊されてしまった。

第6師団はリベクルーから斥候騎兵を出し、カンテーンの方向に前進した。

アブランクールを占領した第62師団は、ヒンデンブルグ線第2陣地を突破し、グランクールを占領した。さらに斥候騎兵がアンヌー村落に進入したところ、有力な抵抗に遭遇し、歩兵の協力を得て、終夜、激戦を交え、朝方になり占領に成功した。この師団の前進がもっとも好調で、約7キロ前進したことになる。

第36師団はヒンデンブルグ線に沿って北方に前進し、バポーム=カンブレー大道に沿った塹壕をことごとく占領した。

こうして第1日は終了したが、フレスキエール未占領とメスニエールにおける橋梁破壊の障碍が残った。

フレスキエールの勇敢な砲手

中央を担当したのは第51師団だった。この部隊はスコットランドハイランダーズ連隊のテリトリアル部隊として編成された。ただ、キッチナーはテリトリアル部隊をウィークエンド兵士として軽視し、1917年まで前線に出ず、2線級として待機・訓練していた。第3次イープル戦にも参加しなかった。

フレスキエールのドイツ軍は第84連隊の一部で、司令部を村落内東部におき、指揮官はホフマイスター少佐であった。ホフマイスターは、イギリス軍が前方に穿間突撃をかけてきているという第1報をうけ、ウィリー大尉の率いる1個大隊を増援のため前方に派遣した。このときはまだ交通壕が生きており、前進壕まで到達できた。ウィリーが情況を直ちに電話で連絡した。

「大隊は孤立した。わが軍の反撃はどこにもみることができない。英兵の怒声と命令と思われる喚声がきこえる。全書類を破棄することを命令した。現在、大隊本部として使用中の地下壕の上部を戦車が進行中である。本部自体は木枠で補強され、一応安全である。英軍歩兵部隊が右方で塹壕を捜索している。わずか20ヤードしか離れていない。情況は絶望と判断する・・・」

ウィリー以下大隊ごと、そのあと英軍に投降している。

一方、フレスキエール後方にいた予備27歩兵連隊は、クレブス少佐指揮の下、ホフマイスターの部隊とフレスキエールで合流した。このとき午前8時であった。ホフマイスターはクレブスと協議のうえ、第108野砲兵連隊の第2中隊に「フレキシエール高地の方面から突出してくるとみられる英軍を目標とせよ」と村落後方に陣地転換することを命令した。この中隊は遅くとも10時までに陣地転換を終えた。

英軍の援護砲火は徐々にフレスキエール後方に目標を移した。さらに、1時間前後、英軍は休憩をとり前進の手を緩めた。クレブスは部隊を村落に集中し、そこで待ち構えることに決めた。

10時半ごろ、英軍は前進を開始した。だが、ついに当日中のフレキエール占領に失敗した。「伝説」ではフレキエールのドイツ軍野砲兵部隊(6門で左右に散開したため片側3門)は、39台の戦車を破壊し、最後に残った1名の勇敢な砲手は、14台を破壊し、最後戦死したという。

これは事実であろうか?また1個師団もの歩兵・戦車共同による攻撃はなぜ失敗したのだろうか?

代表的な説明は、リデル・ハートによる「第51師団長ハーパーは無能であり、戦車教則の歩・戦の幅50ヤードを守らず、100ヤードとしたため、戦車は歩兵の援護をうけられず各個撃破されてしまったのだ」という主張であろう。

まず事実であるが、数日後になされた英軍情報将校の調査によれば、フレスキエール周辺に遺棄された戦車は3台にすぎなかった。だが、これはドイツ砲兵が3台しか仕留められなかったことを意味しない。当時の金属の表面処理技術は現代と雲泥の差があり、裏面剥離(スキャビング)現象がしばしば生じた。

この裏面剥離とは、弾丸の破片が戦車に命中すると、たとえ貫通しなくとも、打撃の衝撃により戦車内側の金属が剥がれ(剥離)、乗員に被害を与える現象である。英軍の場合、内部に塗った塗料ですら乗員に被害を与えたという。これがため戦車兵は皮製の顔面を覆う仮面をつけ、ゴーグルで目を保護するいでたちであった。だが、重大な被害があれば、乗員は脱出せざるを得なかった。それに加え、当時の戦車は複雑な運動をやるとしばしば故障した。ディファレンシャル・ギアーなどの部品の耐久性不足のためであった。故障で擱座した場合、部品をとりかえ後日回収することがよく発生した。

このようなことで、何台が破壊されたかを検討することは不毛であろう。問題は、他の方面と異なり、第51師団がなぜフレスキエールを当日占領できなかったか?である。

リデル・ハートは、ハーパーが戦車教則に従わないことを理由にあげているが、とても納得できない。ハーパーの戦車と歩兵の距離を開けた理由は、「戦車が砲弾と銃弾を集めるから、歩兵との距離をより開けた方がいい」というものだった。そして、その差はわずか50ヤードである。そのうえ、戦車は機関銃弾をはじき前進することができたが、歩兵は村落からの縦射によって、足止めされてしまった。

つまり、ドイツ軍砲兵は村落後方にいたため、イギリス歩兵は捕捉することができなかった。これ自体は戦車との距離は関係なく生じる。さらに、マーク4の側面は正面と比較して巨大であり、側面からの射撃に弱かった。

この問題の解答は「奇襲が成立しなかった。戦車が村落を避けた。フレスキエールのドイツ軍が徹底抗戦した」の3点ではなかろうか。フレスキエールは30戸程度の寒村にすぎないが、それでも当時の戦車にとっては、制圧できなかったのである。

「フレスキエール方面の戦闘において、我が戦車隊に大損害を与えたドイツ軍砲兵は頗る勇敢にして、最後は砲側に将校1名残すのみになった。この将校は斃れるまで自ら砲を操作し、発砲を継続した。その動作が勇敢であったことは推賞に値する」とイギリス軍公刊戦史は伝える。いくら条件が備わっても勇敢は将兵がいなければ、戦闘を有利にすることはできないことは事実であろう。

攻撃2日目(11月21日)以降の情況

フレスキエールのドイツ軍は後方が脅かされているのを知り、夜間に撤退した。その他の塹壕内部に止まっている敵の掃討を実施し、英軍は11時に再度、攻勢を発起した。マスニエール方面では渡河地点確保を計ったが、逆にクレーブキュールから撃退されてしまった。このため、左翼からのカンブレー包囲を目指し、ブルロン森林に向った。ところが森林を出て、ブルロン市街地に出るあたりに、ドイツ軍は漏斗状の対戦車壕を設けており、どうしても前進することができなかった。

ヘイグはビンの司令部まできて今後の作戦方針を検討した。両者は作戦継続で一致し、イタリア派遣のための2個師団流用を決めた。

ドイツ軍も東部戦線からの来着地点をカンブレーに変更した。

第51師団はフォンテーヌ・ノートルダムに向かい、戦車隊の一部はフォンテーヌ村落内に突入した。第40師団もブルロン森林を攻撃した。この辺りが英軍の攻勢限界点となった。11月24日午後2度にわたり、ブルロン村落に突入したが、いずれも後退した。27日にも戦車隊を先頭にブルロン村落に突入したが、やはり逆襲をうけ撃退された。このころから、兵力の欠乏はイギリス軍側に目だってきた。

11月30日、午前7時から、今度はドイツ軍の総反攻が開始された。マスニエール=バンデイユ間に猛砲撃を加え、4個師団をもって、英3個師団を攻撃した。英軍はこの方面では終日、防衛に成功した。だが南方ゴンヌリューの正面では短時間の砲撃ののち濃霧を利用した浸透戦術による突破を成功させ、ゲーゾークールを占領した。

だが正午、英軍は予備としていた近衛師団と戦車3個中隊を投入し、ゲーゾークールの再奪還に成功した。11月30日の段階で北部の戦線は動かなかったが、英軍は南部が脅威にさらされた以上、ブルロン周辺に主力を配置することは危険と判断し、自発的撤退が命令された。

こうして、12月4日にかけてフレスキエール北方の線まで撤退、戦線は安定し、カンブレーの戦闘は終了した。

作戦評論

イギリス軍の最大収獲は戦車をもって、ドイツ軍最強の陣地と目されたヒンデンブルグ・ラインを突破可能であると認識できたことであろう。歩兵・戦車共同による攻勢は、翌年8月の連合軍最終攻勢で実施された。

一方、ドイツ軍も浸透戦術でイギリス軍の防衛ラインを突破できると認識できた。

いわば両軍ともに、従来の防勢作有利との確信を、攻勢もあるいは可能であると転換させた。この作戦による戦死者は英軍4万4千、独軍4万5千であった。13日間の戦闘としては卒倒すべき甚大な人的消耗である。捕虜は英軍9千、独軍1万1千であった。なお英軍戦車は延べ466台が参戦し、うち約100台が破壊された。

もし、ヘイグが当初予定通り2日間で攻勢を停止し、攻勢発起点まで自発撤退したらどうか、という設問はこの戦闘直後から呈示されている。筆者はそうすべきであったと考えるが、どうであろうか?


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