英国遠征軍(British Expeditionary Force

英国遠征軍(British Expeditionary Force

英国遠征軍(British Expeditionary Force

英国遠征軍(British Expeditionary Force

英国遠征軍(British Expeditionary Force

短期戦幻想

ベルギーの中立侵犯が確定、ドイツに最後通牒が手交された8月4日、空席だったイギリス陸軍大臣にハルツームの英雄、キッチナーが任命された。キッチナーは翌日の初閣議で「この戦争は数ヶ年続く、イギリスは数百万の軍を大陸に送り込む必要がある。」と明言した。グレイ外相は後年「キッチナー将軍がどうして、また どのような推理力を働かせて長期戦を予測したのかついにわからなかった。」と語っている。

ジェラード大使の回想

これは信じられない千里眼的予想である。この時点で独・墺・仏・露とも短期戦の前提で動いていた。もし少しでも長期戦を予想すれば作戦計画は完全に違っていたし、そもそも戦争になったかどうかも、疑わしい。(*1)     

キッチナーはこの後自らの名を残すキッチナー陸軍を組成し大陸に送る。しかし、その陸軍は西部戦線でほぼ全滅に近い打撃を受ける。発言からすると塹壕戦まで予測したに違いない。それでも塹壕戦を突破する方策は見出せなかったのだろう。高位の責任者として始めて近代戦の本質を見抜いたことと、風貌を今に残す兵員募集のポスターとで、彼の名は不朽だろう。

イギリスでは陸軍大臣(War Minister)や海軍大臣(First Sea Lord)は統帥部より上位にあり、両大臣の承認がなければ、戦略性が必要な作戦は決定できない。また陸軍大臣は海軍大臣をも統括した。


イギリスが参戦を決定し、大陸派遣軍を組成したが直ちに問題となるのはその上陸地だった。 

キッチナー陸軍

デュバイユ=ウィルソン協定

イギリスとしてはベルギーの中立侵犯を理由として参戦したのだから出来ればその優勢な海軍力を利して、ベルギーに上陸したいのだが結局フランスに上陸する。
アイデアとしては直接ドイツに上陸する、例えばデンマークの南方、シュレスウィヒ=ホルシュタイン周辺、案、またベルギーのアントワープに上陸する案。等が検討された。しかし1911年の英・仏参謀本部会議で決定されたデュバイユウィルソン協定、即ちフランス軍の最左翼に位置する案で決定された。本来はベルギーの支援のために参戦したのだからベルギー軍と行動を共にしたいところだが、予め計画が立てられていなければ、全く動けないという参謀本部の強い希望に沿ったものである。

この理由は他国も同じだが鉄道ダイヤが決定的で、他の条件はすべてそれに従わざるを得ないというのである。鉄道ダイヤが簡単に変更できないのはわかるが、BEFは完全に志願兵=常傭部隊でできており、戦時編成の必要が少ないのである。数も当面4個師団、10万人程で、鉄道ダイヤに支配される事はないと思われるが、どうなのだろうか。

1914年頃の欧州戦線におけるイギリス軍制服。
イギリス軍は欧州陸軍のなかで最も早く迷彩色を取り入れた。1890年代のインド北西部の反乱・スーダンでの戦いや1902年ボーア戦争当時、ゲリラ戦に苦しんだ。このためとくに狙撃を免れる意味で、これらの地域にあったカーキ色が導入された。またイギリス軍は終始補給の点で他のヨーロッパ諸国の軍隊より効率的だったが、これも一つは兵士に重量のある背嚢を持たせたためであり、それだけで30キログラムに達する。これは明治期の帝国陸軍兵士の18キログラムと比較していかに負担を強いたかがわかる。ただ帝国陸軍兵士は後方での行軍では放縦なところがあり背嚢はおろか小銃まで労務者を自費で雇い運ばせたという記録が残る。これは将校でなく兵卒の記録である。

この時代の動員計画は極めて緻密かつ前提を固定的に捉えていた。フランスの動員計画では鉄道ダイヤは平時のウィークデイのもので決められ、特別列車の予定はなかったという。無用な混乱を避ける目的だったらしい。オーストリアの動員列車は事故防止のため平時より30%スピードを落としかつ食事のとき必ず停車したという。

スコットランドで1915年軍用列車が転覆し、イギリス鉄道史上最悪の事故となった。これは臨時ダイヤを駅員が見逃し、ポイントの切り替えを怠ったためだった。このように安全配慮は理由のないことではないが戦場での殺伐とした戦闘をみると矛盾するものを感じる。

デュバイユ−ウィルソン協定もその例外ではなく、フランス軍の連絡将校との打ち合わせ日時、落ち合う喫茶店、出席者すべてが決められていた。このため事前準備でウィルソンは自転車で毎夏、モーブージュ周辺を視察したという。

 乗船するBEF


 このフランスの左翼につく案を実行したことにより意外な反応が出た。すなわち、イギリスはもとから参戦の密約をフランスとしていた、という疑いをもたれたことである。
この疑いは特にアメリカで強く、いまだにとけていない。史料にあたる範囲では密約が存在しているとは思えないのだが。参謀本部の意見交換などは各国とも随時やっている話で、ドイツはイタリー軍参謀本部とイタリー軍の西部戦線派遣を検討していた。

イギリス海軍にしても、サラェボ事件当時キール軍港を善訪問中で英海軍水兵と独水兵がサッカー試合を楽しみ、夜、町中を酔って練り歩いたのは有名である。
イギリスは英仏協商があるとは言え、ナポレオン戦争以来ドイツをあからさまな敵とはみなしておらず、むしろ大陸の対立に中立的に振舞おうという気持ちがあった。


 結局、戦争がいつ起きるかは予測できていないのだから、実際に戦争になってイギリスはあわててマニュアルとか長い間机の中にあった計画を引っ張りだした。このマニュアルはウォーブックとよばれていた。中身自体は用意周到で、召集にかかった予備役が仮に集結地まで旅費がなくてもイギリス国鉄が一旦負担するとか、残された家族が次の給料日まで生活が可能な補助金の支出とかまでもが決められていた。

 しかしこの8月5日の閣議決定後の進展は迅速で、マニュアルに従っただけといえばそれきしだが、なんと4日後の8月9日の深夜から4個師団約8万人がフランスに向け出港した。

8月12日、キッチナー(陸軍大臣)とアスキス首相、フレンチBEF司令官、関係閣僚、フランスからの軍事代表団2名とで遠征軍の最終方針が決められた。進撃目的地をどこにするかで最後まで紛糾した。

マフディの戦争

 キッチナーはドイツ軍の主攻をベルギーから北部フランスとみていた。この時点でジョフル仏軍参謀本部はこのドイツ軍右翼の動きを陽動作戦とみていた。BEFをフランス軍左翼の更に左翼に配置する事はよいのだが、フランス代表はモーブージュを、キッチナーはもっと海岸よりのアミアンを主張した。

キッチナーはこの開戦初期の段階ですでにシュリーフェンプランの骨子をつかみ、これに対するフランス軍の攻勢計画に不安を覚えていたことがわかる。会議自体はアスキス首相の裁断でフランス案を採る事になったが、キッチナーの疑問が消える事はなかった。そしてその疑問は的中することになる。

キッチナーはフレンチ(BEF司令官)にBEFは独立の軍でありフランス軍の指揮下に入る事はない、との訓令を出す。またBEFは将来のイギリス大陸軍の核であり決して滅亡させてはならない、と強調した。これらの訓示はBEFの大陸での行動を大きく左右した。

モンスから撤退するBEF槍騎兵

(注*1)キッチナーとは別に、この時期に長期戦を考えたもう一人の人物がいた。ドイツ皇帝ウィルヘルム二世である。

8月10日ウィルヘルム二世はアメリカ駐独大使ジェラードに長期戦の可能性を語っている。「イギリスの参戦がすべてを変えてしまった。しつこい国だ。この戦争を続けるつもりだろう。とても早期には終わらない。」

カイザーはジェラードがパリ占領の可能性をほのめかし、それを肯定した後、この発言をしたもので、フランス打倒はできるとみていたのではないか。

するとフランス打倒のあと、島国のイギリスと広大なロシアを相手になお戦わなければならないと考えたのだろう。自らをナポレオンと同じ境遇に置いたことに思いをはせたのかもしれない。塹壕戦の長期化は想定していないと思われる。


Williamson, S .R.,The Politics of Grand Strategy: Britain and France prepare for War 1904-1914, Cambridge, Mass., 1969
Barnes, R.M., The British Army of 1914, London, 1968
Carew, T., The Vanished Army, London, 1964
Gerard, J.W., My Four Years in Germany, London,1917
;Face to Face with Kaiserism, London, 1918


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