封鎖作戦とUボート戦

1914年8月9日 イギリスの巡洋艦バーミンガム、ヘリゴランド沖でドイツUボートU15を撃沈。
1914年9月22日 UボートU9(ウエディンゲン)北海沖でイギリス巡洋艦アボウカー、ホーグ、クレッシーの3隻を撃沈。
1914年11月 イギリスはドイツと接する北海を交戦地域に指定。中立船舶はドーバー海峡を回るように指示。敵国向け軍需物資の没収。
1915年1月1日 U25、イギリス旧式戦艦フォーミダブルを撃沈
1914年1月24日 ドッガーバンクの海戦。ドイツ巡洋戦艦、ブルーヒャー撃沈される。
1915年2月4日 ドイツはイギリス周辺を交戦海域と指定。商船をふくむあらゆる船舶を無警告で撃沈することを宣言。そのなかでドイツは国際法で決められた条件付き軍需物資と禁制品の区別をイギリスの封鎖作戦は無視していると指摘した。条件付軍需物資に食料品まで含まれたため、ドイツはイギリスの封鎖作戦を飢餓封鎖と呼んだ。
1915年3月1日 イギリスはドイツの2月4日の声明に対抗して、ドイツの港湾を入出港する全ての船舶を撃沈すると発表。
1915年3月28日 U28イギリス商船ファァバを撃沈
1915年4月27日 フランス海軍のアドリア海封鎖作戦の突破を目的にオーストリア海軍U5(トラップ)フランス巡洋艦レオンガンベッタをオトラント海峡で撃沈。
1915年5月7日 イギリス定期客船ルシタニア号がアイルランド、キンセール沖でU20(シュウェイガー)により無警告にて撃沈さる。1198人死亡。3日後ウィルソンは「アメリカは他の国と違う良心を持たなければいけない。アメリカは単に戦争にはいらないことで例を示すだけでなく、争闘でなく平和こそが世界を癒し、影響力を増すことだと信じそれで例を示すこともできるに違いない。誇り高く戦いを拒否する人間がいるのと同様に正しいということを、力でなく他国に信じさせる国も存在してよいはずだ。」と演説した。
1915年8月19日 ドイツ巡洋艦隊ロシアのリガ軍港を急襲、イギリス潜水艦E1(ローレンス)これに対抗してドイツ巡洋艦モルトケを大破させる。
U24アラビック号撃沈。アメリカ人が3人死亡。アメリカ政府激しく抗議。
1915年8月30日 ドイツ、商船と客船を無警告で撃沈することを禁止することを命令。こうすれば、乗員に脱出の機会が生まれるとした。
1915年9月18日 ドイツ海軍軍令部総長ホルツェンドルフ、潜水艦隊の地中海への移動を指令。
1916年3月12日 首相ベートマンホルベークと海軍大臣ティルピッツとの無制限潜水艦戦をめぐる論争に決着がつけられた。ウィルヘルム二世は首相につき、無制限潜水艦戦の禁止を支持した。ティルピッツは即刻辞表を提出した。
1916年3月13日 ドイツ海軍軍令部、無制限潜水艦戦禁止を緩める命令を出す
1916年3月24日 U29が英国海峡にてサッセクス号(フォークストン−ディエッペ間の海峡フェリー)撃沈する。
アメリカは客船の攻撃を中止せねば、国交断絶もありうると警告。
1916年4月24日 再び、無制限潜水艦戦の禁止措置がとられた。
1916年4月25日 ドイツ外洋艦隊の巡洋戦艦がヤーマスとロウストフトを艦砲射撃。
1916年5月31日 ユトランド海戦
1916年6月5日 キッチナーが乗船した重巡ハンプシャーが、ドイツがユトランド海戦を前に敷設した、機雷に触れ沈没した。キッチナーは荒天の北海に沈んだ。
1916年11月21日 チンメルマン、ヤゴウのあとをついで外相に就任。
1916年12月12日 ドイツ首相ベートマンホルベーク、議会で和平について論及。併せてアメリカに仲介の依頼を行った。しかし条件については明らかにせず、また戦闘で勝利していることを強調した。
1916年12月18日 ベートマンホルベークの呼びかけに答え、アメリカ大統領ウィルソンが交戦国と会談したいとのメッセージを発表。
1917年1月10日 ロイドジョージウィルソンのメッセージに答え、「ベルギーの復旧・フランス他占領地の撤退・トルコのヨーロッパからの撤退・イタリーの領土拡張など旧国境線までの撤退と秘密外交の確認」を要求した。
1917年1月18日 メキシコからの撤兵を決定。
1917年1月22日 ウィルソン、上院で勝者も敗者もない平和を主張。
1917年1月31日 ドイツ無制限潜水艦攻撃再開の方針をアメリカに通告。これは大戦期間中3度目にあたる。
1917年2月3日 アメリカ、ドイツとの国交断絶を宣言。
1917年4月2日 アメリカがドイツに宣戦布告。

潜水艦戦と米独外交

年代記は以上だが、アメリカ外交とつきあうことが、いかに難しいかがわかる。アメリカの無制限潜水艦への批判は人道的なものにすぎず国際法ではドイツの主張が妥当にみえる。

だがこれをアメリカ人一般は理解していないし、また参戦自体に反対だったと推定される。アメリカ人の気持ちは「なぜ古いヨーロッパに再び顔を突っ込まねばならぬのか」だろう。そして第2次大戦では無制限潜水艦戦批判をとり下げている。そして真珠湾で主力艦が全滅すると太平洋では唯一活発な潜水艦による無差別通商破壊戦を実施した。  潜航準備中のUボート

また批判のトーンは貨物船でなく客船が撃沈された方が高い。これは当然のようにみえるが、軍事的にみれば陸軍の兵員輸送船は最大の標的だろうから、ドイツには酷な要求にみえる。それでもドイツは一旦民間船への攻撃を中止する。それを戦局が突然悪化したのではないのになぜ再開したのだろうか。

もちろんロシアの崩壊が1年早ければしなかったろう。最大の理由は軍部が英仏が徹底抗戦するのはアメリカを頼りにしているのではないかと曲解したことではないか。1915年8月中止のときファルケンハインは英仏の装備と弾薬はアメリカから来ていると主張した。これは誤解である。原料はアメリカから来たかもしれないが武器の段階では英仏は自製していた。

また原料は軍需物資に当たらないと主張したのはドイツの方だ。この発想がアメリカを敵とみなし、交戦国となっても大差がない、と考えさせたのではないか。だが大差はあった。それも決定的だった。ドイツはベルギーの中立侵犯によりイギリスの参戦を招いたが、これも大差がないという発想に基づいていた。そして日本・ドイツは第2次大戦でも同じ愚を繰り返す。作戦よりも常に政治(外交)の方が大国間の戦争では重要だ。

またウィルソンは国交断絶の直前まで、仲介者としての役割を果たしたいと考えていたようだ。ただこの考えは戦争に関与し、早期停戦を計る選択肢も残していたのだろう。メキシコからの撤退がその証左ではないか。アメリカとしては参戦しても停戦を仲介してもヨーロッパにおけるドイツの覇権を認めることは絶対になかっただろう。

ドイツが和平を希望するなら、ヨーロッパの覇権を求めることはないという保証をするのが必要だろう。これを実現させるには有能な外交官が必要でかつカイザーの支持が絶対だろう。だがドイツの軍・政府の官僚はそれを許さなかった。

また大戦のそれ以上の長期化はアメリカ経済にもまた国民の心理にも耐えられないものと映ったのだろう。

封鎖作戦

イギリスの封鎖作戦は成功し、ドイツのUボートによるイギリス周辺の交通遮断は失敗したとされる。これは真実だろうか。  

U9:艦長ウェディンゲンが指揮し1914年9月22日、イギリス巡洋艦3隻を撃沈した。その後名前がU12に変えられたが1915年3月18日、ペントランド河口で発見され戦艦ドレッドノートに体当たりされ撃沈された。

奇妙なようだが、イギリスの潜水艦なり水上艦がドイツの商船を大量に拿捕・撃沈したわけではない。またドイツは水上ではバルト海の制海権は維持しており、スカンジナビア諸国およびオランダとは自由に通商できていた。更にドナウ川の水運は中央同盟国の交通を支えた。

ドイツにできなかったのは、遠隔地の重量のある軍需物資石油・ゴム・原皮等の搬入だった。

またこれらの品目は戦前ドイツが頻繁に交易していたものではない。戦中の技術進歩とりわけ内燃機関の発達がそれらの物資を要求した。

そしてこれらの物資は高価になったときドイツは軍事的な入手策より代用品の実用化に意を注いだ。要するにドイツは交易基盤がなく、ヨーロッパに存在しない原料を効率的に使用することをしなかったのだ。その意味でドイツ人が世界性に欠けていたと言えるかもしれない。

これはまた副次的な効果をもたらした。ドイツは交戦国中、外債に頼らない、または頼れなかった。国際的な銀行はイギリスに集中し、利用をゆるさなかった。戦費は国内債だけでまかなわれ、財政的には余裕が生じ減税すら実施した。もともと経済的にドイツは英仏を圧倒しつつあったが、産業の中心は鉄鋼、機械、化学、工業部品で2次製品だった。このため輸出品は同じヨーロッパ諸国向けで、アジア・南北アメリカは重要でなかった。これらは戦中自家消費されたにもかかわらず外貨繰りが特に悪化したわけではない。

このヨーロッパ・国内傾斜は、戦後英仏と異なり対外借入の増大・国際マーケットの地位縮小を招いた。ドイツ問題はドイツ人が自身で指摘する問題点の他に、英仏と異なる産業基盤と自給自足経済をなんとか可能にする技術基盤に起因している面がある。

イギリスの封鎖作戦はヨーロッパ以外のイギリス領事館が非軍事品証明を第3国荷主に発行しヨーロッパへの船舶輸送を許可することでなされた。しかし荷主の大半の客はドイツやオーストリアでなく英仏だったから、あまり抵抗なく行われた。ドイツは封鎖の目的が食料だとするが、食料はオランダ経由で輸入可能だった。砂糖やミルクの輸入が途絶えたというが、砂糖大根で甘味は足りていたし、乳製品はデンマークから外貨があれば可能だった。

外貨の効率的使用を考慮しそれら産品の輸入を制限した可能性はある。1917年以降は東部の新領土から食料を大量に徴発できていたことが軍部をして国内自給維持可能と判断させたのではないか。だが窃盗で取れる量は多くない。

軍人は市場経済を理解しないから、配給の実施が民間在庫を不当に増加させたり、戦時債の引き受けを発券銀行に頼り通貨の増発によるインフレの発生させたりした。物資の不足はこれら民間退蔵・インフレ加速予想による通貨回転増加による面があるのではないか。

だがいかに徴発や代用品でしのげても、外国物資が市場からなくなる現象は国民にとり心理ストレスとなったのは疑いない。これがイギリスの作戦を成功させた、ないしはドイツ国民がそう理解したのではないか。

連合国の第1次大戦の最大の勝因はこの封鎖作戦だった、という見方はいまだに有力である。チャーチルは回顧録でネビル・チェンバレンがそのような見解だったとしている。これから石油と鉄鉱石のドイツへの搬入を阻止しようというイギリスの第2次大戦の初期の作戦構想が決定された。

しかし第2次大戦の終末時点をみると、封鎖作戦を重要視するのは誤りではないか。やはり野戦軍または艦隊の相当部分を喪失し抗戦能力をしたと、敵指導部がみなさないと大戦争は終結しないのと思われる。封鎖作戦だけで武器弾薬または食料・交通手段を一掃するのは不可能ではないか。もちろん心理的圧迫はあるが、かえって団結させる面もあり決定的とはいえない。もちろんやらないよりは良いというのは当然である。

そして封鎖作戦とUボート戦で物理的に被害の大きかったのはドイツよりイギリスではないか。島国は、日常自給自足体制にない。5000トンの砂糖運搬船がUボートにやられるとジャムの供給がイギリスではストップしたという。海路を断たれると島国は陸路が存在しないだけ厳しい。第2次大戦の日本の敗戦原因の一つがアメリカの潜水艦戦だったことは事実だろう。

イギリスの対潜作戦



Bell,A.C., The Blockade of Germany, London, 1937
Davis, H.W.C.A.,History of the Blockade, London,1920
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