アピス

アピスことドラグティン・ディミトリエビッチと配下のウォイスラフ・タンコシッチとミラン・チガノビッチの運命はどうなっただろうか。

アピスことディミトリエビッチ(Dragutin Dimitrijevic 1877-1917)
アピスはラテン語で「蜂」の意味だが、一方アラビア語では雄牛の意味があるどちらをとったか判然としないが、サーブ・クロアチア語では不気味な響きがあると言う。

ディミトリエビッチはブラックハンドの首領であり、セルビア陸軍情報局長でもあった。タンコシッチとチガノビッチは、サラェボ事件実行犯のイリイッチの供述からサラェボ警察の知るところとなった。だがイリイッチはタンコシッチ以上のブラックハンドの指導者ついて、またはブラックハンドがどのような組織であるかは知らなかった。

イリイッチは死刑の恐怖からか唯一積極的に供述しており、オーストリア側警察の歓心を引くことは全て喋ったとみられる。しかしオーストリアの最大の関心事、セルビア政府の関与はついに喋らず、逆にいえば知らなかったのであろう。

ベルヒトルト(外相)は最後通牒草案の作成にあたりサラェボ警察の捜査資料を参考にしており、イリイッチの供述から、タンコシッチ及びチガノビッチの名前が最後通牒に記載されることになった。

反面首領ディミトリエビッチの名前はなく、このブラックハンドの解明はすべて後世の歴史家によるものである。ディミトリエビッチがアピスの偽名であることはセルビア政府からの説明で1920年代には公となった。そしてタンコシッチがテロ活動でセルビア軍におけるディミトリエビッチの片腕であり、更にチガノビッチがテロリストとの裏連絡者だったというのが1960年代明らかにされた。

ディミトリエビッチは1877年セルビアで生まれた。18歳でベオグラード士官学校に入校し優秀な成績で卒業した。そして直ちに陸軍参謀本部に迎えられる。1903年ディミトリエビッチ(この時大尉)は他の青年将校と組み、アレクサンダー国王とドラガ王妃を殺害した。(5月クーデター)この王宮襲撃事件でディミトリエビッチは重症を負い、体内に生涯3発の弾丸が残ることになった。

5月クーデター

この事件でセルビア議会はディミトリエビッチに「祖国の救世主」の称号を与えた。その後、士官学校の教員となりドイツおよびロシアに留学した。つまりディミトリエビッチはセルビア軍きってのエリートであり将来を嘱望されていた。また王宮襲撃を伴う大逆事件にも拘わらず、軍内部の支持は揺らがなかった。

ディミトリエビッチは絶対王制を支持せず普通選挙にもとづく議会主義者だった。ただこの信念は超国家主義(大セルビア運動)に従属するものだった。またセルビア王家にはオブレノビッチ家とカラジョルジェビッチ家(黒いジョージの子孫)の対立があり暗殺されたアレクサンダー国王はオブレノビッチ家に属した。一方新国王ピーターはカラジョルジェビッチ家でそれまではアレクサンダー国王により国外追放の状態にあった。黒いジョージはセルビアを独立に導いたジョージ・ペトロビッチのあだ名で、ピーターはそのひ孫に当たった。そのため国民の支持はむしろピーターに集まった。

1911年5月ディミトリエビッチはブラックハンドを結成した。正式名称は「統一か死か」というもので、テロにより大セルビア運動を達成することを目標とした。組織としてはナロードナ・オドブラナと表裏をなすもので構成員は重なっていたが、最盛時には2500人を数えたという。1911年ディミトリエビッチはフランツヨゼフ・オーストリア皇帝の暗殺を計画し失敗した。1914年春にはポチョレック・ボスニア総督を毒塗りの短剣で刺殺することを計画した。しかし下手人として期待されたメフメド・バシッチ(サラェボ事件で唯一逃亡に成功した実行犯)は警官を見るなり逃げ出し成功しなかった。

ブラックハンド

そして運命のサラェボ事件を迎える。この事件をディミトリエビッチがプリンチップに持ち出したか、あるいはその逆か判然としていない。本文ではプリンチップが主導した説をとった。プリンチップの供述を信じたためである。

それはともあれ暗殺に成功し、また第1次大戦に発展した。大戦期間中は参謀本部将校として勤務についた。そしてマッケンゼンによるバルカン攻勢で本国を追われると、アルバニア・コルフ島経由サロニカの逃避行に全て参加した。

1917年パシッチ首相は摂政アレクサンダー皇太子(父ピーターと異なりやや独裁的傾向のある人物。1934年フランス・マルセイユでクロアチア人に暗殺された。)の暗殺を企てたとして他の二人とともにディミトリエビッチを逮捕した。

この事件も不明な点が多いがフレームアップだった公算が強い。そして1917年6月11日銃殺刑が執行された。

ディミトリエビッチの死に臨んでの証言
二段階の有能なる裁判で死刑を宣告され、また王家から赦免を得られなかった身だとしても、私は無実で死ぬことになる。そして私の死はセルビアにとりより高い次元での理由により必要なものだと確信する。私は本意ではないが愛国者としての仕事でいくつか失敗した。私は知らずしてセルビアの国益に反したかもしれない。だが行動に当たっては常に危険を犯さざるを得ない。だが意図して失敗したことは断じてないし、セルビアの国益に奉仕することを願ってきた。

言葉は明晰でありセルビア国家主義者や民族主義者であれば更に感動するだろう。テロリストやクーデター首謀者の大部分は最後に感動的な言葉を残す。なぜならば彼らの大義は正しいことが多いからだ。だが政治運動で一半の正しさをもたないものはまず存在しない。暴力主義は実は大義と関係なく、表現の手段である。あるいは言論の自由が存在しない地域であれば、それはある程度許されることなのかもしれない。だが言論の自由のある地域の君主や政治家、または無差別に市民を自殺攻撃であろうがなかろうがテロにかけることは許されない。その大義が独立であろうが統一であろうが変わることはない。第1次大戦で連合国が勝利した結果サラェボ事件をひき起こした側が顕彰される形となった。これは現在にもつながる大きな悲劇の始まりだった。

リューボミール・ダビッチ中佐(公式処刑立会人)の証言
三人の死刑囚がその目的のため掘られた溝の前に連れてこられ、木に縛られた。目隠しをされた後、ディミトリエビッチは『大セルビア万歳』と叫んだ。マロバビッチは最初の5発で倒れた。その後20発を要した。誰も頭部は狙わなかった。処刑は朝4時47分終了した。」          パシッチ

それではオーストリアの最後通牒に記載されたタンコシッチとチガノビッチはどうしただろうか。

タンコシッチは1903年の王宮襲撃事件に参加しこの時からすでにディミトリエビッチとは知り合いだった。その後ニッシュのセルビア軍学校の教官を務めていたが、この学校の主目的は諜報活動とテロ活動にあったようだ。バルカン戦争でも活躍し1914年少佐となった。

サラェボ事件ではプリンチップの唯一の接触相手として活躍した。しかしグラベッツの供述によるとチガノビッチの方が上位にあったとされる。しかしチガノビッチは裏の組織に属し武器弾薬を手渡す役でタンコシッチは教育係りためそのような印象を持ったのではないか。
タンコシッチは後日パシッチ首相を困らせるためやった、と語っている。当時マケドニア統治の方針で軍政か民政移行かでディミトリエビッチとパシッチが対立していた。フェルディナンド大公暗殺でパシッチに政治的打撃を与えようという意図だった、と解されている。だがパシッチを困らせるなら他に危険の少ない方法があるように思える。真意はなお不明である。

1915年マッケンゼンのバルカン攻勢で戦死した。                  

チガノビッチはボスニア生まれでベオグラードに1910年ごろ転居した。おそらくブラックハンドの創立のときからのメンバーと推定される。またセルビア情報部から報酬を得るエージェントで、カバーとしてセルビア国鉄に勤務していた。

一説によればパシッチ首相にフェルディナンド大公暗殺計画があることを打ち明けたのはチガノビッチだという。

チガノビッチの果たした役割はベールに包まれている。1950年頃からチトー政府はサラェボ事件について青年ボスニア(ムラダボスニ)が主要な役割を果たしたと主張し始めた。ボスニア・ヘルツェゴニナはクロアチア人・イスラム教徒・セルビア人が混住しているが、1908年のオーストリアのボスニア併合以降、青年ボスニア運動が存在しユーゴスラビア運動(南スラブ人の統合運動)が熱心に主張されたとする。スイスのローザンヌに居住していたガチノビッチという革命家がリーダーであり実際にサラェボ事件を主導したのではないかと推定する。

ガチノビッチはイリイッチとチガノビッチを通して、ブラックハンドに接近し武器やプリンチップを得たという筋書きが多い。また公判でプリンチップが組織体には青年ボスニアしか参加していないと供述したことも影響している。そしてブラックハンドが自分の仕事にしては不熱心で爆弾が目的外、青酸アンプルが期限切れで無効だったのがその理由だとも主張する。

この説は政治宣伝とみなし一切とらなかった。理由はチガノビッチにしてもガチノビッチにしても生涯のあとの方が闇に包まれているからである。プリンチップはむしろアピスのカバーとして学童時代の仲間を青年ボスニアと名づけたにすぎないのではないか。

大戦期間中セルビア政府はチガノビッチをアメリカに住まわせた。1919年セルビアに戻り政府から土地を与えられ定着した。その後結婚したが1927年死亡した。享年39歳という。




デイヴィッド・マッケンジー『暗殺者アピス第1次大戦をおこした男』 柴宜弘他訳 平凡社 1992
サラェボの
7人のテロリスト
チュブリロビッチの証言
民族浄化主義者としてのチュブリロビッチ
セルビア小史

このページTOPに戻る
サラェボ事件に戻る
に戻る