イタリー戦線


イタリー戦線は山間部(南チロルまたはトレンチーノ)と東部の平野部(イソンゾ川沿いと後半はピアブ川沿い)で戦われた。

前半はイタリーとオーストリア間の戦いだったが後半は独、英仏が介入した。戦局はだいたいオーストリア有利に進捗した。休戦までイタリーはオーストリア領内に踏み込むことはできなかった。

この戦線が西部戦線に与えた影響は軽微で、また英仏の負担がより重かったようだ。イタリー軍の装備は劣悪でまた砲弾も支援をうけねばならなかった。また全般的にイタリー人はアルプスにむかって登らねばならない。上から下にする方が攻勢でも防御でも有利だった。

1915年

1915年5月イタリーは連合国側にたって参戦した。オーストリアの参謀総長コンラートはイタリー戦には自信をもっていたが、ドイツのファルケンハインに止められ、防御姿勢をとることになった。この両者の確執はファルケンハインの解任まで続く。従って、イタリー軍(参謀総長カドルナ)がイニシアチブをとることになり、平野部が戦場として選ばれた。

第1次から第4次イソンゾ戦(6月−12月)はイタリー軍がよく整備されたオーストリアの守備陣地に攻勢をかける形で戦われた。オーストリアの野戦軍司令官はオイゲン公でよく守備した。イタリー軍は損害16万人を出し、全く前進できなかった。たいするオーストリア軍は11万人といわれる。

1916年

第5次イソンゾ戦が3月またもイタリー軍の攻勢で開始された。しかし今回も成功できなかった。するとコンラートは始めて、南チロルで攻勢にでた。このあたりは氷河時代の名残でU字渓谷をなしていたが、イタリー軍は山頂部を守備しオーストリア軍は谷間を進んだ。上下で上が有利といっても、山頂部から谷間へは標高差が相当あり射撃にならない。イタリー兵は山頂部にとり残され、補給を断たれ降伏していった。

南チロル(トレンチーノ)で山頂部に陣取るイタリー兵

南チロル攻勢

しかし6月にはいりブルシロフ攻勢により東部戦線のオーストリア軍は崩壊し、攻勢は中止となった。これをみてカドルナは8月第6次イソンゾ戦にでた。しかし弱体化したオーストリア軍に歯がたたない。カドルナはそれでも第7次から第9次までイソンゾ戦に固執した。しかし戦果はあがらず11月には退潮にむかった。

1917年

オーストリアではフランツヨゼフ皇帝が1916年11月薨去しカールT世があとをついだ。カールは攻勢一点張りのコンラートを革職、かわりに温順なシュトラウゼンベルグに代えた。カールは分離和平を模索するが、失敗に終わる。連合国は戦後処理はドイツでなくオーストリアの負担で実施することになると予感しており、単独講和はできない形勢だった。

イタリー軍も消耗していたが5月第10次イソンゾ戦にでる。しかし失敗、6月再度第11次イソンゾ戦にでる。今回は北部で第2軍(カッペロ)がある程度の前進に成功した。これがイソンゾ戦中唯一のイタリーの前進だった。

オーストリア軍はここで崩壊寸前の状況となった。ルーデンドルフは支援の必要を感じ、ベロウをイソンゾ戦線全軍の司令官兼第14軍司令官として派遣さらに、山岳戦のエキスパートでアルパイン猟兵を率いたデルメンジンゲンをも派遣した。ドイツの支援は12個師団程度で多いとはいえないが、デルメンジンゲンのアルパイン猟兵を中央に位置させ両翼をオーストリア軍(第5軍と第10軍)が守り、10月カポレットで突破作戦に出た。

カポレットー突破戦

この戦いはドイツ側もおそらく予想できなかった大成功を収めた。成功の主因はフーチェル戦術といわれる浸透作戦で、ブルシロフの方法を一部取り入れたものだった。アルパイン猟兵はこの方法に最も習熟していた。

1週間で全軍はピアブ川の線まで前進し、ベニスを覗う形勢となった。イタリー軍の損失は60万人に達し約半分の装備と人員が失われた。カドルナは前線を整理しながら、ピアブ川に敗残の兵を収容することはできた。しかし最早英仏の支援がなくては前線の維持は不可能だった。

カポレットの戦いは第1次大戦でも屈指の一方的な勝利だった。だがこの方法では、砲兵の行軍スピードより早く前進することはできず、ナポレオン時代の騎兵や第2次大戦の戦車による突破=戦果拡大はこの時代では不可能だった。ピアブ川で前進が止まったことを非難するむきが特に戦後、将軍たちの間であるが、それは昔への郷愁だけだろう。

カドルナは分離和平と後方への撤退を主張したが、11月免職され、ディアツに代わられた。英仏は11個師団(プルーマー)を応援におくり戦線を安定させることに成功する。

    1918年               

オーストリアはロシアに勝利した形となったが、前途は明るくなかった。ロシアからの帰還兵はしばしば反乱を起こしたし、そうでなければ強盗団となった。食料暴動が発生し政府はウクライナでの調達に追われた。アドリア海で水兵がすぐ鎮圧されたものの反乱を起こした。ドイツ兵とハンガリー兵、またイタリー戦線のクロアチア兵以外は出身地から出ようともしなかった。

しかしコンラートは南チロル軍司令官だったがまた攻勢を主張し、6月ピアブと南チロル両面で攻勢に出た。イタリー軍は今回はもうあとがなく粘り強く戦った。英仏軍の支援も有効だった。ピアブでは前進に成功したが、コンラートは新戦術を学ぼうとせず、両面攻勢は片翼前進となって失敗した。これでもディアツは攻勢に自信がなく、西部戦線で休戦交渉が終了しようと言うとき、ピアブ川渡河を開始した。しかし始めは全く成功せず、11月4日休戦が発効したあと攻撃にでてオーストリア軍30万人を捕虜にした。

ただ捕虜の収容経費のみ負担したようなものだが、イタリー人は何か勝利が欲しかったのだろう。



Anon. The War in Italy, Milan, 1916
Allen,W. and Hardie, M., Our Italian Front, London,1920
Davanzati, R.F., The War of Italy, Varese,1918
Villari,L., The War on the Italian Front, London,1932