三元主義


オーストリア=ハンガリー二重帝国の大きな特徴は、その二元主義にある。すなわち国土をハンガリー王国と残りの部分に分けていたことである。

三元主義(Trialism)とは二元主義(Dualism)に対置される言葉である。

となると、ドイツ人(約1千万人)とハンガリー人(約1千万人)にたいする別の極を発見せねばならない。ところが12の民族で構成される二重帝国に、残り単独で700万人を越える民族はいない。チェコ人とポーランド人がそれぞれ640万人、490万人だ。クロアチア人、セルビア人、スロベニア人は合計して350万人に過ぎない。

すると現実的なものはチェコ人をハンガリー人の地位に引き上げる方策がある。ところが話を複雑にするのは、チェコは元来ハンガリー王国の一部であった経緯がある。これは15世紀の古い話に違いない。だが、歴史以外に二重帝国のよって立つところはない。また行政区画としてチェコ人が主導するのは、ボヘミアとモラビアまたハンガリーの一部だが、ここではズデーテン・ドイツ人とスロバキア人が頑強にチェコ人主導に反対していた。すなわち、チェコの引き上げによる三元主義の実施は、現状よりも混乱を増す結果となる。

この案を消すと次に浮上するのは南スラブ案である。つまりセルビア人、クロアチア人、スロベニア人をまとめてしまうやり方だ。これがボスニア危機の際、エーレンタールが何事か考えた内容である。

ところが、これは少壮役人などが案出する中小企業組合案のようなもので、本来この三つはまるで別物と考えたほうが良い。それをまとめて政治実態にしようと言うのだから無理がある。

この案は実際にユーゴスラビアとして実現したから、根拠があるように見えるが始めからセルビア国家主義またはその軍事力によって全てを決めるべきだと言う思想以外は何もない。共産主義がそれらの国をつなげ、1992年崩壊したから分解したと言うのは俗説で、第1次大戦後からユーゴスラビアは存在しナチス・ドイツによって中断されるまで続いたのだ。つまり始めから大セルビア主義の産物である。

現在でもアセアン諸国などとまとめてしまう傾向があるが、それに基づいた案など一顧だに値しない。

この案を言い出したのは、暗殺されたフェルディナンド大公である。大公は皇位を引き継いだらばハンガリー王位は受けないと周囲に宣言していたと言う。実際できたかは疑問だが、やれば二重帝国は第1次大戦より小規模な戦争を以って分解に瀕しただろう。

左フェルディナンド大公、右ウィルヘルム二世

武力によってのみ屈服する反対勢力があることは確実である。

だがこれは内政にすぎない。ところが二重帝国はこのような重大な内政の変更は実は他国の了解が得られなければできない状態にあった。フェルディナンド大公、エーレンタール、ベルヒトルトの単純な失敗の原因は、それを認めたくなかったことである。

それではなぜ、二重帝国は各民族の国家主義を克服できなかったのだろうか?それは逆説めくが啓蒙主義の普及のためである。一旦教育を受け民主主義の理解を深めると、国家の運営についても人々は興味をもつ。フランツ・ヨゼフ帝も議会主義などに理解があった。当然立憲君主制度の方が、王朝の存続に有利だとわかっていた。わからなかったのはむしろ甥のフェルディナンド大公の方である。

ところが、帝国で各民族がローカル政党を作ると議会主義が成り立たない。帝国議会(ハンガリーを除く地域、普通選挙が既に実施されていたが権能は限られた。)はいつも、インク壷の投げあいと評された。つまり同じ土俵に立ち国家レベルの話し合いが出来ねば議会であっても国会ではない。

フェルディナンドは三元主義の困難を諭されると、今度は連邦制を主張した。この連邦制は、現在でも夢想する人が絶えない。しかし、これも本質的には三元主義と異なる所がない。根本はハプスブルグ国民が存在しないことである。ドイツ系ウィーン市民のルェーガーは、帝国を東西に分離、東地区をドイツ帝国と統合させハプスブルグ家は東へ移ってもらうと言う極端な主張を行い一定の支持を得た。二重帝国のドイツ民族出身のドイツ人は租税負担などむしろ不利な面を負っていた。有利なのは役人として就職する際だけだった。結局帝国は高級官僚・軍官僚を利するだけで、普通の人間はむしろ負担を負うだけだ。


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