東條英機は陸大卒業後の恩典であるドイツ留学ののち、帰国すると陸大教官となった。このとき陸軍省軍務課長のとき、政府委員でありながら議会で議員に「黙れ」という暴言を吐いた佐藤賢了が東條教官のマルヌ戦についての講義を受講し、論争が起きた(佐藤賢了『東條英機と太平洋戦争』文藝春秋新社 1960)。
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私はふとしたことから、東条教官と気まづくなってしまった。追撃退却の要諦の中で、第一次大戦のマルヌ川の線に退却する仏軍に対して、「ドイツ最高統帥部はいかに追撃を指導すべきであったか」という即席問題が課せられたときからである。第一次大戦がおわってすでに五年、この問題については、兵学界にだいたい定論があった。
それは、フランス軍がごうごうたる世論にまどわず、マルヌ川の線に総退却した果敢な決意をたたえ、反対にドイツ軍の無謀な追撃を非難したものである。エーヌ川の線で一旦停止し、態勢をととのえてから、マルヌ川の線に追撃すべきであるというのであつた。学生の大部分の答えもこの定論の線であり、東条教官もその意見だった。
そこで、この討論はあつさり片づけて講義をすすめようとした。私は意見を異にして、べつの解釈をくだしたが、教官はそれをかえりみもしなかつたので、憤然としてくってかかった。そしてとうとうと所論をのべた結果、「エーヌ川の線で一時停止するのが良策なりと、断ずるのは軽率な愚論ではないか」
真向から、そうキメつけた。教官の原案がしめされない前ならともかく、そのあとで、”軽率なる愚論”と非難したのだから、教官は面白くなかったにちがいない。しかもそのとき校長和田亀二中将が臨席していた。
「国家の安危に関するかかる大問題をかるがるに論評しさることは適当でない。諸官はよろしく身を最高統帥の位置におき、慎重なる研究をなすべきである」
校長はさいごに、この重大問題を五分間の即席問題にした教官に注意をあたえるような口調でしめくくった。東条教官の顔に、サッとかげのさしたのを私は見のがさなかった。東条教官は、講堂におけることを根にもつような人柄ではなかったが、しかし直情径行で寛仁大度を装う人ではなかった。
このこと以来、東条教官と私とは、とかく議論に角がたった。
こんなことをいうのは、後、太平洋戦争の末期、マーシャル群島を失陥したとき、右に述べた戦史で、ジョフル将軍が思い切った退却をして、体勢を立てなおし、反撃に成功した教訓にならい、絶対国防圏と定めたマリアナ、カロリンを放棄して、一挙に比島に退がり、一大決戦を企て、敵の上陸をたたきおとしたら、直ちに和平攻勢をとり、戦争の終結をはかろうと、私は東条首相に進言したことがあった。
教官と学生とでたたかわした戦史の論争を、国家の安危に臨み、首相と軍務局長とで、いかに適用するかの大問題に直面した、くしき因縁があったからである。
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東條英機の「ドイツ軍右翼はエーヌ川でいったん停止し、態勢を整えてから進撃すべし」は当時のヨーロッパにおいて定説とは思えぬが、あまりにも単純といわざるを得ない。ガリシアでオーストリアが敗勢であったから、東部戦線が長期間持久できたように思われない。シュリーフェンプランとは「速度」がもっとも重要なのである。
佐藤賢了はこの男らしく、自分の説について述べていないが、それほどの反論であったか、という疑問が残る。というのは第二次大戦中の比島決戦を例示しているが、このときの両人には他の戦線(例えば独ソ戦における東部戦線)を考慮しうえで戦略をたてるいった視野がなく、またあったとしても遅すぎたことである。つまり両人とも追撃・退却戦程度の戦術に止まり、両面作戦を考えるほどの戦略はまったく脳の片隅にもないのである。第一次大戦後の昭和陸軍は出だしからレベルが低かった。
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