ティラー戦争は1897年に現在のアフガニスタン・パキスタン国境にあたるカイバル峠南部(ティラー地方と呼ばれた)で英印軍とパシュトゥーン部族で戦われた。時期はマラカンド戦争とほぼ重なる。この時蜂起した部族はアフリディとオラクザイの二つでイスラム神学者の呼びかけに応じたとされる。

ただイスラム神学者はイギリス人やインド人など異教徒にたいしていつも蜂起を呼びかけていた。マラカンド戦争はカイバル峠北部で起き、一方この戦争は南部と場所も隣接しており、インド総督府は両者の関係を疑いまたアフガニスタンが背後にあるのではないかとも考えたようだが、現在までその三つをつなげるものは何もない。

アフリディ族

カイバル峠を挟み、南がアフリディ北がモーマンドと呼ばれる部族が居住していたが両者は同時にパシュトゥーン部族の中でワジリスと並び最大・最強とされていた。アフリディは更に8つの部族に分かれる。ズキケール(ZukiKhel)・マリクディンケール(MalikdinKhel)・カンバルケール(KambarKhel)・カムルケール(KamrKhel)・ザッカケール(ZakkaKhel)・シパー(Sipah)・アカケール(AkaKhel)・アダムケール(AdamKhel)である。アフリディはそれより以前に全部または一部の部族が間歇的に蜂起していた。

  • 1850;イギリスがペシャワールとコハト峠の統治を開始し、道路建設を開始したがそれにアダムケールが反発し、12人以上の建設労働者を殺害した。それより以前イギリスはアダムケールになんらかの補助金を支払っていたが、その打ち切りを心配したという。英印軍3200人が鎮圧のため派遣された。
  • 1853;アダムケールの分家ジョワキ派が、コハト峠手前のボリに要塞を構築した事件。ジョワキ派は道路を誘引したかったといわれる。1700人の英印軍が派遣された。
  • 1854;アカケールがコハト峠道の警備料の分け前がないことを怒り蜂起、ペシャワール近郊の政府施設を破壊し、英印軍駐屯地を襲撃した。翌年英印軍1500人が派遣されアカケールの村落を破壊した。
  • 1877;ジョワキ派が警備料の減額を怒り、道路上の電線を切断し、武装集団を居住区以外に進出させた。英印軍1500人が派遣され村落を破壊。
  • 1878;ジョワキ派のコハト峠道の占拠はやまず、英印軍7400人の大軍を送った。
  • 1878;ザッカケールが第二次アフガン戦争に呼応して蜂起
  • 1879;ザッカケール討伐のため英印軍3750人派遣。村落焼き討ち。

ティラー地方(サフェドホー山脈からカンキ渓谷の間)

アフリディは1878年以降英印軍が出動する騒ぎはひき起こしていないが、警察が関係した暴力事件は絶えることはなかった。アフリディは半農・半遊牧の生活で夏期は山間部放牧を行い、冬季は谷間に帰った。宗教はイスラムだが原理主義的な神学者に影響されていることは、イギリス統治以前もその撤退以降もしばしば紛争の解決を暴力に訴えていることから、容易に想像できる。

そしてイギリスはアフリディ懐柔のためカイバル峠とカラム渓谷の国境警備隊としてアフリディ族から男子を選抜して雇用していた。戦いは1897年8月アフリディ部族兵がその国境警備隊を襲撃することから始まった。この襲撃自体はマラカンド戦争の立役者、ナジムディンの呼びかけに呼応したものだと考えられる。ただ、アフリディの方がより計画的であり、そしてイギリスにとりカイバル峠という重要拠点の制圧がかかっているだけにより重大だとも言えた。しかしインド総督府は、反乱を扇動しているナジムディン(ハッダの神学者)を捕えることが先決だとし暫くはカイバル峠の占拠を放置するしかなかった。

この間、オラクザイは英印軍が砦を築いていたサマナ高地に向かった。この攻撃により砦の一部は壊滅的な打撃を受けた。

サマナ山地攻防戦

ダルガイの戦い

1897年10月総督府はロックハートを指揮官とするパンジャブ軍を編成した。パンジャブ軍は単一の軍としては、非常に大規模で兵員だけで3万5000人、他に軍属2万人を数えた。10月18日作戦は開始されダルガイ高地をめぐり一進一退の攻防となった。アフリディは山間部の地形を知悉しており、大軍となれば引き小勢とみれば攻撃するというゲリラ戦法を用いた。

この時代の英印軍は往年のものとは異なる。既にイギリスはハーグ条約の署名国となっており、住民を無差別に殺戮することはできなかった。ゲリラ戦法を定義することは難しいが広範囲な面で浸透しながら後方へ回り込む戦法とすれば条約締結国を相手にすれば効果は非常にあがる。ゲリラは通常制服を着用しないから浸透が容易となる。もちろん住民を遭遇次第殺戮した第一次アフガン戦争のように振舞えば、このゲリラ戦法はあまり有効ではない。10月20日はダルガイ高地のアフリディの築いた砦の攻防となりこの作戦期間中最大の被害199人の戦死者を出した。

10月31日ダルガイ山地を占領の後、ティラー地方のアフリディの住む各盆地への攻撃に移った。この攻撃は2個師団2万人で実施された。サフェドホー山脈から南へ、マイデン・ラジガル・ワレン・カンキ・ミランザイと盆地はつながっていた。これら盆地は高地にあったが当時では最も農業に適した場所だった。低地は夏期、炎暑のうえマラリアを媒介する蚊などの害のため居住に適さなかったためである。平地は隅々まで小麦畑または果樹園と農地化されており、松などの大木の下に二階家が散在していた。

旅団単位で4個旅団がカラム渓谷、ミランザイ・カンキ・ラジガルに派遣され各村落を攻撃した。抵抗は激しかったが、オラクザイとチャムカニス分派を除いて降伏した。ロックハートは12月10日までにバラで各旅団の集合を命じ、ペシャワールへの帰還を命令した。

バラからペシャワールまでは40マイルの道のりで厳しい寒さが待ち受けていた。そして後衛部隊は絶え間なく狙撃を浴びたが、途中1個旅団をカイバル峠に向かわせ峠の砦を占領させた。帰途においても60名近い戦死者を出した。ロックハートはペシャワールに12月20日に着くと直ちにアフリディと交渉を開始し、罰金の支払いとライフルの取り締まりを条件に旧状に復帰することになった。パンジャブ軍は1898年4月編成を解いた。

この戦争で英印軍は1100人の戦死者を出した。実質2ヶ月の作戦期間だから軽い損害とは言えない。アフリディとオラクザイはこの時ピークで4万人を動員したと言われる。合計人口は21万人程度とされるから、やや誇張されているのかもしれない。アフリディの指導者はアカケールの神学者、サヤド・アクバルとも言われるが確証はない。

イギリス本国軍

1890年代、イギリス陸軍(本国)の常備軍は142個大隊22万人しかいなかった。これで地上の6分の1の面積と3億8000万人の人口を支配していた。もちろんインドを始め植民地で徴募した傭兵はいた。しかし本国軍の55%が海外に駐留していたのも事実だ。

ダルガイの戦いにはスコットランド高地人の部隊が参加した。マルティニ・ヘンリー銃とバグパイプを持ちよく戦った。しかし、この戦いの戦死者500人は本国の部隊からでた。

この時代他国に目を転じれば、スペインは常備軍40万人をもち、そのうち20万人をキューバに派遣、5000人以上の戦死者を出し独立主義者や介入に出たアメリカに敗退1900年までには撤退を余儀なくされた。イギリスはスペインと比べれば、少ない陸軍でより大きな面積と人口を支配し上手にやっていたのかもしれない。しかしイギリスが征服する意図をもって戦争を開始した時代は終了したことも忘れてはならない。つまり第一次アフガン戦争や第二次アフガン戦争はイギリスから戦争を仕掛けた。

しかしマラカンド戦争とティラー戦争は英印軍駐屯地が一方的に攻撃を受け開始された。つまり受身の戦争だった。そして第三次アフガン戦争はアフガニスタンからイギリスは宣戦を布告された。もちろんアフガニスタン軍がロンドンはおろかデリーを占領することも可能とは思われない。ただ誰もがイギリスは挑戦する立場ではもうなくなったと認識した。もちろんイギリス人が全インドから撤退するのは、それから25年後であるが…。



McNeil, Rod, Soldiers of the Queen, London, 1988

第三次アフガン戦争