1915年5月、ゴルリッツ=タルノウで大敗すると、ロシア軍はサン河を渡り東を指して退却した。レンベルグをめぐって侵攻してくる独墺軍と一戦を交え、さらにセレト河附近まで退却を余儀なくされた。7月に入ると、独軍はマッケンゼン指揮の下、北方、ブレストリウスクに向い、また東プロイセンからはヒンデンブルグ指揮の東部軍が南に向かいポーランドにいるロシア軍を挟撃した。
そこでも、ロシア軍は一たまりもなく敗退し、露領ポーランドはドイツの手に落ちた。しかしながらロシア軍は鉄道を利用して退却したので、人員については大きな被害を受けず、野砲も後方に引き上げることができた。帝政ロシア軍では、大量の捕虜を出すことより、大砲を遺棄することが、より重大な失敗とみなされていた。
だが、ワルシャワでウィルヘルム二世、ファルケンハイン参謀長、ヒンデンブルグ東部軍司令官が落ち合い祝勝した9月、ドイツを取り巻く環境は必ずしも良好でかった。ファルケンハインは8月から一部部隊をセルビア攻略のため、ドナウ河・ベオグラード正面に振り向けていた。西部戦線ではイギリスがラバッセーとアラスで攻勢に出ていた。さらにルーマニアの向背が定まらず、イタリアもイソンゾ戦線で反撃に出た。好調なのはガリポリでイギリス軍を海浜に押し込めていたトルコ軍だけであった。
8月、東部戦線における攻勢はロシアのポーランド突起部を解消したところで、中止することが決められた。それ以降、ルーデンドルフは、ヒンデンブルグの許可を得たものの、独断専行により北部で攻勢に出た。だが、驚くべきことに、陣地を構えたロシア軍はそこで徹底抗戦に出た。ルーデンドルフはたまらず、ファルケンハインに援兵を乞う羽目に陥ったが、逆に引き抜かれ、ルーデンドルの攻勢は失敗に終わった。
ロシア軍は確かに撤退したが、ポーランド突起部を失うことにより、戦線は整理された。さらに、軍需工場に近づくことにより、補給は容易になった。ロシア軍はむしろ強化されていたのである。
そして東部戦線南部に目を転じると、オーストリア軍は目一杯侵攻したことにより、戦線は拡大し、兵站線は伸びきっていた。そして9月6日、ロシア軍はトレムボウリャ(オーストリア=ハンガリー領)西方で小規模な反攻戦を起した。
偵察活動
第9軍(レチツキー)はロシア軍のもっとも南部を占めた。すなわち、ブコビナ(現西ウクライナ)からルーマニア国境までの戦線である。ここまで到達するのに、130キロの後退を強いられていた。9月2日にもストリパ河から20キロ撤退し、セレト河を渡り、その東岸にようやく布陣した。
このうち第11軍団(サハロフ)は、ストルーソフからブーザノフの間、28キロを領した。その間で最大の町がポーランド語:トレムボウリャ(ルテニア語:Terebovlya)で人口8千人ほどであった。軍団の右翼には第11師団(バチンスキー)、左翼には第32師団がいて、北側は第11軍に属する第22軍団のフィンランド第1師団と連繋していた。
第11師団は、他のロシア軍各師団と同じく、将兵は定員にたいし25%欠けていた。だが、ストリパ河でようやく配属された補充1個大隊は小銃をまったくもっていなかった。そして砲弾および小銃弾も不足していた。そのうえ砲弾は全て榴散弾であり、ガス弾についてロシア軍は未だ開発できていなかった。
帝政ロシア軍の策源地の一つ、キエフからの距離は遠く、弾薬補充は優先度から絶望であった。しかしながら、食糧は届き、給養状態は良好であったが、兵士の士気は地に落ちていた。
第11師団は4個連隊からなっていた。前面には44連隊と41連隊が配置され、その6キロ後方に43連隊、さらに後方6キロの42連隊が控えていた。他に砲兵は41門の砲をもち、2つの砲兵群に分割された。補給線はクロビンカを経由してマルトンコフツェに至る街道で、それに沿ってこれら連隊が配置されていた。
そして騎兵隊として、ストリパ河から撤退のさい残置されたエカテリノダルスキーコサック(ドンコサックの一部)2個中隊があったが、9月1日来オーストリア騎兵が出没したため、トレムボウリャに引き返してきた。このため、第11師団の前面の情況はまったく不明となった。9月4日、41連隊の1個中隊はセレト河を渡河し強行偵察を試みた。ズミユフカ農場に到着すると、そこの農夫から「強大なオーストリア軍がグラフーブ村とチュトフ村に宿営す」という情報を知らされた。このあたりの農民はルテニア人とポーランド人であるが、ルテニア語はロシア語と意思疎通が不可能ではない。
種々の情報を総合すると、第11師団の前面には劣勢なオーストリア軍が展開するものと推測された。9月5日、バチンスキーは騎兵隊をもって捜索することを決心し、ヤゴドキンの指揮するコサック2個中隊と師団付き騎兵を随伴させた捜索騎兵隊をオストロフチク村から進発させた。任務はフメリュフカ方面に前進し、師団正面の敵兵力配置を確かめることであった。さらに、師団司令部と砲兵隊もオストロフチク村に前進した。そこはやや高地であり、西方を瞰制できた。

現在のオストロフチク村
セレト河は騎兵の渡渉が可能であるが、両側が切り立った箇所が多く、道路以外では河面に到達できない。ヤゴドキン騎兵支隊が派遣された方面は、ウクライナ平原の一部であるが、地形はやや波状をなし、幾多の地隙があった。とりわけオストロフチクから西に向った幅広い地隙があり、両側は峻険であり、かつ小川が流れ両側には一列の村落があった。ヤゴドキンは地隙に入るや、下馬して馬力を保有することにつとめた。そして、地隙が終了したところで乗馬、南下してオーストリア軍警戒部隊を発見し、急襲した。
数秒のうち一部は後方に遁走し、残余は投降した。警戒部隊は墺後備19連隊であり、将校4人を含む184人を捕虜とした。うち数人は刀創を負っていたという。次にグラフーブとビブラヌーフカに接近すると敵から組織的射撃を浴び、戦死者2人を出した。夕刻に入り、駆足で帰着した。
捕虜の尋問により、第11師団正面の敵は墺ホフマン軍団の第55師団と判明した。師団主力はグラフーブとロマヌーフカ周辺にあり、塹壕は構築しつつあるも、攻撃陣形を保っていると推定された。
攻勢の決心
5日夕刻、レチツキーはヤドゴキンの偵察結果をきき喜んだ。オーストリア軍は第9軍南部に重圧をかけつつあると感知していたので、直ちに北部で攻勢に出、それによって軽減することを決心した。サハロフ第11軍団長に「敵を抑留し、もしくは減耗させる目的をもって、狙撃第32師団と狙撃第2師団の正面の敵部隊を撃滅せよ」と命令した。
サハロフはその夜、狙撃第32師団の守備範囲を北方に4キロ延引することをまず命じた。次に第11師団43連隊と軽砲2個中隊を除く第11師団の砲兵隊全部をセレト河東岸の守備につけた。そして、第32師団127連隊(プチブリスキー)を抽出し、第11師団の残りの3個連隊とコサックを基幹とする臨時テレスカヤ騎兵隊とで、約1個師団に達するバチンスキー支隊を編成した。
作戦計画は、まずロマヌースカとスロボドカ・ヤノフスカを結んだ線まで攻撃前進し、その後、後方援護部隊として1個連隊をあてつつ、南東に転じ、セレト河と並行して進みながら、墺第55師団の大部を包囲殲滅するというものだった。テレスカヤ騎兵隊は敵の翼側および後方を深く包囲し、歩兵の攻撃成果を拡大するものとされた。
諸部隊の配備変更は5日夜実施された。バチンスキー支隊の兵士には携行食糧のほか、僅かな小銃実包が追加支給された。
バチンスキー支隊の全歩兵は、9月6日朝、トレムポブリャ西方森林に集合し、隠蔽して攻撃前進に向った。攻撃の主力は44連隊と41連隊で、将官マエフスキーが指揮をとることになった。44連隊(カムチャツキー)は左翼でロマヌースカを目指し、41連隊(セレンギンスキー)は右翼でモゲリニツァを目指した。42連隊(ヤクツキー)は、右翼後方についてグラフーブを占領しながら側面援護、そして127連隊は師団予備とされた。
諸隊はオストロフチクの橋梁からセレト河を渡河した。この橋梁も前日夜、工兵が架設したもので長さ24メートルで重砲通過に耐えられるものだった。ただし41連隊だけはセメヌーフ附近の修復された橋梁を通過した。
ただ作戦計画上、グラフーブ北方には約7キロの正面には、ロシア軍部隊をまったく欠いていた。
バチンスキーとマエスキーも司令部をストロフスカ附近の341高地まで前進させた。
午前中、警戒部隊を圧迫し60人の捕虜を得、好調に前進した。だが、セレト河から6キロ前進したころ、敵の砲火が猛烈となり停止を余儀なくされた。敵の正面陣地には予想に反して、鉄条網があった。友軍砲火は微弱であり夕刻まで身動きができなくなった。
テルスカヤ騎兵隊は午後1時フームニスカに到着し、迂回して44連隊と42連隊の中間を抜け、オーストリア軍の背後に回りこもうとした。だがフメリュフカ村にいく途中、猛烈な銃火を浴び、阻止された。このためグラフーブ東南で停止し、徒歩戦を挑んだが、随伴した騎砲1個中隊は1門あたり106発を携行しているにすぎず、攻撃は進捗しなかった。
そして、テルスカヤ騎兵隊の右翼も危険となってきた。オーストリア軍2〜3個大隊がアルベルト・フカより攻撃前進し、第11師団とフィンランド第1師団の中間に向かってきた。フィンランド第1師団は直ちにナスタスフとザズドロシッチー正面に攻撃前進し激戦となった。そして、両拠点を占領すると警戒部隊を置き、セレト東岸に撤退した。
バチンスキーの手許にはなお4個大隊半の予備兵力があったが、44連隊と41連隊の正面は固く、投入場所・タイミングを得ることができなかった。夜襲をも計画したが、オーストリア軍は夜を徹して照明弾を打ち続け、機会を見つけ出すことができなかった。
夕刻、バチンスキーは、レチツキー軍司令官とサハロフ軍団長に、最早継戦が困難になったことを伝えた。だが、レチツキーはこの攻勢が第11軍南部の苦境を救う唯一の手段であり、「敵強力ならばなし得る限り永久にこれを牽制し、もし劣勢ならば撃破せよ」と命令した。
これをうけて、バチンスキーは、44連隊と41連隊の正面攻撃は最早不可能であり、グラフーブ方向に奇襲攻撃を実施するしかないと決心した。これがため、41連隊と42連隊から3個大隊、127連隊から2個大隊を抽出し、さらに軽砲12門と軽榴弾砲2門を随伴させ、マエフスキー支隊を編成し、さらにテルスカヤ支隊の半分を北方からこれに協力させることにした。そして陽動として127連隊残部と44連隊はロマヌーフカ攻撃を命ぜられた。
だが9月7日、オーストリア軍も部分的反撃に出た。すなわち墺第5師団本営の予備である13連隊がモゲリニツァ及び東方森林に出現、41連隊に攻撃を加え、44連隊の左翼を包囲する形勢を示した。バチンスキーは第32師団(ヤブロンキン)に救援を求めたが、砲兵陣地の位置が遠く、射撃は困難であった。
正午になってバチンスキーはオーストリア軍の前進が緩慢であることを察知した。師団司令部付となっていたエカテリノダルスキーコサック2個中隊とテルノスカヤ支隊残部2個中隊をダビドフ支隊として編成しビブラヌフスカに急派した。
予想したようにオーストリア軍は、44連隊を深く包囲するよにうにモギラよりコルチマに邁進した。だが、墺13連隊は包囲を急ぐあまり、ダビドフ支隊の接近に気づかなかった。44連隊と41連隊を繋ぐ目的をもった127連隊残部は後退を余儀なくされた。午後1時、墺第3連隊は44連隊の側面射撃を開始した。
コザック突撃
この戦況をみてビブラヌフスカに到着したダビドフは最後の命令を下し、騎兵全員の乗馬を命令した。横列をつくり疎開隊形をもって。500メートル先のオーストリア軍歩兵の右翼および後方から襲撃を敢行した。
オーストリア軍は不意の騎兵集団出現に周章狼狽し、乱射を開始した。しかしコザック騎兵は意に介さず、そのままオーストリア軍を蹂躙した。そして、墺軍砲兵隊が応射すると、600人の捕虜を得たまま、出発地に引き返した。そして、この騎兵の突撃の成功をみた44連隊の士気は大いに上がった。
これと同時に、マエフスキー支隊は攻撃姿勢を整え、午後3時、少数の砲兵の1時間にわたる準備射撃ののち攻撃前進に移った。疲労したオーストリア軍はこの攻撃を支えきらず、一部は投降し、残部はグラフーブおよびテュトクーフから西方に敗走した。ここで、ロシア軍歩兵は「コサック」「コサック」と絶叫したという。
テルスカヤ騎兵隊の半部も前進をおこし、テュトクーフ北方からブールカヌフに向った。残りの半部もこれをみて、騎乗してフメリュッカに向った。そこにいたオーストリア騎兵部隊は駈足をもって退却した。だが両騎兵隊ともストリパ河に接近すると、敵小部隊の射撃をうけ、日没とともに停止した。
一方、44連隊もマエフスキー支隊の攻撃開始と同時に、短期間の準備射撃ののち、総攻撃に移り、敵陣地を奪取、捕虜1千5百人を得た。44連隊と127連隊の前進部隊はロマヌーフカ村とモゲリニツァ村を占領したが、オーストリア軍は南方に転じ、高地を占領したため、それ以上の追及は断念した。
9月7日夜に入ると、オーストリア軍はストリパ河方面に撤退を開始した。それ以降、バチンスキー支隊が確保した地域は第32師団が区処することになり、第11師団は北方への転進を命じられた。
本戦闘の結果、バチンスキー支隊は将校79、兵4千以上、砲2門、機関銃21丁を鹵獲した。オーストリアのホフマンは革職され代わってべール・エルモリ軍がストリパ河の守備についた。バチンスキー支隊の損害は軽微で、9月6日と7日の両日中に戦死将校1、兵92、負傷将校4、兵405を出しただけだった。
作戦評論
この戦いは、1915年の東部戦線における独墺軍総攻撃の攻勢限界点を示した。この戦いはすぐさまレチツキーの第9軍の北にあったブルシロフの第8軍に波及し、ロシア軍は反転攻勢により、第9軍よりさらに広大な地域を奪い返した、さらにその北方ではルーデンドルの攻勢をも跳ね返すことになった。
戦いに敗れ撤退していくロシア軍の反撃の底力は、ナポレオン戦争でもみせたところであり、また第二次大戦ではスターリングラードでもう一度真価をみせつけることになる。この戦いにおけるオーストリア軍敗北の理由は兵力で劣ったことに求められよう。ヨーロッパ・ロシアは地形的に末広がりであり、深く進攻すれば、どうしても新編部隊を投入する必要がある。ところが、このとき独墺軍はセルビアにたいする攻勢を準備しており、兵力が枯渇していたのである。
また攻勢終末に発生する戦いでは、両方とも機動戦にかけるしかない。こういった場合、騎兵は有効である。ただし、この戦いにおける騎兵の馬体突撃=ショック戦術の成功は、第一次大戦においては著しい例外をなす。国家間の戦争ではおそらく史上最後のものかもしれない。
ロシア砲兵力は見劣りする。機動戦であったので榴散弾は有効であったが、イギリスですら野砲弾を榴弾に切り替えていた(仏独墺は済)にも係らず、ロシア軍はまだ榴散弾を愛用していたのである。また、この戦いにおけるロシア軍の砲弾費消は約3千であって、駐退機実用化前の戦争、日露戦争程度のレベルである。ロシア軍の火力軽視は、この年1915年がピークであったろう。ちなみにフランス軍の野砲75は1門で1日1千を撃ったとの記録が残っている。
また、ロシア軍が臨時分遣隊を編成する場合、簡単に建制(戦闘序列にしたがった部隊編成)を崩すのに驚かれるだろう。こういったことは日、英、独ではほとんどみられず、露、仏、米は多用する、理由は不明である。郷土連隊主義と関係があるのかもしれない。
なお1943年4月7日、ナチスのゲシュタポと思われる1団がトレムボウリャのユダヤ人約1千人を拉致し、近郊のベルナドフカで虐殺した事件が発生している。
(本文地名はポーランド語表記であって、現在のルテニア語=ウクライナ語とかなり異なる)
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