南チロル攻勢


1915年5月、イタリアがオーストリアに宣戦して以来、伊墺間の戦場はイソンゾ川沿いに限定された。伊墺国境は南チロル(トレンチーノ)山岳とイソンゾ川と二つある。オーストリアはイタリアの他にロシアとセルビアを敵としており、積極的姿勢をとれなかった。一方、伊軍参謀総長カドルナは、攻勢に出るさい、南チロル側はアルプスの前衛の山がそびえ、かつ伊軍は地勢上登らねばならず不利であり、戦場としてイソンゾ河を選んだ。

墺軍は1915年末をもってバルカン戦線にほぼ終止符をうった。すなわち、セルビアとモンテネグロの全土を占領し、事実上滅亡させた。独軍は、1916年2月下旬、ベルダンで一大攻勢に出た。それに伴って独軍参謀総長ファルケンハインは、オーストリアにイタリア戦線における策応攻撃を要請した。

コンラートの作戦計画

墺軍参謀総長コンラート=ヘッツェンドルフは、1900年代初頭から対イタリア予防戦争を唱えるなど反イタリア感情が強く、渡りに船であった。

コンラートは、カドルナとは逆の立場から南チロルを戦場とすることを考えた。作戦目的を、南チロルの伊軍前線を突破、ベネト=フリウリ平原に踊りこみ、イソンゾ川沿いに密集する伊軍主力を一網打尽とすることにおいた。

1916年2月上旬、イソンゾに兵力を集中するかのような陽動を行い、2月上旬、ゴリツィア橋頭堡を奇襲し、捕虜1200を得た。このようにして注意を分散させつつ、砲兵隊、火砲、弾薬を南チロルに輸送した。各軍団の砲兵を著しく増加させ、とりわけ大口径の攻城重砲を集中した(30センチ砲40門、38センチ砲4門、42センチ砲4門)。

このうち、42センチビッグバーサはドイツから借り受けたものであるが、それ以外についてドイツ軍は好意を示すことがなかった。コンラートは初め25個師団を集中する予定であり、うち8個師団についてドイツ最精鋭師団を充当すべく、ドイツ側と交渉したが、ベルダン戦を理由として拒絶された。

コンラートはやむなく13個師団を東部戦線から移動させ、合計18個師団で攻勢に出ることを決心した。名目的な司令官としてオイゲン大公を任命、攻勢部隊についてはケーベスダンクルが司令官になった。

作戦軸は3線で、主軸は中央、セッテ・コムニ高原を通過してアシアゴを占領、さらに長躯、ビツェンツァをつく。この主軸の側面支援のため、左翼はスガナ渓谷をいき、バルスグナーナに向かう。右翼はアスチコ渓谷をいき、アルシエロ占領を目指す計画であった。別に陽動作戦としてアディージェ渓谷への攻勢も準備された。

伊軍の防禦

カドルナはコンラートの2月奇襲に驚くことなく、3月、第5次イソンゾ戦に出た。このとき、オーストリアが東部戦線から兵を引き抜く余裕はないと考えていた。南チロルについては、守備を担当する第1軍(ブルサティ)に防衛に徹すよう命令した。

ブルサティはこの命令に従わなかった。「攻撃は最大の防禦なり」だけを信じる男であった。予備隊も含めて最前線に配置し、陣地は縦深を配慮せず、第1線はマニュアル通り、第2、3線はそれを手抜きしたもの、第4、5線は、地図の上の色インクで引いた線だけという状態であった。ブルサティは自分の頭にある局地的攻勢を実施するための配備を防禦と思っていたのである。

伊軍も南チロルにおける墺軍の密やかな動きを察知した。カドルナは報告を受けたが、攻勢の規模については過少評価した。第5次イソンゾ戦にたいする牽制攻撃とみなした。カドルナは第1軍の陣地を巡視したが、陣地構築は不十分のうえ、砲兵陣地が前のめりであり、補給デポも全て第1線壕に集められていた。

カドルナは、4月、本営を南チロルに移し大幅な配置変更を命令した。4月終わりまでに、総予備隊中2個師団とアルプス兵1個大隊を増加し、ブレンタ=シスモン間にアルプス兵6個大隊で編成されるブレンタ支隊、シスモン支隊を設け、漸次その定員を増加させ墺軍の攻勢に備えた。

前線後方には第9師団と第10師団を第1軍の予備隊として控えさせた。ブルサティは革職され、ペコーリ・ジラルディが親補された。第1軍は補強のあと、118個大隊と予備として40個大隊、砲623門(旧式のものが多かった)の兵力となった。

墺軍軍隊区分

軍団

師団

配置
第5軍(ケーベス 第15軍団 第48師団 ガルダ湖東端よりロベレットー市南端をへてアスチコ渓谷に亘る間
国民軍1個旅団
第8軍団 第57師団
第59師団
第20軍団 第8師団
第3師団
ダンクル軍(ダンクル 第3軍団 第28師団 ケーベス軍の左翼に連なり、ボルゴ北方第90師団の右翼に接合する
第22師団
第6師団
第17軍団 第18師団
第88師団
2線級

第10師団 トレント南方
第21師団
第29師団
混成第3旅団
混成第4旅団

墺軍の攻勢

5月15日、ロベレットーからスガナ谷に配置された墺軍砲兵は一斉に射撃を開始した。その全攻撃正面に亘る砲数はじつに2000門に達した。墺軍はまた初めての試みとして飛行機による弾着観測を実施、結果は極めて良好であった。準備射撃は終日実施され、夕刻、墺軍歩兵は全正面で総攻撃を開始した。この段階の兵力比は、墺軍が4:1で上回っていた。

墺軍の準備射撃は効果的で、伊軍の後方施設まで破壊されるに至っていた。ロベレットー周辺に区処されたケーベス軍は、右翼を形成し、主力をもってアスチコ渓谷を進み、アルシエロ占領を当面の目的とした。

陽動としてアディージェ渓谷に向かった第8軍団は、アラサ谷両側のズグナトルタ高地(標高1257メートル)、コルサント高地(標高2114メートル)に向かい攻撃を開始した。第8軍団の第57師団は数梯隊となり、5回突撃を繰り返した。伊軍は頑強な抵抗を行い、しばしば重大な損害を与え撃退したが、夜間ついに占領された。

伊軍は第2線陣地のあるコニズグナ高地(標高1865メートル)に引き新たな守備線をつくった。墺第59師団はコルサント高地に向った。だが傾斜が急なうえ伊軍は猛烈に抵抗した。これがため墺軍は攻城重砲隊によって山頂に3日間の重砲射撃を浴びせた。3日後ついに占領したが、同じくパスピオ高地(標高2236メートル)に引き、そこから旧陣地を瞰制し、占領した墺軍に射撃を加えた。

墺軍の攻撃はコニズグナとパスピオを前に停滞したが、アラサ谷における攻撃は順調に進捗した。だがブオレ鞍部で伊軍の抵抗線にぶつかり、想像を超える多数の機関銃射撃、また射撃の死角に入ると、上から巨石を投じられるなどして、ついに突破に失敗した。

バスピオ山にたいする攻撃も進捗しなかった。同じく重砲による射撃を加えたが、あまりにも標高が高かった。

オーストリアの皇太子フェルディナンドの指揮する第20軍団はダンクル軍の右翼と連携し、マッギオ山からコスデアグラ山をへてアスチコ渓谷に連なる伊軍の第1線陣地は初日にして突破に成功した。それからパスピオ山、コストンデラギー山(標高1874メートル)、カンポモロン山(標高1865メートル)山麓をへてアスチコ渓谷カソットー市に連なる第2陣地に肉迫した。

第20軍団は5月中旬までに、惨憺たる白兵戦によってようやくコストンデラギー山とカンポモラン山を奪取した。そして、アスチコ渓谷に向かい、深山幽谷をさ迷い、6月1日、ついにアルシエロ市を占領した。伊軍はアスチコ向かい側にあるセンジオ山(標高1351メートル)に引き、新たな防衛線にこもった。

中央に位置するダンクル軍の第3軍団は、セッテコムニ高原に向った。カンポ山からマンデノロ山に亘る伊軍第1線陣地を奪取し、引き続きカソット市よりベレナ山、ドデシ山に連なる第2陣地を攻撃、これをも5月下旬に占領した。そして退却する伊軍を急追し、6月1日、アシアゴ市を占領した。

右翼に位置する第17軍団はアルメンテ山(標高1501メートル)よりコロ山(1825メートル)に亘る線に攻撃を開始したが、ここは伊軍アルプス兵団が守備しており、攻撃は進捗しなかった。5月18日に至りようやくコロ山を占領し、翌日ボルゴ市を奪取した。それから主力をスガナ谷に集め、ドディシより北方に連なる第2陣地を攻撃した。この陣地も突破に成功したが、オスペダレットー市前面で抵抗線に遭遇し、そこで停滞した。

ここまでのケーベス軍とダンクル軍の攻撃は概ね成功で、スガナ渓谷の前進が不調で、パスピオ山とオスペダレットーを突破できなかったにしても、アシアゴとアルシエロの占領は大きく、ここからベネト=フリウリ平原への入り口は開かれたかのようにみえた。

伊軍は、墺軍の主作戦軸が墺第20軍団の進むアシアゴ方面であると見抜いた。伊軍新旧の華、イブレア(ピエモンテの古都でオリベッティ社の発祥地)旅団とパレルモ(シシリー)旅団からなる総予備をネベグノ高地に投入し、墺軍突出にたいする拠点となした。

墺第20軍団は、6月5日からこのネベグノ高地を猛攻した。戦闘は惨憺たる白兵戦となり、一時墺軍は山頂を占領するものの、そのあと奪回され、ついに攻撃は失敗した。

前に出られなくなると、墺軍の補給路はアスチコ渓谷1本という欠陥が露呈された。この攻勢の前、オーストリア軍各大隊にはツアー・ガイドが配属されていた。伊墺両国民は平時においていがみあっていたことはない。イタリア国民はトレントを奪回することを願っていたいたが、イタリア北部国民がシシリアンよりもチロリアンとより親密であったことも事実である。

ツアー・ガイドはベネト・フリウリ平原の地理に詳しいという理由で配属になったのであるが、占領後のための有名レストラン紹介、すなわちグルメ・ガイド、ワイン・ガイドでもあった。墺軍はイタリア人を簡単に征服できると思っていた。

伊軍攻勢移転

カドルナは、墺軍攻勢の5月15日からきわめて健全な判断をしていた。ベネト・フリウリ平原のきわまで墺軍が前進すれば、必ず山岳地帯通過という重大な兵站困難にぶつかる。一方、伊軍は北イタリアでもっとも稠密な鉄道を利用し、任意の地点に大兵を集中することができる。5月21日、カドルナは新軍、第5軍創設命令を発した。

第5軍は5個軍団と1個騎兵師団からなる40万人で編成された。それから5日間、待機していた全留守師団は効果的に新軍に全部で93個に及ぶ大隊を派出し続けた。3日間、イタリア国鉄は民間人の輸送を拒否し、部隊移動のみに提供された。カドルナは6月に入ると、墺軍攻勢の勢いが停止しつつあることを感じた。しかしながら一網打尽にするためには墺軍により多くの部隊を前に出させた方がよい。カドルナは、6月3日、現在地死守の命令を出した。

「この場所こそが祖国死守の地であり陸軍の名誉がかかっている地であることを知れ。最後の一兵まで戦え」

6月4日、東部戦線で帝政ロシア軍最後の大反攻、ブルシロフ攻勢が発動された。コンラートは即座に前進を躊躇し、3日後には攻勢の中止を決め、東部戦線への移送を検討せざるを得なくなった。

カドルナは、6月14日、全軍に攻勢移転を命令した。全線にわたる反撃の砲火が始まった。伊軍は前進を開始し、墺軍の急造の前進ポストは危機に陥った。6月25日、墺軍は突然、アスチコ渓谷を通過しての撤退命令を出した。伊軍は直ちに急追撃に移った。

墺軍の撤退は巧みで7月上旬、ズグナトルク山、コルサント山、セラツギオ山、セッテコムニ高原におけるロッテ市、ミーツタ山、コロンバロネ山、ドディシ山の西側をへて、スガナ谷北側、シスタ高地を連ねる線をもって戦線は安定するに至った。

カドルナは攻勢の続行がかえって自軍の兵站上の不利を招く思った。伊軍は南チロルにおける攻勢を中止、むしろ第6次イソンゾ戦に向けた準備を開始した。カドルナがヨーロッパ第1の兵站大将といわれたのは、もっともであった。

作戦評論

この戦闘は前半は墺軍勝利、後半は伊軍勝利であり、総合で伊軍は勝利した。損害は墺軍15万、伊軍14万7千といわれる。伊軍は捕虜を多く出した。

カドルナは兵站において優れていたが、部隊配置には疑問が残る。山岳戦、とりわけU字峡における戦いでは、第1線の山岳に有力な部隊を置いてはならない。敵に峡谷を進撃され奪われると、山岳への補給は不可能であり、山岳にこもった部隊は降伏するしかない。

ところが、敵の峡谷における前進を拒止できたとき、山岳を占めるときわめて有利になり、攻勢移転は簡単である。

事前の部隊配置を検討することが重要である。カドルナはこの戦訓を受け取らず、翌年カポレットーの敗北を招いた。

イタリア国民はこの戦いを勝利と受け止めず、アントニア・サランドラ内閣は倒れ、代わりにパオロ・ボセッリ挙国一致内閣が立ち上がった。カドルナは、8月、第6次イソンゾ戦を開始した。その戦いで、ついにゴリツィアを陥落させた。

オーストリア軍はこの戦いでなく、ブルシロフ攻勢によって、その骨格を失い、二度と立ち上がることが出来なくなった。ブルシロフ攻勢における敗北は、新戦術にたいして対応できなかったことが大きい。ファルケンハウゼンのベルダン・南チロル両面攻勢という戦略については、この戦いに関連しては疑問が残る。ドイツの大軍がチロルに派遣された場合、攻勢が短時日で成功した可能性がある。

ドイツはトルコを失ったとしても継戦できるが、オーストリアの退場は致命的である。南チロル攻勢は、オーストリアの退場を決定づけた戦いでもあった。ドイツはあらゆる犠牲を払って友邦を支援すべきではなかったか。


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