1830年代、フランス・ロマン派の詩人アルフォンソ・ラマルタンは、オスマン帝国放浪の旅に出た。オスマン帝国に臣従するセルビア公国を通過し、初めての帝国の町ニッシュに到着した。
そこで見たものを次のように記した。
「太陽は焼け付くように照らしていた。町から1リーグ(=3マイル)程手前で平原の中央に聳え立つ大きな塔をみつけた。それは純白でパリアン大理石のようだった。小径を通ってその塔に近づき、つかのまの休息にと塔の日陰に入ろうとした。
坐ると同時に、その壁面に目がいった。大理石か白みかげに見えた壁は実は、白骨化した人間の頭蓋骨だった。髑髏は雨、太陽にさらされて白くなったらしく周辺は石灰で固められていた。そして形は凱旋門のようで、私はその中で日陰を得ているわけだ。
多少残っている髪の毛が揺らぎ、まるでシダか地を這うコケのように風とともに吹き上げていた。山から下りてくる風が髑髏の窪みを突き刺し、まるでお悔やみか拷問にあった時のような音をたてた。」
1809年、カラジョルジェの反乱の時大きな戦いがニシュ近郊のチェガールであった。オスマン軍ははるかに優勢だったが、それまでセルビア人の頑強な抵抗に会い既に数千人の戦死者を出していた。
オスマン軍がセルビア軍の最後の防衛線に殺到すると、セルビアの司令官ステファン・シンドリッチは火薬庫をピストルで射撃した。結果は恐ろしいものだった。しかしセルビア人は戦いに敗れたにせよ、拷問やその他の方法によるより残忍な死から免れたことで、満足したのだった。そしてもちろんシンドリッチはこの最後の行動で、トルコ兵を巻き添えにすると言う目的も達成することが出来た。オスマン軍司令官のハルシド・パシャはシンドリッチのセルビア兵の頭の皮をはぎ、詰め物をしてスルタンのところへ送った。
そしてハルシドは、後世のセルビア人への見せしめとして残骸で髑髏の塔をつくることを決意した。髑髏は952個からなり、14列で4個ずつ並べられた。
いくつかの髑髏は崩れさり、また自分の縁者のものに違いないと信じる遺族に持ち去られた。
それでも53個が今日まで残り、そしてシンドリッチの頭蓋骨と信じられているものがガラスのケースに収められている。
1893年、ニシュがセルビア領に編入されると、塔に屋根がかぶせられ、近くにチャペルも建立された。1904年には、コソボの戦いのあと最初のセルビア人の解放者、と言う看板もたてられた。そこにはラマルタンの結語が引用されている。
「この記念碑は残されねばならない。これは子供達に独立の貴さと、父祖がそのためにどのような代償を払わねばならなかったかを教えるだろう。」
チトー政権下のユーゴスラビアでも学校の生徒たちが、毎年何万とつれて来られ、髑髏を眺め回した。ユーゴ内戦では、この記念碑とシンドリッチの記憶は何らかの印象をセルビア人に与えたに違いない。
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