高杉晋作の見た上海と太平天国


1862年6月2日、幕府の公式の貿易船「千歳丸」というバーク型帆船が上海に到着した。数年前から幕府は和船(といっても西洋タイプのスクーナーが多かった。)を杭州や秦皇島に派遣していて中国(清)の情報収集にあたらせていた。だが交易を表向きにも標榜し中国へ向かったのは鎖国以来始めてだった。またこの時が上海への始めての訪問だった。

千歳丸自体もイギリス船を買い上げたもので船長リチャードソン(生麦事件で殺害されたのもリチャードソンだが関係はわからない。)以下イギリス人によって運航されていた。この渡航もイギリスに歓迎され上海の英字紙に報道されている。

高杉は藩命により、幕臣犬塚栄三郎の従者の資格で派遣され、目的は西洋諸国の上海の実情把握だった。この時幕臣の他、薩摩の五代友厚、佐賀の中牟田倉之助、大村の峰源蔵などが参加していた。

幕府の外様藩をむしろ外国の実情に触れさせた方が良いという判断や、貿易・外交にも関与させるべきだとの方針は、元来この国のもつ明るい開明的性格を感じさせる。

中牟田は後の海軍中将であるが英語ができたうえ、長崎の海軍伝習所にいて操艦術にも通じていたと言う。高杉は中牟田を大いに利用した。

「ヨーロッパ諸国の商船や、軍艦のマストが港を埋め尽しているさまは森の如く、陸上には諸国の商館が壁を連ねること城郭の如くその広大なことは筆舌に尽くしがたい。」「この地はかって英夷に奪われた場所であって港が賑わっているといってもそれは外国船が多いためである。中国人の居場所を見れば、多くは貧者で不潔な環境に置かれている。わずかに富んでいるのは外国人に使役されている者だけである。」

と高杉は「遊清五録」に記す。

この時、上海に渡航した日本人はイギリス人を使役していたのだから、随分と自信はあったのだろう。高杉は2年後の1864年には本当に馬関戦争で攘夷を実行したのだがこの時はまだ英夷と古代中国張りの中華思想を振りかざしている。長州人は中国人との交際には慣れていた。また「イギリスに奪われた」は誤解である。この誤解を中国人は現在も持ち続けている。ただこの頃外国人の土地所有という観念が理解されていたか疑問である。現在でもインド以東で無制限に外国人の土地所有を認めているのは日本(戦前から)と香港(借地権)だけである。独立主義、民族主義の暗い一面だろう。

伊藤博文は1898年戊戌変法改革時の中国にわたり西太后、光緒帝に面会した。その時改革派の康有為に「貴国が変法を望むのならば自尊自大の陋習を取り除くことが先決である。この世界にあってはいかなる人種であろうとも、みな天地の間に生を受けているもので、彼を賎しみ自らを尊び、自らを中華と称し、彼を夷狄として排斥するような道理はあり得ません。」と語ったと言う。

これは康有為がこの改革による成果について「泰西の諸国は300年かかって強国となり、日本は30年かかってなった。人口、物産、国土が広い中国であれば(私の言う)変法を実行すれば3年で達成できるでしょう。」と光緒帝に意見具申したことを受けたものだという。

日本は一人当たりGNPを強国になった基準とすれば、西ヨーロッパ諸国に追いつくのに正確に言えば、明治維新をスタート地点として110年かかっている。決して30年ではない。中国は広大物博の国と自称するが、それは一人当たりGNPで有利なことなのだろうか。また伊藤の指摘は的中しているように見えるのだが。西暦2000年までに中国のGNPが日本に匹敵すると予想した学者がいたが、今はどう言っているのだろうか。

この文章をヨーロッパ帝国主義反抗の高杉の主張だと見る見解もあるが笑止だろう。船も建物もヨーロッパ人が民間の資金で保有したものだ。そこには軍事とは無縁の貿易魂があるだけだ。ヨーロッパの各国政府はやや内陸という上海の軍事的防衛の脆弱性を嫌い、上海租界に軍事的支援を与えることがあまりなかった。もしヨーロッパ人がいなければ建物も貿易船もおらず、上海はただの寒村にすぎない。

外国人の交易、直接投資=帝国主義を主張する人々に聞きたい。では貿易・工場運営をするために派遣されたり、渡航したら一体どういう生活をすればよいのか。そしてこれは今日的質問だ。

そして租界ができて繁栄し地価が上昇すれば土地を奪われたように感じる。しかし不動産というものは港、貿易事務所、ホテルが出来て価値が出るものである。上海にある租界はこの時も極めて国際的で誰の入国も拒まなかった。つまり現在の中国(共産)が実施している経済特区より開放的なのだ。中国でのビジネスを外国人がどのように行うかを外国人が決めたことを中国人は納得出来なかったのかもしれない。またフランス租界の公園にあった「犬と中国人入るべからず。」という札が、問題となったようだ。

しかし中国(本土・香港)や東南アジアのゴルフ場などのクラブハウスでは現在でも家庭内召使(domestic servants)入室禁止という札は珍しくない。やや違うところもあるが両者とも性格は同じなのではないか。

租界の存在は帝国主義というより、条約による治外法権の結果にすぎない。日本の不平等条約下の横浜や神戸の外人居留地と課税方法と自治体警察を除いて変わらない。そして治外法権が帝国主義の所産かと問われると、判断が難しい。外国に生活する者は基本的には現地の法令と習慣を遵守すべきだ。しかし19世紀の中国(清)にそれだけで外国人が駐在できたかと言うと無理だろうとしか言いようがない。反面中国には厳しすぎるかもしれないが、中国を除く東アジア全域でそれは可能だった。当時の中国は沿海部から奥に入ると、治安も居住環境も劣悪で、ヨーロッパ人の探訪記はそれを描写している。

現代中国(共産)人もこれらの外国人を、勝手に押しかけたと言うが、現在華僑が現地政権により弾圧された場合、そのような事は言わない。そして過去中国に冒険心をもって居住した西洋人を断罪することは、そのように簡単であってよいのだろうか。

また日本や朝鮮と異なり中国(清)は成人男子の識字率が低く、西洋文明の受容自体が難しかった。すなわち中国は沿海部と首都だけが文化的に突出していただけだった。

高杉が上海を訪問した時、ちょうど太平天国の乱の盛りだった。李秀成の第2次上海攻撃軍が租界ではなく県城を目指して進撃していた。もちろん狙いは租界からの上納金の獲得にあった。これは上海租界からの上納金狙いの中国人による威嚇の企ての第一号とも言えるものだったのかもしれない。高杉はイギリス人やフランス人による自衛中隊が上海の外側防衛線の守備につくのを目撃している。そして次ぎのように記した。

「5月7日払暁、小銃声が陸上に轟いた。みなこれは長毛賊(太平天国軍)と支那人とが戦っている音だろう、という。これが本当ならば実戦を見ることが出来るとひそかに悦んだ。」「5月10日夕刻オランダ人が来て長毛賊がすでに上海の外3里まで接近している、明朝は大砲の音を聞くことになろう、と告げた。幕府の人々は驚いたが、私は却って喜んだ。」

このあたりは実戦をまのあたりにする観戦武官のようだ。

そして、現代中国(共産)人の注記によれば郷紳だった顔麈が「長毛賊によって追われ昨年上海に来た。家産と書籍は全て失われた。」と語るのを聞いて、「これを聞かば、人をして潜然として落涙せしむ。」と書き残した。

現代中国(共産)の史家は見解を表明する自由がなく、太平天国の乱はブルジョワ革命の予備的な段階(?)または外国人(西洋帝国主義)に対する抵抗とみなしており、太平天国側に味方した議論しか許されていないようだ。そして郷紳(小地主)だった顔麈に同情しない。しかし高杉の外国人にたいしてもなお落涙するヒューマニズムは、この人の指揮した革命(維新)による人々の損害を余程軽くしたに違いない。

マルクスの太平天国批判

かれら(太平天国)はどのようなスローガンももっていない。旧統治者よりも人民に方がよけいにかれらを恐れている。かれらの使命は、保守的虚脱にたいして、畸形な、いとわしい形態における、なんら建設の萌芽をもたない破壊を対置することにつきるかのように見える。

太平天国軍ー明らかにそれは、中国人の空想が必ず描き出すに違いないような生きた悪魔である。だがただ中国にだけこのような種類の悪魔が可能なのである。それは化石化した社会生活の産物である。(1862年ライン新聞に寄稿)

マルクスの中国にたいする見解はヘーゲルのままに止まっている。マルクスは自分達徒党の運動と無関係な事についてドイツ国粋主義の枠のなかにある。すなわちスラブ人やアジア人に対する偏見・見下しを内包している。

これがレーニンの社会主義=進歩または社会主義=生産力発展に有利、という実際にははずれた未来予言がマルクスの人間疎外論よりアジアで流行した理由だろう。

太平天国は清打倒・人間平等と言うスローガンを持っていた。ただ大半の反乱と同じくスローガンそのものは目的と関係がなく、真の目的は動産の略奪・自分達徒党の権力奪取にあったにすぎない。結局、造反は有理でない。

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