1929年中ソ紛争

1929年中ソ紛争

1929年中ソ紛争

1919年7月、ソ連はカラハン宣言を出した。内容は「帝政ロシア時代に獲得した全ての利権を返還する」というもので中国人は大歓迎した。この狙いは白系ロシア人の治外法権を奪うことであった。これがため上海租界に住む白系ロシア人は、ささいな刑事事件で中国官憲の拷問にあい、多くが命を落とした。他方ソ連は、最大の経済利権であった東支鉄道を手放そうとしなかった。

1924年5月31日、中ソ両国は北京で国交回復のための協定に調印した。調印者はカラハンと顧維鈞で、北京協定と呼ばれる。張作霖はこれに不満で、1924年9月20日、ソ連と東三省自治政府との間で東支鉄道に関する協定を奉天で調印した。調印者はクズネツォフと鄭謙・呂栄寰・鐘世銘であり奉ソ協定と呼ばれる。

背景

北京協定は、英仏伊などのソ連承認と共通した動きであり、とくに驚くにあたらない。このとき、大総統は曹だが、北洋軍閥直隷系の人物である以外特色はない。一方、日本のソ連承認は翌年1925年であり、アメリカは1933年である。日本は英仏などの承認に刺激され追随したものだが、アメリカはボルシェビキの非人道性から躊躇したものだ。日本の「バスに乗り遅れるな」的発想は、その後も、外交上重要な失敗を招くことになる。

他方、奉ソ協定は、ソ連の東支鉄道利権を張作霖に承認させたもので、その後の紛争の直接のきっかけとなった。

当時の中国における内乱は軍閥戦争と呼ばれるが、大きな戦争(小さな戦争は勘定しきれない)は、安直戦争、二回の奉直戦争に集約できる。いずれも「直」が中にあるように、直隷系が関係している。北洋軍閥のうち直隷系をとれば、袁世凱・馮国璋・曹(呉佩孚)・馮玉祥・宋哲元と引き継がれ、北京・保定・張家口を本拠地とした。

ところが、この北洋軍閥と日本の北京駐在武官が関係をもっていた。中心人物は坂西利八郎・土肥原賢二の二名である。土肥原の言によれば、「西洋諸国から守るため北洋軍閥に接近した」。しかしながらこの期間、西洋諸国が自国居留民と財産を守ろうとした以外の動機で、中国政局に関与した証拠はない。

そして当時の日本には、「大陸雄飛熱」というべき流行があり、中国内に住む日本人は多かった。その大部分は上海を中心とする揚子江デルタ、天津=北京地区、山東省、満州に居住し、25万人を越えていたものと推定される。居留民は、中国国内の治安悪化に悩み、日本軍の武力介入に期待をよせた。

帝国陸軍や外務省の中国に関係した人々は「支那通」と呼ばれた。ただ支那通は北洋軍閥に肩入れする人物もいれば、そのもっとも反対勢力の国民党を支持するグループもいた。また残念なことに、日本人居留民への関心は薄く、邦人虐殺事件が発生しても、その下手人、北洋軍閥や国民党に肩入れする始末だった。

張作霖は軍閥戦争に勝ち抜いたが、最後の場面で敗れた。そのあと1928年6月、蒋介石による北伐で直隷省をおわれ、満州に戻るところを、河本大作らによって爆殺された。河本の動機は現在にいたるも、揣摩臆測されているが、はっきりしない。殺人だけを楽しんだ可能性も否定しきれない。

ともあれ、この事件により田中義一が失脚し、維新以来の長州閥は崩壊した。外相には再度、弊原喜重郎が任命された。

弊原の中国政策は内政不干渉だった。

奉ソ協定

奉ソ協定の締結に当初、北京政府の首魁だった曹は不満だったようだが、同年11月、馮玉祥によるクーデターで追われ、代わりに総統となった実権のない段祺瑞は、奉ソ協定を承認した。しかし奉ソ協定といっても、片側はソ連中央政府、もう片側は東三省政府ということで、段は、「文中の中国は実質的に東三省政府をさす」という秘密協約を差し入れたという。

また、東支鉄道がソ連領でない満州にあることは明らかで、レーニン主義からすれば、植民地資産または帝国主義的資産となるはずである。だが、この矛盾にもかかわらず、ソ連政府は、満州にコミンテルンを組織し、一方で国民党にも多数のエージェントを派遣していた。

奉ソ協定の内容は次のようなものだ。

  1. 東支鉄道は純然たる商業的企業であることを確認
  2. 60年後、ソ連は中国に無償で東支鉄道を譲渡
  3. 中ソ両国以外の第三者の関与を排除
  4. 直接管理化の営業項目以外は中国司法に服する
  5. 理事会の構成
  6. 両国は国内に相手国政府と暴力的行為を目的とする機関の存在を許さず、また相手国に同国の政治的社会的組織に反対する宣伝を行わない

こうして中ソ両国による東支鉄道の共同経営が行われたわけだが、職員の配分で折り合うことができなかったようだ。すなわち、各職場において均等な雇用が約束されたが、徐々に中国人雇用数は減少していった。この事情は、はっきりしない。

つまり5年間で、総従業員数1万2千人のうち、中国人の占める割合は3分の1にまで転落した。ただ張学良は、問題が起こったあと、この件をとりあげたが、本心がどのようなものだったかわからない。というのは、幹線鉄道運営を行うことができる人材が奉天軍閥にいたか疑わしい。

ハルビンのソ連領事館襲撃

1929年5月27日、東三省特別区警察は、ソ連総領事館を襲撃し外来参加者も含めて39名を拘引した。理由はコミンテルンの秘密会合が実施されたためだとされた。この時の逮捕者は、ハバロフスク協定にもとづき翌年2月釈放されるまで拘留された。

この襲撃が、張学良によってのみ決行されたかといえば、疑わしく、蒋介石が裏で命令した公算が強い。ただ、張学良はこの事件を引き起こすことにより、交戦団体の資格が失われたことに気づかなかったようだ。つまり、張学良は独立して外国(この場合、日本とソ連)と交渉を行う権能を自ら喪失した。

東支鉄道の実力回収

蒋介石の動きは急で6月26日、急遽北京を訪れ、7月7日、張学良と会談した。この二人は、この時初めて会ったといわれる。東支鉄道を実力で回収すること、反共策が討論されたことは確実である。

7月10日、東支鉄道理事長呂栄寰は、実務の最高責任者、エムシャノフ管理局長を罷免した。そして会計などのロシア人局長をすべて罷免し、中国人にいれかえた。同時に特区行政長官はソ連遠東貿易局など営利団体の閉鎖をも命じた。

ソ連、中国との国交断絶

ソ連政府は7月13日、

  1. 東支鉄道懸案の交渉の即時開始
  2. 中国側の鉄道に対する不法行為の停止
  3. 拘禁中のソ連人の釈放

の3項目を要求した。16日、ソ連外務省カラハン次官はモスクワ駐留田中大使に、満州里・ピクラニチナヤに兵力を集中させていることを報告した。

同日、南京政府はエムシャノフ管理局長を非難するとともに、現在ソ連領内で抑留されている中国人が1000人に達していることを指摘した。

これは、誠に奇妙な中国式論理である。中国式外交テクニックは、相手国の交渉担当者を非難し更迭を求めながら、次元の違う話を急にもちだすことである。ソ連は、外交施設内の不当拘引に抗議しているのである。一方、中国のいうことは、ソ連官憲が領内における中国系居住者を弾圧していることに抗議している。弾圧自体は事実のようだが、これは一緒にできない話である。

7月17日、ソ連政府は国交断絶を通告した。国交断絶は、両国が交戦状態に入ったことの宣言である。ところが中国人は、これに気づくことがない。

岡本一策南京領事は本省に次のように報告した。

「蒋介石始め支那側要人は満州に日本の勢力のある以上露国は到底支那にたいし強硬なる手段に出ること能わずと信じ、今回の通牒も単なる恫喝にすぎずと高を括り居たる模様にて、今更に狼狽し居るものの如し」

岡本の観測は。その後の奉天軍の動きをみるとまさに的中した。

スチムソン提案

狼狽したのは、蒋介石だけではなかった。アメリカ政府は、一九世紀外交慣習を熟知しており、ソ連の国交断絶通告が戦争をほぼ確実に意味することを理解していた。

ただ、ここで別の要素が介在した。ケロッグ=ブリアン不戦条約である。この条約は、ロカルノ条約を敷衍したものであるが「戦争を国策としない」=「先制攻撃を行わない」という条項が入っていた。ただ、単純に領土を拡張する(=国策)ため、戦争に訴える時代は終了したと考えられたため、こういった条項が時代を画するものと評価されたのだが、実際の外交・戦争の過程でどう適用するか、各国が一致できていたとはいえない。

この条約についてアメリカは、いわば理想主義を条約にしたものにすぎないとして、これに違反した場合の制裁規定をつくることには反対していた。一方、ロカルノ条約の当事国のフランスは罰則を当然のものとした。当時のアメリカは、ヨーロッパの外交紛争から免れることを考えたのだろう。

英仏米の三国は当初から、この視点から中ソ紛争をながめていた。

一方、日本はアメリカが主張した、「人民の名のもとで」という文言について国内論争が起こり、批准が遅れていた。この条約は、ロカルノと同一であり、ケロッグ=ブリアン不戦条約としてヨーロッパ以外の国の参加をもとめるとしたならば、日米しか重要な役割を果たすことができないのは自明である。日本は当時、大国中、成文の憲法をもつ唯一の立憲君主国であり、本来文言の修正を求めることができたはずで、外務省の無能がここでも露呈している。

なぜか、ケロッグとブリアンがノーベル平和賞をうけ、文言丸呑みと条約締結に最も貢献した内田康哉が、受賞の対象から外れたことは、ノーベル平和賞がヨーロッパの平和のみを取り扱っていたと考えてよいだろう。また、東京裁判で、キーナン検事が本条約違反だとして「平和を破壊する罪」を持ち出したのは、大いなる皮肉である。

いずれにせよ、1929年7月24日、日本が批准することにより、条約は発効した。その後、この紛争を仲裁で解決することは英仏米、および日本にとり条約との関係で重要なことと思われた。

そして、スチムソンはフーバー大統領の了解を得たとして、7月25日、東支鉄道総裁・総支配人を第三国人としたらどうかと一種の和平提案を出した。弊原は、もし中ソ両国のうち一方が反対したならば、(アメリカはその国にたいし武力行使などを含む制裁を)何か検討しているのかと質問した。

スチムソンはこれに答えることができず、第三国人とはアメリカ人以外であると述べるに止まった(そのようなことは当たり前である)。

このように弊原外交とは当時世上でいわれているような英米にたいする「軟弱外交」にあるのではなく、中国における「武力行使」という選択肢を初めから捨象しているところに問題があった。ただ、当時の日本人が、英米人や外国人のために中国大陸で血を流すことができたかといえば疑問である。

弊原はトロヤノフスキーソ連大使から、仲裁の依頼をうけた。さらに、汪栄宝中国大使に「赤化運動についてソ連と交渉の席を設けたうえで(領事館襲撃のような)行動にでたのであれば、世論の支持があるが、そうでなければ困難である」と詰問した。そのうえで、本件はケロッグ=ブリアン条約違反だと申し入れた。

中国はスチムソンが和平提案をしたものと曲解し、歓迎声明を出した。ここで蒋介石は弊原の言辞から日本は中国に好意的でないとうけとったようだ。

フランスはアメリカの提案を拒否、ソ連は旧情回復が先決だとアメリカを非難した。ここまでで、日本の史家は弊原が東支鉄道に色気があったような解説をする、マルクス主義者が多いが、弊原はアメリカのような「喧嘩両成敗」では問題とならず、まず領事館襲撃について旧情回復の処置をとれと言っており、もっとも筋が通っている。

直接交渉

弊原が、領事館襲撃事件を批判し、ソ連のハルビン駐在メルニコフ総領事の起用を示唆したことにより、満州里でメルニコフと奉天側蔡運升の間で予備交渉がもたれた。弊原は可能性を否定しているが、このとき満州里に関東軍を派遣すれば、その後の武力衝突は防げたと思われる。

この直接交渉は、管理局長の任命をめぐり決裂した。中国はあくまで、既に任命した管理局長を変更できないとした。つまり領事館襲撃で拉致した人間を人質と考えているのだ。

8月14日、交渉は決裂した。

8月16日、カラハンは田中大使を呼び、中国側はアメリカの支持をあてにしているようだ、と伝えた。これは、ソ連の邪推とも思われる。しかし、ソ連は8月6日、特別極東軍を組織し、ブルーヒャー(国民党顧問に派遣されていたガレンである)を司令官に起用した。

ソ連軍の攻撃とドイツの仲裁

8月16日、ソ連軍は満州里周辺で国境を突破し、同日中にジャイライノールを攻撃した。しかしソ連軍はそれ以上進撃せず、そこに止まった。

弊原はこれをみて、中国に局長任命問題について、譲歩を要求した。しかし、蒋介石はソ連軍を軽視したか、または奉天軍の弱体化を期待したか、張学良に一切の譲歩を禁止した。さらに弊原を疎ましく思ったのか、仲裁をドイツに依頼すると発表した。

ドイツはこれをうけ、駐ソ大使のディルクセンに、中国側提案をソ連に伝えた。その内容は局長の任命について譲らないとするものだった。8月29日、ソ連は新旧両局長の更迭に同意するが、任免権はあくまでも保持するとの回答を行った。

9月2日、トロヤノフスキー駐日ソ連大使は弊原を訪れ、日本の公正な態度に謝意をつげた。

しかし、9月10日、中国はソ連回答を拒否した。

大恐慌の勃発とソ連軍の進撃

10月24日、ニューヨーク株式市場が崩壊した。

11月17日払暁、一旦国境内に退いていたソ連軍は、満州里・牡丹江・ジャライノールを爆撃した。そして再度国境を突破しジャライノール付近に向かった。この国境一帯に張学良は二個旅団、1万1000人を貼り付けていた。しかし、17日中にそのうちの第15旅団(梁中甲)4000人は満州里に取り残され、日本領事館に保護を求めた。

午後2時までにソ連軍は第15旅団を補足し、大半を捕虜とした。

ジャライノール前面で第17旅団(韓光)約7000人が抵抗線を引いたが、20日までに、包囲され殲滅された。ソ連軍は捕虜をとることなく、韓光も戦死し、生存者1名といわれる。その日のうちにソ連軍はハイラル前面に殺到した。20日から23日までハイラル市内は大混乱に陥り、張軍兵士による略奪が行われた。

11月27日、ソ連軍600人の少数の歩兵が、装甲列車・トラックに乗り、ハイラルに進駐した。ソ連兵の軍紀は極めて良好であり、その後撤退まで市民は赤軍合唱団の歌声を楽しむことができたという。

11月17日以降、ソ連軍は満州の他の地点でも攻勢に出ており東部の密山、西部の免渡河・興安を襲撃している。ただハイラル以外では、張軍は組織的抵抗ができなかった。

ハバロフスク協定

ソ連軍に惨敗した張学良は、最早蒋介石の指図をうけることはなかった。張学良は蔡運升をハバロフスクに派遣し、局長問題で全面譲歩することを伝えた。蒋介石は国際連盟に提訴するからまてと伝えたようだが、張学良は軍事的にその結論をまつ時間がなかった。

11月27日、蒋介石は日本とイギリスとアメリカに国際連盟提訴の意向を伝えた。弊原は協力できないと伝え、イギリスはソ連は連盟加盟国ではないと拒否した。

アメリカはスチムソンが「ソ中両国に警告を与える」という案でとりまとめに入ろうとした。スチムソンは誤っている。張学良の領事館襲撃がそもそもの発端だという点が落ちている。

日本とドイツはスチムソン提案を拒否した。英仏は賛成したが、日本の態度が重要だと留保事項をつけた。12月3日、スチムソン声明が出され、不戦条約参加55カ国中38ヶ国が賛同した。

スチムソンの動機は、ケロッグ=ブリアン協定批准直後に、武力紛争が勃発したことが、なんとも取りまとめ国として、許せなかったことであった。ただ、外交使節襲撃と、武力による先制攻撃とどう違うのだろうか。いわんや、外交使節を人質にとり、脅迫的な外交に臨むことなど許されるものではない。スチムソンは中ソ両国を喧嘩両成敗として、仲裁しようとしたが、これは誤りである。ここでは弊原喜重郎は正しい。弊原が武力行使できる権能があれば、この紛争は完全に違ったものとなった。

ハバロフスクでの和平会議は12月14日から開催され、12月12日、ハバロフクス協定として調印された。

  1. ソ連側理事の復任
  2. 7月10日以降の全ての命令指令の取り消し
  3. 5月以降の拘束されたソ連人の釈放
  4. 7月10日以降解雇されたソ連人従業員への給与補償
  5. 白系ロシア人武装勢力の東三省からの追放
  6. 紛争中採用された白系ロシア人の解雇
  7. 外交・領事関係の回復
  8. ソ連経済機関の復活

こうして中ソ紛争は完全に解決された。ソ連はハバロフスク会議で、責任者の処罰と賠償を求めなかった。この種の交渉としては極めて寛大というべきだろう。

エピローグ

張学良軍の惨敗はその軍隊が近代的でないことに起因している。すなわち、張学良「軍」とは見掛け倒しで、実際は警察であるにすぎない。つまり、軍隊とは独立して運用できることが必須であるが、張学良軍は兵站組織をもたなかった。

このため3・4日戦えば、弾薬は欠乏し、死傷兵の補充は得られず、戦力は著しく低下する。攻撃する軍は前面に存在するだけで、張学良軍の消耗をまてばよい。そもそも張学良軍は軍閥軍であり、国家の支持をうけておらず、長期戦に耐えるようにできていない。

このような欠陥は、近代国家の軍人であればすぐわかることで、満州事変で石原莞爾も、ほとんど銃弾を費消することなく、張学良軍を雲散霧消させている。ただ、民間人は外から見える数が戦力だと思うから、理解が難しい。

柳条溝事件が、すなわち満州事変がハバロフスク協定締結から1年9ヶ月後の1931年9月に発生した。弊原喜重郎がもし関東軍を動かすことができれば、石原莞爾のやったように張学良軍を一個師団程度の兵力で、満州から放逐することは簡単にできたはずだ。それの方が、実際起きた満州事変よりも、はるかに諸外国の理解が得られただろう。

日本の問題は常に、縦割り行政すなわち戦略(軍事)と政略(外交)の極端な分離にある。

弊原はこの事件について次のように回想している

「しかしとにかく、この事件は実に危ないところまで行って、幸いに戦禍を見るに至らなかったが、もし私が両国の間にたって、一切を秘密にしないで発表していたら、果たしてどうであっただろうか。両国とも面子の問題があるから、必ずや世界の面前で、自国の立場を固執し、戦争にまで発展したであろうと思う。新聞記者諸君からは攻撃を受けるに違いないが、私がこうした秘密外交をやったために、この危機は救われたのだと、私は自賛していた」

弊原はこの一節に『秘密外交の成功』というキャプションをつけている。弊原は誤解している。秘密外交とは、秘密議定書など、秘密条約を締結することで、秘密裏に仲介交渉を行うことではない。また弊原はこの紛争を『戦争』ではないと否定しているが、そうだろうか?張軍だけで戦死者は1万人に達している可能性が高い。

ソ連軍が張軍を追わず、過酷な条件をつけず、妥協したのは、関東軍の存在のためであり、抑止力とはそのようなものである。弊原は、武力ぬきの純粋外交が存在しないことを理解できなかった。また回想録の内容だけでは、本人のとった措置ですら、満足の行く評価ができないことの好例である。


弊原喜重郎 『外交五十年』 中公文庫 1987
臼井勝美 『日中外交史研究―昭和前期―』 吉川弘文館 1998
『蒋介石秘録』8 産経新聞社 1976

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