昭和天皇は、陸軍が中国内のテロに寛容であり、居留民保護について積極的ではないことに批判的であった。そして、テロは蒋介石直轄区域において頻発しており、そこは海軍が担当していた。
海軍(伏見宮軍令部長)は、蒋介石に最後通牒を交付すべきだと主張した。
一〇月一二日伏見宮軍令部総長奏上時《嶋田繁太郎大将無表題傭忘録》
▼支那時局二封スル用兵事項二就キ奏上。(軍令部総長)
◎奏上事項二就キ御下問ハナカリシモ、支那時局二就キ『ドウ考ヘルカ』トノ御下問。
▼川越、蒋ノ会見ハ大体穏カニ行ハレタルモ之ニテ訓令事項ヲ支那カ容易二容ルルモノトハ断シ難ク、現二下交渉ノ返事ヲ九日ニナスヘカリシヲ支那要路ノ会議纏ラサリシ為ニトテ延期ヲ申来リ。
便令蒋二親日ノ考アリトスルモ要路二親英、親米、親蘇アリテ蒋ヲ牽制シ國民ハ多年排日ノ教育ヲ受ケアリテ急速二改善ハ困難ナラン。
之二封シテハ我政府ノ方針ヲ定メ、陛下ノ御允裁ヲ得テ進マサル可ラス。今朝モ此点海軍大臣二話サシメタリ。
支那ノ返事来ラサレハ期限ヲ附シテ返事ヲ迫ル止ムヲ得サレハ武カヲ用ルノ外ナシ。支那ハ英米等ノ干渉ヲ遷延ニヨリ招クニ努ムヘク、之二封シ譲歩ハナシ得ズ退却ハ将来ノ発展ニナシ得サルニ至ルヘシ。
尚序二申上シニ
日清、日露ノ戦役ニハ支、露ノ無暴二封シ止ムナク立チタル為日本二正シキ大義名分アリタリ。是レ大捷ヲ獲タル一因ナリ。然ルニ満洲事変以来ノ日本ニハ正シカラサル事多シ。満洲事変ノ起リ然リ、熱河二作戦シ絶対二越ユ可ラズト陛下ヨリ厳命アリシニ拘ラズ長城ヲ越ヘテ遂二北京二追ルニ至リ、(殿下ヨリ奏上シ)参謀総長二御下命ノ上北京二入ラサル事ヲ得タルガ、大義名分立タズ、今回ノ事ニテ兵ヲ用ルトシテモ此点ニテ自信無之。(軍令部総長)
◎陛下御同感ニアラセラル。
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この会話の内容は嶋田繁太郎(軍令部次長)が、メモとして書き残したもので、昭和天皇の日華事変直前の消息を知るものとしては量・質ともに最高のものである。嶋田繁太郎は伏見宮の拝謁時の天皇との会話をそのまま記録したものと推定される。
1936年の蒋介石のテロ事件にたいして、昭和天皇は限定的な武力行使、場合によっては「小さな戦争」を覚悟したことがうかがえる。現代人からみれば好戦的な主張にみえるかもしれないが、在留邦人のことを考えたあまりである。そして、済南出兵などの事例も考慮すべきだろう。
だが、二人は陸軍の賛同を得られないとし、そのうえ、陸軍の「関東軍的体質」を憂慮し、断念に傾いている。
木戸幸一による支那事変の戦争責任
この時、蒋介石は上海における全面戦争をすでに覚悟しており、もし、「小さな戦争」を試みたとすれば、蒋介石は上陸(しゃんりく)攻撃に向かい、やはり史実と同様の展開となっただろう。

中尾祐次 『昭和天皇発言記録集成』 (上) 芙蓉書房出版 2003
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