上海小史

上海は黄哺江(揚子江支流)に面する内陸港湾都市で、20世紀の前半貿易・工業都市として栄えた。この都市は実質イギリスの冒険資本により基礎がつくられた。そして世界史のなかで重要な位置を占めたのは第1次大戦終了から1937年日華事変の上海決戦までだった。上海租界は当時自治都市の様相を呈していた。そしてあらゆる自由はあったが治安は極悪かつ不衛生だった。居住者はインターナショナルで中国人ですらそこで生まれた人間はほとんどいなかった。

この時だけ上海は世界史に登場した。期間と有様はミュンヘンに似ている。

租界の成立

上海の成立はアヘン戦争により呉淞(ウースン)砲台の隣接地をイギリスが清から居住地として指定されたことに始まる。場所は上海県城の北部で、旧来は城壁(明時代に倭寇禁圧のため築かれた。現在予園近辺に掘割を見ることが出来る)に囲まれた県城とその中に旧市街地があっただけである。実際にはアメリカと清の間の1844年望廈条約により治外法権が確立され、アメリカ人、イギリス人、フランス人の指定居住地が自治地域のような外見を呈したことにより、大きく発展した。

地理では揚子江という中国の大動脈と直結し、日本・アメリカと最短距離で結ばれるという優位性があった。結果としてアヘン戦争による他の開港場4港、広州・アモイ・福州・寧波を引き離し圧倒的に発展することになった。

1854年、外国人商人が参事会を発足させた。同時に居住地の納税資金について予算決定権を参事会が保有することを宣言した。これは事実上の独立宣言に違いない。それ以降居住地は租界(コンセッションともセツルメントとも)と呼ばれることになった。また注意すべきは米・英・仏の外務省ともこの動きに反対したことである。これは当然だろう。そんなことをすれば上海租界は独立国になってしまうからだ。

しかし、この時太平天国の乱の渦中で、県城も賊徒に占拠される状態にあったから多くの注目を集めなかった。むしろこの混乱のなかで目立つのは、難民が租界に殺到したことだ。1850年に外国人居住地のなかに中国人は500人しかいなかったと言われる。これが短期間に2万人に増加した。

高杉晋作のみた上海と太平天国

1936年の最盛期、上海は租界に150万人、それ以外に200万人の人口を抱えるに至る。両方で面積は千代田区と中央区を併せた程度だ。

またアメリカ租界とイギリス租界が合同し共同租界となった。そして1895年日本が日清戦争に勝利し下関条約が締結されると治外法権を獲得日本人も上海の共同租界にやって来た。

そして、これらの国と一番遅れて来たドイツ人の間に奇妙な分業が成立し始めた。すなわち英仏人は貿易(絹・茶の輸入)と金融、アメリカ人は宣教師、日本人は工業(綿工業・軽工業)、ドイツ人は軍事アドバイザー業だ。これらは相互に関連がないが互いには宣教師を除いて相手はより多く儲かっているのではないかという錯覚をもたせた。とくに日本人は英独仏の業務を羨んだ。

現在もこの分業はドイツを除いて続いているように見える。

上海は当時魔都と呼ばれた。魔都はおそらく租界を指すのだろう。始めは租界とその他の地区は境界線が存在せず、共同租界は拡大する傾向にあった。そして共同租界にはいかなる国の法律も適用されなかった。しかし民事では契約に適用の法律を明記したし、刑事事件では犯人は犯人の国の法律(治外法権のある国)で領事裁判に付されて不自由なく機能した。

1925年頃の上海。縮尺を参考にして欲しい。共同租界全てで中央区より狭い。租界に人口150万人が密集していた。当時最高の過密都市だった。(現在もそうかもしれない)

また、ここではパスポートが発行されないから刑事事件さえ起こさねば、無国籍者が忍び込んでも、いや堂々と入っても問題がなかった。とにかくビザが不用だった。昭和初期関西や東京の女学校では上海修学旅行が流行したが、パスポートもビザも持参しなかった。ただ無国籍者は刑事事件を起こすと中国法で裁かれた。

しかし実際のところ上海租界を支配したのは、イギリスの植民地資本家と言われる人々だった。これらの人々はアヘン戦争の前後に中国に来た冒険商人だった。多くの人々はイギリス国内で受け入れられずに東洋まで流れて来た。ケズウィック家、スワイヤー家、サスーン家などで(*)低地スコットランド人が多いようだ。スコットランド(ボーダー)を旅すればこれらの地名を、多くは寒村だが、発見することができる。またこれらの植民地資本家は決して本国から切断されることがなかった。常に経営陣は故郷の村から呼び寄せられた。従って駐在しているのは1世で、年をとれば故郷やロンドンに帰った。また彼らはイギリス政界にも隠然とした勢力を保有した。現在でもスワイヤー家はイギリス中に貸しビル業としてスワイヤーハウスを営み、奨学金を支出している。また東京にも英国大使館の裏にスワイヤーハウスがある。

(*)当時、囲い込み運動が頂点に達していた。小作農は地主の飼う羊に土地を追われた。スコットランドの小作農はクロフター(自作農)運動を起こした。そしてクロフターとして土地が確保できなかった人々が出稼ぎで海外に出ていった。失敗してもクロフターの組合は帰国者を暖かく迎え入れた。また寡婦となった婦人には保険金が支払われた。これが生命保険の発祥だという。ただサスーン家はユダヤ系とも。現在香港のペニンスラホテルを経営。ケズイックはジャーディンマディソン商会、スワイヤーは香港上海銀行の個人筆頭株主。

上海は1912年の辛亥革命にも大きな影響をうけなかった。租界以外は孫伝方という軍閥に支配されたが、清時代と変わりがなかった。ただ多少変わったのが租界に居住する中国人が国家主義に目覚めたことだった。以前から租界に流入していた人々はイギリス人排斥を訴えた。住民の多くは外国資本に雇用されていた。雇用条件は劣悪だが改善は期待できなかった。というのは新しい流民は常により悪い条件を受け入れた。

第1次大戦が開始された。途中で影響があったのは、日本が袁世凱政府に21ヶ条要求をつきつけたことにより反英運動が反日運動に変わったことぐらいだった。もっとも戦後共同租界とフランス租界の境目の道が第1次大戦の将軍の名前をとりジョフル通り(1945年から中正大路1950年から現;准海中路)に変えられた。

そして数年たつと大変化が起きた。白系ロシア人が大量に来着した。租界にはおよそ15万人の外国人が居住していたが約4万人は日本人で白系ロシア人はすぐ3万人に達し第2位を占めるに至った。

この白系ロシア人の流入は上海のあり方を根本的に変えた。白系ロシア人は中産階級出身とりわけ帝政ロシア軍元将校が多かった。日本のシベリア出兵の撤兵遅延により、ソ連の浦塩口は最後まで開放されていた。このため多くの難民は浦塩口に頼った。また今日からみて意外だがアメリカは1922年修正移民法により北欧系以外の移民は原則として禁止していた。このとき難民という概念がなかったから、約60%の帝政ロシア軍将校生き残りは日本、日本軍経由で脱出し多くは満州・日本・上海に居住した。

白系ロシア人は上海に文化をもたらした。それまで白人にとり上海は一時滞在の場所で永久に住む所ではなかった。白系ロシア人は音楽、美術、建築、スポーツに才能を発揮した。そして従来の上海のイメージを完全に変えた。しゃれたブティック、レストラン、ダンス・ホールはみな白系ロシア人が経営した。

多くはフランス租界のジョフル通りに店を構え、そこはリトル・ロシアと呼ばれるようになった。

そして上海の全盛期は第1次大戦終了1918年から上海攻防戦1937年までだろう。ほぼワイマール共和国の時代に相当する。そして治安極悪(もちろん内陸よりはよいが)=極度の自由という点で共通する。

1927年の戦火

1937年の日華事変まで上海は2回戦火を浴びている。第1回は1927年だ。この年、蒋介石による北伐が開始された。辛亥革命の理論的指導者孫文は広東省の一部にしか勢力がなかった。孫文は第1次国共合作によりソ連と手を結ぶことにした。孫文の死後それは受け継がれたが蒋介石は全面的に賛成しなかった。

幣原喜重郎の複数心臓論(第3次南京事件)

1927年の北伐は上海の租界にとり不可解な印象を与えた。当時の国民党はソ連製の武器で装備されまた多数の共産党のエージェントが入っていた。白系ロシア人にとりこれは赤軍でありまた多くの外国人もそのように疑った。ソ連のエージェントの多数は上海の租界におりまた租界の警察はその動向をよく抑えていた。

北伐軍は二手に分かれソ連エージェント、ボロディン指揮下の軍は漢口に向かった。そこで漢口事件を引き起こす。また蒋介石の軍は南京を目指したが、途中、上海前面で停止した。上海の租界以外の中国人街は二つに分かれた。学生と労働者は国民党を歓迎し周恩来の指揮のもと共産軍を組織した。一方、地下組織の杜月笙(とげつしょう)は密かにフランス租界の警察と参事会の応援のもと武器を蓄えていた。蒋介石と杜月笙は互いに青幇という秘密結社に属する知り合いだった。蒋介石は杜月笙を応援し上海市内の共産勢力の打倒に意を決した。

蒋介石は外国の砲艦が並ぶなか、3月26日客船で上海に上陸した。そして4月9日、杜月笙は労働組合(総工会)議長王少華を暗殺した。しかし国民党部隊は1枚岩でなく先遣隊はすでに市内あちこちを占拠する共産党の武装蜂起部隊と接触を開始していた。

4月12日、杜月笙の率いる、ならず者部隊は夜更け、400人の共産党と目されていた人々の寝込みを襲った。上海全市内に銃声が響き渡った。

杜月笙(1888−1951)

上海近郊の蘇州で生まれた。子供の時両親と死別、13歳ごろ上海に移った。以来フランス租界を根城に非合法営利活動(阿片・売春・誘拐)を専らとした。1927年、周恩来の指揮する共産党武装蜂起を手下を動員して弾圧、租界から共産党労働組織の除去に成功した。その後蒋介石との結びつきを強め一生涯それを維持した。つまり地下組織の長としては珍しく政治的であり忠義に厚かった。日華事変勃発後もその姿勢を維持、香港と重慶の間を動き回った。国共内戦の間、香港に居を構えそこで死亡した。

翌日、共産党は抗議の大デモを組織した。デモ隊は女性・子供を含んでいたが、蒋介石直属部隊は宝山路で機関銃を発射した。共産党は15千人が殺されたとする。実際はトラック8台で遺体を片付けたというから1千人未満だろう。この後3週間にわたり白色テロが上海を覆った。処刑された者は12千人というがこれも実数は不明だ。蒋介石は杜月笙を上海市の阿片取締り部長に任命した。

この時、イギリスは香港にいた少数の陸軍部隊を上海に派遣していた。また日本人居住者は防衛中隊を結成したが、領事館は喜ばなかった。この時は幣原外交のピークだった。アメリカ人といっても宣教師だが中国人に対等の地位を与えるべきだと主張し始めた。実は共同租界で中国人は中国法に従うだけで平等の権利を保有していた。対等でなかったのは経済上のことである。アメリカ人からみれば自分たちが中国でアメリカ法に守られていることが不平等に見えて仕方がなかったのだろう。もっとも租界にいるアメリカ人はイギリス人と同調し合法権益の維持を言ったが、本国での声とはならなかった。イギリス本国はあくまで居留民の保護を図るつもりだったが、そのための武力行使を単独でやるには既に国力がなかった。

イギリス、アメリカ、日本は1921年のワシントン条約で太平洋の軍事基地の設定について協約した。それによれば、アメリカはハワイまで、イギリスはシンガポールまでだった。日本は南洋群島の基地設定を禁じられた。それではハワイとシンガポールの間はどうなるのか。誰も答えを出そうとしなかった。

純軍事的にみよう。中国内陸での長期に亘る軍事活動は3ヶ国とも不可能だ。というのは北伐の1方面軍で3個師団近く国民党は動員した。約10万人だ。この人数を英米とも内陸の特定地点に輸送するのに9ヶ月はみなければいけない。これでは内陸の軍は簡単に移動してしまう。つまり、沿岸の特定地点に陸戦隊をおそらく1個師団程度1ヶ月かかって送り込むのが関の山だ。そしてこれすら3ヶ国のなかでは日本しかできなかっただろう。ただ上海居留民3万人のため3万人の軍を派遣する、更には駐兵するとは何を意味するのか。

つまり中国人と戦争をして勝つことは難しくないが、そこに長期駐留するのは不可能だ。

そして幣原外交は日本のこういった大陸での軍事負担に消極的だった。重大な点はワシントンで決めたことに具体性がなかったことだ。つまり居留民が危険となった場合英米は日本に依存せざるを得ない。ところがそれを明らかな理由で明文化できなかった。ところがこれは北清事変ですでに生じていたことだ。

この事件はとりわけアメリカに危機感を抱かせた。つまり孤立主義と理想主義が両立しなくなったことだ。仮説が許されるならもし日本がこの時大胆に共同で上海他各地に出兵し、そしてすぐに撤兵したらアメリカの世論は根本的に変わっていただろう。この後アメリカは日本を利己主義的な国だと見なし始めた。極東軍事裁判ではアメリカのキーナンは1928年から日本が継続的な侵略意図をもったと論告している。その1928年という開始時期は疑問とされる。しかし原因は漢口事件とこの事件だろう。

アメリカは中国内の治安維持についてこの頃から真剣に分析を開始した。しかし結論は現在に至るも出ていないように見える。とにかく治安維持に成功したのは外国人部隊ではなく、杜月笙の部隊だったのだから。

満州事変直後の排日運動と幣原外交の終焉

「支那人は、上海は彼らのものだという。如何にも上海が支那の国内にあることだけは明らかだ。けだし、上海の有する価値−世界的港湾としての上海が、支那人のものであると何人が断言し得るところであろう。世界有数の港になるために、上海に与えた支那人の努力は皆無といってもいい。それは、漢口でも、青島でも、天津でも同じである。…そして外国人によって発達した土地も一度、支那人の手に戻るが最後、無茶苦茶になるのは、青島や山東鉄道の例でも分かる。…その土地は如何にも支那人のものであるには違いないが、その上に建てられた文化らしい文化は、ことごとが外国人の努力によったものだということである。他国人の築き上げたものをほとんど無償で取り上げようというのだから、これくらいうまい話はない」


以上は清沢洌『黒潮に聴く』選集第2巻 日本図書センター 1998からである。

「上海は誰のものか」は難しい質問である。上海バンドの建物・港湾施設の大半はイギリスと日本の民間人により建設された。当然、日英の民間人が所有していたのである。これを中共政府は暴力をもって接収した。中国人は日英人の戦時におけるありもしない「虐殺」「暴行」をあげつらう。だが、清沢の外国民間人資産を、政府または暴徒が奪ってはいけないという論理は輝きを失わない。中共政府の蛮行と日英政府の民間人資産軽視の事実は永久に消えない。


堀田善衛 上海にて 筑摩書房 1959
上海について書かれた本は日本で多い。ただ現代中国人に言論の自由が与えられていた期間はほとんどない。政治的発言があるとすれば、必ず政治的立場が反映しているはずである。その点を踏まえて議論されていなければただの慨嘆にすぎず、バーナード・ショーやサルトルのソ連論が犯した誤りの繰り返しとなる。
石井寛治 近代日本とイギリス資本 東京大学出版会 1984

このページTOPに戻る

上海攻防戦に戻る
ソンムの戦いに戻る

に戻る