チャラシアの戦い
ロバーツの指揮する野戦軍がカブールに到達するためには、チャラシア(ChaharAsiabが実際の地名で当時イギリス本国政府は綴りをCharasiaと間違えた)北方の山脈を突破せねばならないことは確実だった。
アフガニスタン反乱軍はイギリス軍の接近を察知し、カブールに駐在する13個連隊(8000人から1万人)をこの山脈に向かわせていた。
指揮官はドスト・モハメドの子、ネク・モハメド・カーンで新鋭装備の軍だった。すなわち小銃はスナイドル銃で野砲も22門同行させていた。ただし野砲に榴弾を装備していない。
一方、カブール野戦軍は兵站のネックを抱えていた。すなわち1個旅団分の大行李は2頭の象、3頭のラクダ、200頭のら馬で運ばれていた。この隊列は場合によれば5キロに及んだ。というのは、隊列に多くの随伴者また随伴者のための行李が必要だったためだ。そしてこの護衛のため騎兵部隊の半数、歩兵1個大隊が警備のため必要だった。そして食糧はカブール到着までしか確保されておらず、弾薬・医薬・被服・野営装備なども最低限で、大行李の少量でも喪失することは致命的だった。
それに加え、輜重部隊の行軍速度は遅くまた野営の場合、特別な措置が必要だった。敵が簡単に輜重部隊の存在を知ってしまうからだ。ら馬が運搬の中心だが、これは耐久力と糧秣負担が良好で当時の中央アジアの水準からみれば画期的なアイデアだった。
また装備は榴弾装填可能のアームストロング山砲2個中隊11門を随伴しており、アフガニスタン軍の旧式野砲を大きく上回っていた。小銃はイギリス本国軍がマルティニ・ヘンリー、インド軍がスナイドルだった。制服(夏季)は白色でこういった山間部の戦闘では狙撃目標となりやすく、兵士は支給時すぐさま紅茶で煮付けカーキ色にするのが一般的だった。
スナイドル銃
チャラシア前面の地形は正面が山脈であり、その両側に川が2本流れていた。その川に沿いカブールに向かう道もあった。右側はやや狭い切り通しを通る必要がるが距離はこちらの方が短い。左側は遠回りだがやや開けた地形だった。アフガニスタン軍はほぼ全軍が山に登ったようであり、その左右の道を扼していた。
チャラシア前後の町には装備は劣悪だが町ごとに数千人単位の部族兵が集まっており、もし機会があればカブール野戦軍を襲撃してくると予想された。
1879年10月7日早朝両軍配置
ロバーツはイギリス軍の将領としては珍しく、量や装備に頼らず作戦に重点を置いた司令官だった。ロバーツはやや複雑な陽動作戦をとった。すなわち主力を一旦左翼に向かわせるとみせかけ、実際は右翼に山砲を中心として攻撃をかける。右翼・左翼にはほぼ均等の兵力を割り当て、最終場面で左翼に兵力を集中し左翼から突破を図るというものだった。
これは山脈に篭る敵は決して中央突破を狙って攻勢に出ることはないという割り切りに基づいたもので、この頃から発達した近代軍事学を取り入れたものだった。ロバーツの狙い通り、アフガニスタン軍はインド軍の両翼攻勢をみて左右に兵をふり、あくまで切り通しを通る敵をそこで防ごうとした。そしてインド軍の攻撃の重点が右翼にあるとみて兵力の中心をインド軍右翼に振りわけた。
ロバーツが平野を通って最短距離で右翼から左翼に兵を振ったときアフガニスタン軍は山脈を伝わらざるを得ず、対応が遅れた。やや険しくない左翼で攻勢に出たインド軍はそのまま突破に成功し山脈の背後に回る形勢を示したため、アフガニスタン軍は総崩れとなり、カブールをも無視し北方に撤退した。
ロバーツの快勝譜だった。
保守党政府の総選挙敗北
ロバーツ、スレイ(Roberts,
Frederick Sleigh;1832-1914)
イギリスの軍人。おそらく一九世紀後半もっとも人気のあった将軍。裕福なジェントリーの家庭に生まれイートン、サンドハーストを卒業。セポイの反乱のさい個人的武勇の功で授与されるビクトリア十字勲章を受勲した。その後アビシニア遠征、インド北西辺境地の鎮定、ボーア戦争で活躍した。ただボーア戦争では唯一の子を戦死させている。インド軍司令官のあと1893年元帥となった。政治的には前進主義の熱心な主唱者でありまた徴兵制の導入を主張した。当然自由党政権と対立したが決定的とも思えない。第1次大戦の勃発とともに現役に復帰インド遠征軍の総司令官に任命されたが、直後8月フランスのサンオマルで客死した。
ロバーツはカブールに進撃し町を占領した。直後、カバグナリ殺害の嫌疑によって何名かを公開処刑した。これは大きくロンドンで報道され保守党政府の打撃となった。そして10月28日ヤクブ・カーンはアフガニスタン人の支持が自分とイギリス人にあまりにないのを悲観して退位することを宣言した。そして12月1日インドへ出発してしまった。
冬が近づいた。ロバーツはカブール近郊のシェルプルに基地を設定したが周辺には続々と反乱軍が集結しその数は10万人に達しようとしていた。反乱軍は散発的に攻撃をかけロバーツは一切基地から出ることができなかった。インド政府はカブールに救出軍を派遣することを決定した。救出軍は12月23日にシェルプルに着いたが、その日も基地は襲撃されており、銃声に響くなかでの到着となった。厳寒期はさすがに戦闘は停止されたが春とともに戦闘が再開されることは確実だった。
外交的解決を計らねばならないが、まず相手方国王の候補として二人あがった。アブドル・ラーマンとアユブ・カーンだった。アブドル・ラーマンはヤクブ・カーンと対立しロシアに亡命していた。一方アユブ・カーンはヘラートの太守だったが、名うての反英派として聞こえていた。両名の経歴ともイギリス人にとり好意的にとれないが、とにかく未知数のアブドル・ラーマンを支持する他なかった。
アブドル・ラーマンを擁立するのであれば戦争をすることはなくロシアと協調するだけで達成できたことだ。このおかしさに誰もが気づいたが、ともかく戦争は始まっており、イギリス軍は戦闘に勝利しカブールとカンダハルに存在していた。
一方カンダハルのスチュワートは兵力節減のため、カンダハルとカブールの間の交通を円滑にし、指揮を統一すべきだということでカブールに移動した。途中ガズーニで小競り合いがあったが切り抜けた。だが4月、ようやくスチュワートがカブールに到着すると本国の政治情勢は全く変化していた。カブール突入後の殺害犯人公開処刑が中産階級の反発を呼び、保守党は選挙で大敗し、自由党が政権与党となった。前進派のインド総督(副王)リットンは革職されリポンに代わられた。スチュワートはアフガニスタン派遣軍の総司令官に任命され、政治状況の混乱を終息させて名誉ある撤退を早期に実現させろと督促された。
7月10日、アブドル・ラーマンが王位についた。
当然アユブ・カーンは納得しなかった。そして19世紀後半のイギリス陸軍史上最悪の敗戦が待っていた。
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