シュリーフェンは1891年ワルデルゼーの後を継ぎ参謀総長に就任した。そして日露戦争直後の1905年、2正面作戦必勝の計画としてシュリーフェンプランを提出した。
シュリーフェン(Alfred
von Schlieffen;1833-1913)
そして、この作戦計画は実際実行されたばかりでなく、第1次大戦の直接的な原因となった。理由は、作戦の根拠を露仏の動員のスピードの差においたためである。これだと、露仏のうち一国が動員を開始したら、ドイツもすぐさま動員をかけフランス国境(ベルギー国境)を突破せねばならない。さもなくば、ロシアの動員が進捗し、その大軍が東プロイセンを越えベルリンに殺到してしまう。
次はイギリス陸軍の旬報(1929年7月)に掲載された「シュリーフェンプランの検討」という記事である。
すべての軍事評論家は、小モルトケがアルザスとロレーヌに面しているドイツ軍左翼をシュリーフェンの原案よりも厚くしたことを批判すると言う点に関して一致している。そして右翼を犠牲にしたと。右翼は大迂回を行い、フランス軍全てを東部国境要塞地帯からスイス国境までの地域に追い込む役割だった。
この件はグレーナーを始めとして多くのドイツの将軍により主張されており、シュリーフェン原案では右:左=7:1だったものを小モルトケは3:1にしたと言う。しかし彼らは数字の根拠は明らかにしていない。
グレーナーの"Das Testament des Grafen Schlieffen"によると1905年と1914年のフランス軍に対するドイツ軍の展開は次の通りである。(後備旅団を除く)
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軍 |
1905 |
1914 |
第1軍
第2軍 |
11個軍団
7個予備軍団 |
8個軍団
5個予備軍団 |
第3軍
第4軍 |
6個軍団
半個予備軍団 |
6個軍団
3個予備軍団 |
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第5軍 |
8個軍団
5個予備軍団 |
3個軍団
2個予備軍団 |
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第6軍 |
3個軍団
1個予備軍団 |
4個軍団
1個予備軍団 |
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第7軍 |
ー |
2個軍団 |
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計 |
41個半 |
35個 |
シュリーフェンは東部戦線には10個師団置くことを計画した。小モルトケは8個である。
小モルトケはシュリーフェンの期待した師団数を持つ事ができなかった。しかしシュリーフェンの計画は単に予定のものにすぎない。
一方ブレット議員は議会の敗戦原因追求委員会委員長であり、計画の性格・小モルトケがどのように、またなぜ計画を変えたのか説明している。(Die
Belgische Neutralitie und der Schlieffensche Feldzugplan)
ブレットは未だ公開されていない資料および、そして大戦の文書についての該博な知識をその本で披瀝しているが、やはり小モルトケの改悪を非難している。ただし、それまで想像されていた内容とは違う。
ブレットは1908年から1909年までルーデンドルフが参謀本部の作戦課長だったことを指摘する。重要な改変はその時に起こった。そして軍事知識のみに偏り、世界を知らないルーデンドルフは宮廷武官に過ぎない小モルトケよりも実際多大な役割を果たしたとする。
また1909年に書かれた忘れられた記事、Deutsche Revueのなかの無記名によるシュリーフェンの寄稿を想起するように言う。その時寄稿者は想像されていたし、現在ではシュリーフェン文集にあるとのことである。
ブレットは小モルトケがなぜ左翼を強化したのか次のように言う。
「小モルトケはシュリーフェンのようにアルザスを見捨てることができなかった。また、イタリーがドイツにたって参戦する可能性があった。イタリーの1914年に死んだ参謀総長のポリオはアルザスに派兵することを承諾していた。
小モルトケはアルザスの防衛に2個軍団必要だと考えていた。ところがイタリー人が現れないとなると、この(本来イタリー兵団と交代予定の)2個軍団を右翼に持っていくことはできない。そしてフランス軍がミュールハウゼンを攻撃すると、移送のタイミングすら失ってしまった。
もしこの2個軍団と東プロイセンに移送した2個軍団が右翼にいれば実際のところ、小モルトケのプランはシュリーフェンのと同じになったはずだ。」
これと離れて、シュリーフェンの原案は西部戦線のみ考慮されていた可能性がある。ロシアはその時日露戦争で弱っていた。従って東部戦線には手当ては不要という考えである。全般的に東部戦線の10個師団は実際にロシアの干渉が起きた時のみ発生し、その場合西部戦線から抽出するが左右の比率は変更しないことが了承されていた。
技術的な細かい変更よりも重要なのは政治的な変更に関してである。シュリーフェンの原案ではベルギーに最後通牒を交付することを予定せず、通知だけでベルギーおよびオランダ領内にドイツ軍が展開しうるものと予定していた。ドイツの計画は漏洩されるだろうから、フランスは対抗策を講じるだろう。シュリーフェンの見解によればナミュール周辺のムース川南岸はフランス軍にとり自然の防壁をなすから、そこで防衛線を引くことになる。
すなわちフランスは先にベルギーの中立侵犯を行うだろう。
しかしフランス人はそのような事を考えたことがなかった。実際1914年にドイツ軍はムース川まで一直線に侵攻した。これはドイツが先にベルギーの中立侵犯を行うことはなかろう、と言う判断に基づく。シュリーフェン伯はそのような事は起きないと思っていたのだ。
シュリーフェンはドイツの政治家が時間をかければ様々な手段でベルギーの中立侵犯の汚名を被せられることを防げると確信しこう語った。「ベルギー領内に入るやいなやリエージュは占領されねばならない。それは補充兵の輸送と兵站のため欠かせない。」
これは1908年動員計画の改正で突然変更された。リエージュは動員過程で準備射撃をすることなしに急襲( Coup de
Main )で略取すると言うのである。
ブレットが指摘するにはリエージュ急襲案には更なる利点があると言う。
シュリーフェンによるドイツ軍の当初配置は北はクレフェルトまで広がっていた。これはオランダの縁辺部を含むことになる。
ブレットは言う「シュリーフェンは1905年当時、対イギリス戦となればオランダ政府から無害通行権を得ることが全く不可能ではないと考えていた。それはリムブルグ(蘭語マーストリクト、仏語レールモン)を通過することである。このようにしてリエージュ要塞は北を迂回し更に南部へ急行すれば補給を断つことができ、降伏させることが出来るというのだ。」
小モルトケはオランダが通行許可を下ろすとは思わなかった。そしてドイツ軍右翼がこのルートを通ることを断念した。そして同時に右翼の前進が遅れることを防ぐため、猛烈な砲撃でリエージュを陥落させることはできないかと考えた。
最も重要なことはベルギー人に保塁間に塹壕などの防衛施設を作ったり、また鉄道施設を破壊する時間を与えないことである。これはもちろんリエージュとオランダ国境のわずかな隙間はドイツ軍右翼が通過するのに十分でないという前提に基づいている。
それゆえに小モルトケは開戦と同時に動員することなく常備の兵をもってリエージュを急襲することに決めたのだ。「2日間と1夜だけ急襲の遂行のため許される」と…。
この英陸軍のシュリーフェンプランの検討は戦間期におけるものとしては白眉のものである。リエージュ急襲のためエミッヒ臨時派遣軍を結成したことも事実であるし、このためにロシア総動員の後、小モルトケが気の狂ったようにシュリーフェンプラン完遂に向け努力を払ったことも理解できる。
また小モルトケによる改変が世上言われるような大比率変更でなく、小幅なもので中央を厚くしたが、左右ではそれ程の差ではない。
それでは旧軍はこの計画をどのように理解したのだろうか?
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石原莞爾…「最終戦争論」より
シュリーフェン時代にはフランス軍は守勢をとると判断されたのに、その後、フランス軍はドイツの重要産業地帯であるザール地方への攻勢をとるものと判断されるに至ったことが、この方面(ドイツ軍左翼)への兵力増加の原因であります。
また大規模な迂回作戦が不徹底ならしめたのはモルトケ大将がシュリーフェン元帥の計画では重大案件であったオランダの中立侵犯を断念したことが。最も有力な原因となっているものと確信いたします。
ザール鉱工業地帯の援護、特にオランダの中立尊重は戦時持久のための経済的考慮によったのであります
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この意見は石原の独断かも知れないが、全体として旧軍がドイツ情報を得るのが困難だったことが察せられる。石原は当初のシュリーフェンプランのなかにオランダ侵攻計画があったことを発見し、それを自慢しているが、上のイギリス軍雑誌のようにそれ自体は周知だった。
石原の言うオランダ中立侵犯と回転翼縮小との間に関係はなく、その取りやめはオランダ軍の敵としての増加を除けば、リエージュ要塞の力攻めをもたらしたにすぎない。また石原はオランダ通過の断念と左翼比重の増加の理由として経済をあげる。これは戦間期日本人の特徴で経済または食事などの物質要因をあげれば、だいたいの人間の行動を説明できると錯覚していた。
おそらくマルクス主義の影響と思われる。現在の日本のマルクス主義歴史学者も、石原のように左翼増加はラインランドにいるブルジョワ防衛のため、小モルトケの痛恨の失敗、東プロイセン2個軍団派遣はユンカーの希望に沿ったためと言う。笑止としか言いようがない。
なおザールは鉱工業の重要地帯ではない。またルールはともかくラインラント(西岸)もブルジョワの中心ではない。ドイツ人は危険を察知しており工業の中心はライン東岸に移していた。現在も変わらない。またこの時ユンカーは領地など東プロイセンに持たず落魄して、将校を家業としていた。日本の江戸期の旗本・御家人と変わりがない。
また石原はこの計画の内包する危険、すなわちドイツが先に国境を越えることになる、また外交の情況とかかわりなく軍事的な事柄のみで開戦が決定されるという致命的な問題に気づかなかった。これは当時の陸海軍軍人の共通して持っていた認識、政略出兵は好ましくなく戦略出兵のほうが良い、という倒錯した考えから脱け出られなかったためである。するとイギリス陸軍が問題視するベルギーの政治情況の判断に誤りが生じるという指摘に鈍感になってしまう。
言葉として戦略出兵は格好が良いかもしれないが、実際は予防戦争に他ならない。日清戦争・日露戦争・満州事変・太平洋戦争は予防戦争であり、シベリア出兵・日華事変は軍人の言うところの政略出兵である。予防戦争の方が戦争目的がはっきりしているのは当然だが。
この意味では政党政治家や新聞が妥協と脅迫が基調となりかねない外交をきちんと国民に説明できなかったことも大きく、そして先人の築いた日米関係を画餅のように壊した広田=松岡外交の責任は重大だろう。
戦間期の日本人もベルギーはともかくこれがアメリカ相手の予防戦争ともなれば、もっと重大な結果を招くと考えるべきだった。これはしかし英米同祖論とか一体論を振りかざした海軍が問題かもしれない。
なおシュリーフェンプランは前後64回にわたり手直しされたことが知られるが、これは西ドイツ国防軍が1956年に公開した文書によって明らかになった。それまでは石原やイギリス陸軍のように憶測を働かせるしかなかった。
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