サムソノフの決心

サムソノフの決心

サムソノフの決心

サムソノフの決心

サムソノフの決心

8月25日までの形勢

サムソノフは8月23日正午オストロレンカを出発した。その時隷下に予定された五つの軍団はすでに国境を突破し、最も先に進む右翼第6軍団(ブラゴフェシチェンスキー)はオルテルスブルグにいた。一方左翼は集中が遅く第1軍団はムラワ(アルタモノフ)から鉄道で、第23軍団(コンドラウィッチ)は徒歩で国境を越えつつあった。

ロシア第2軍の戦闘序列

つまりムラワからソルダウ=オルテルスブルグの線まで前進していた。この前進はサムソノフの命令によるものではない。なぜならばサムソノフは戦争勃発時中央アジアにいて、そこから鉄道でオストロレンカに辞令により第2軍司令官として8月22日夜到着した。このため、その間の第2軍の行動は幕僚が北西方面軍司令官ジリンスキーの指示にもとづき命令したものである。

その命令はアレンシュタイン方向への前進で、退却しているドイツ軍の退路を断とうとするものだった。ジリンスキーはグンビネンの戦いの結果ドイツ第8軍はトルン=ダンチッヒの線まで撤退中であると疑わなかった。これであれば第1軍(レネンカンプ)と距離を相互に縮める北行案は悪い案ではない。

ところがドイツ第20軍団(ショルツ)が西方にいた。最も有力な戦力を与えられたロシア第15軍団(マルトス)はこれとラーナ・オルラウで遭遇戦となりロシア軍は勝利し、ショルツは後方に下がった。ドイツ軍の西方集団兵力は2個軍団半とロシア軍は予想した。これは後備兵を除けばほぼ的中している。

他の軍団も前進し下図のようにロシア軍は展開した。

そして25日は第2軍は全軍をあげて1日休憩をとった。このため後方との連絡のための通信兵や輜重兵以外は動きがない。

25日のサムソノフの決心

この日夕刻、サムソノフは各軍団に作戦軸の変更を命令した。すなわち北方から西北方への転進である。これはドイツ西方集団を右翼から片翼包囲しようとするものである。

1914年8月25日東プロイセンの情況

普通、行軍途中の転進は簡単ではない。そのうえロシア軍は兵站も混乱していた。ただ一方でドイツ西方集団を無視して前進することができるだろうか?これも簡単ではない。退路を断たれ兵站線を切断される可能性が強いからだ。

とにかくサムソノフは兵力が優勢でありかつドイツ軍は最早積極的に戦う意志はなく、撤退の途次にあると即断した。これはロシア第2軍全滅の端緒につながる誤断だった。

まず単純な前進と包囲作戦ではかなり兵団の運用に差がでる。この時ロシア第2軍のうち最も強力だったのは第15軍団で中央にいた。包囲(包翼)作戦となると重要なのは包翼先端と回転軸である。つまり中央でなく両翼となる。サムソノフの第2軍の場合第1軍団(左翼)と第6軍団(右翼)である。将領は第1軍団が不動であることと、第6軍団の移動速度(当然最も早く動かねばならない)を監視せねばならない。

結論から先に言えばサムソノフが第1軍団と第6軍団にこのような重要な任務を与えることには無理があった。一つは軍団長の無能であり別の一つはロシアの通信と索敵能力がこのような複雑な行動に耐えられないことだ。

ただ余程の知将でなければ、ここで軍を再編したり、あるいは一歩後退させることなどはできない。つまり海戦でいう見敵必勝は、将来はわからないことが前提での格言であり、第1軍団と第6軍団が期待通りの働きをするか、またはしないかは一般に予測不可能である。サムソノフは急遽第2軍司令官に任命されており、各軍団の司令部はともかく連隊の単位となると掌握していたとは言い難い。

またこの運命の25日参謀本部を実質的に指導していたダニロフはウィスチュラ川をも突破できたと仮定してベルリン攻略計画の作成を命じており、本部でも東プロイセンの戦局について楽観視していた。

サムソノフを襲った不運

更にサムソノフにとり不運だった要因がいくつかある。

第一に第1軍団と第23軍団が集中未達であったことだ。実は第23軍団だけ本部がノボゲオルギエウスクにあり、第1軍団を除く各軍団よりワルシャワに近かった。当初、第23軍団を構成する第2師団(ミンギン)のみが第2軍に編入されることになり、その後苦戦を強いられて残りの近衛第3師団も加わる予定にされた。しかしこの師団はついに最後まで決戦方面に到着することができなかった。

そのうえロシアの鉄道は信頼性がいま一歩のためワルシャワまで鉄道でそこから徒歩による行軍という変則的な形となった。これはムラワまでの鉄道が第1軍団によって使用され余裕がなかったためである。それであれば複線化すべきだったという憾みは残るが平時に総動員のためのみに鉄道を敷設することは難しい。ともあれ鉄道プラス徒歩という行軍は慣れない荷物の積み下ろしも加わり、難渋を極めた。そのうえ、ロシア軍の動員方法では当初、予備兵師団は充足されていない。このため1個連隊をムラワまでの側面掩護と鉄道警備を目的として要所に配置せねばならなかった。

結局第23軍団でタンネンベルグ戦に参加できたのは3個連隊にすぎなかった。そして第1軍団もジリンスキーの優柔不断により近衛軍団を配属できず6個連隊のままで終わった。第1軍団と第23軍団が旋回軸の役割を果たす予定だったから、これは敗戦の根本原因となった。当初の理由のわからぬ北西方面軍司令部の混乱のためで、ジリンスキーはこの件でも非難に値する。

ただ集中未達はサムソノフも知っていたことで、不運と言えるかはわからない。

第二にロシア軍の通信手段が劣悪だったことである。この時代の無線機はヒューズ鑽孔無線機とモールス信号機しかなかった。ロシア軍のもったヒューズ無線機は1分間10文字と能力が低かった。

サムソノフは25日の決心の内容について、各軍団に通知する方法をヒューズ無線機に頼った。これは平文と同じことで迂闊だが、モールス信号機による暗号通信も簡単なものでドイツ軍の能力からすれば容易に解読できただろう。また当時無線通信はまだ一般的ではなく、ロシア軍の使用する周波数に同じヒューズ無線機を同調させれば、自動的にラテン・アルファベットで表現される鑽孔テープが打ち出された。

また1分間10文字では複雑な文章を送ることは不可能である。従ってサムソノフの命令は何日何時まで、地名××と地名××の間に進出せよ、との内容に限られた。つまりサムソノフの意図、前進から敵軍へ片翼包囲するは各軍団長に知らせることができなかった。

愚物ブラゴフェシチェンスキー

25日の命令を受け取った各軍団長はひたすら攻勢に出ていた第15軍団を除いて突然の変更にうろたえた。第6軍団ブラゴフェシチェンスキーはそれまでオルテルスブルグからビショフスブルグに向かって縦に師団を前進させていた。つまり第4師団を前方に第16師団を後方に配置していた。ブラゴフェシチェンスキーは宮廷武官で「実戦カン」のようなものが全くない愚物だった。

つまりジリンスキーの当初命令が急行軍をせかしたものだったから、それに迎合したと思われる。このため第4師団と第16師団の間に間隙が生じた。ブラゴフェシチェンスキーはサムソノフの命令の本旨がわからなかったに違いない。すなわち24日の段階で既にビショフスブルグを越え先行しすぎた第4師団に撤収を命ずることなく漫然と放置し、さらに後に続く第16師団も現在位置のままとした。もしサムソノフの意図、片翼包囲を知れば第6軍団は最も長距離を移動せねばならず、とりわけ突っ込みすぎの第4師団への手当ては喫緊の課題だとわかったはずである。

結果としても第4師団はドイツ第17軍団(マッケンゼン)と予備第1軍団(ベロウ)の4倍の敵に26日急襲されることになった。これは25日に移動を開始すれば完全に防げるものだった。そのうえブラゴフェシチェンスキーはドイツ軍接近の情報に接して部隊を命令通りアレンシュタインに向かわせるのではなくオルテルスブルグに逃亡を開始した。

ところがドイツ軍は数で劣るロシア第4師団相手に射撃戦で苦戦し一旦引き砲撃戦に持ち込んだ。第4師団はその時までに劣勢を知り、鉄道が交叉するロトフリース停車場付近で撤退しそこで防衛線を引いた。そしてこれを追撃した第17軍団は攻めあぐみ、むしろ戦線は膠着する形となった。ところがブラゴフェシチェンスキーは形勢不利ばかり頭をめぐらし、これだけ善戦した第4師団に撤退を命じてしまう。

この時ブラゴフェシチェンスキーはオルテルスブルグを出ようとしなかったばかりでなく、サムソノフに偽りの報告を行なった。つまりロトフリース停車場付近で第6軍団は敵の拒止に成功したと報告したのだ。これは事実ではあるが、同時に抵抗を止め、オルテルスブルグに撤退せよと命令したことは隠した。そしてその後をマッケンゼンが追うと、オルステルブルグすら放棄し、国境外に逃亡した。

これにより第6軍団は無傷で残る結果となった。しかし単純に兵を慈しんだことを喜んでは戦争には勝てない。

ブラゴフェシンチェンスキーの誤った報告はサムソノフが誤った判断を下す端緒となった。即ち包囲作戦を打ち破る確かな方法は、包翼の先端を翼から切断し殲滅することである。包囲作戦の失敗はほとんどこの理由による。この場合先端とは第6軍団であり、サムソノフはもし26日中に第6軍団が国境外に逃亡したことを知れば、作戦の継続を断念するか第6軍団に攻勢移転を求めるかの処置を行なっただろう。

クルーエフの混乱

このサムソノフの決心は第13軍団司令官クルーエフをも混乱に陥れた。クルーエフはウィレンブルグ方面から森林を抜けてアレンシュタインに出た。道は狭い林道であり縦隊にならざるを得ない。しかも距離としては最も長距離の行軍を果たした。そしてアレンシュタインはやはり東プロイセンの中では宝石のような都市である。

ここを棄て、西へ向かい第15軍団を支援しろと命令され、素直に納得できるだろうか?しかもサムソノフは通信手段が制約され作戦意図について明らかにできなかった。

クルーエフはもちろん抗命したわけではない。ただ動作は緩慢となり、27日、28日とアレンシュタインに逐次入城させ(始めの命令に従えばそのようになる)そして逐次第15軍団の戦場ホーエンシュタインに出発させた。結果として第13軍団はドイツ軍による包囲作戦が開始された29日まで一戦も交えることがなかった。

これ以外にも第1軍団の不甲斐なさ、第23軍団の鈍重な動きなど批判すべき点はある。ただいずれもサムソノフの決心によってひき起こされた面は否定できない。

サムソノフの決心はなぜ失敗したか

以上のようにロシア軍は決戦方面に30個連隊が到着したに過ぎず、そして効果的に戦闘を行なったのは10個連隊に満たず、大半が第15軍団に属していた。

ところが実際の戦闘でロシア軍は奇襲が達成されなければ善戦しているケースが多い。第15軍団のラーナ・オルラウ、ミューレン湖、第13軍団のヤブロンケンの森、第6軍団のロトフリース停車場のおける戦闘では寡兵でよく大軍に抗している。

このことは何を意味しているのだろうか?
それは指揮系統が寸断されたり、命令が未達であっても各級司令官が独立した決心ができなければ軍は敗れるということだ。

ロシア軍の連隊長はその配下の兵士を戦争が開始されるまで面識がない。ロシアの師団長や旅団長は飾りのポストで作戦計画をたてる権能を有さず作戦参謀も配置されていない。軍団長は中将以上のポストだが年功や宮廷席次で決定され、また作戦について事前に知らされることがない。東プロイセンへの侵攻計画についてペテルブルグの参謀本部で何度も机上演習が試みられたが、それに実際任命された軍団長が参画することはなかった。

サムソノフの決心自体は妥当している。敵の存在により配置を変更することは当然である。ところがそのように機能しないように軍はできていた。これでは帝政における官僚制の固定化や義務教育の普及の遅れに根本原因を求めなければならない。


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