ロシア動員の日本での報道(1914年8月1日;大正3年東京日日新聞)


第1次大戦前、日本は英米と同様に総動員体制になかった。ところが徴兵制は採用していたから、訓練済みの兵士比率はもちろん英米よりも高い。イギリスではそれでも植民地軍は充足させる体制にあったから、職業としての兵士は多く存在しまたテリトリアルと呼ばれる民兵組織およびその訓練のための在郷軍人会組織が存在した。

イギリスのジェントリーは日本の武士階級と異なり温存されていたから、多くの予備士官はそこのなかから補充され、また在郷軍人会の有力なメンバーともなった。日本では専門学校生や大学生から志願者を予備士官(短現)として採用した。この制度は実際上日本ではよく機能した。不完全な徴兵制よりも効果的だったのかもしれない。

そのような事情でヨーロッパの大陸諸国の総動員体制は当時の日本人には理解しにくいものだった。そもそも総動員という言葉が現れるのは第1次大戦以降である。それまでは英語のGeneral Mobilizationを直訳して一般(的)動員と呼んでいた。これでは何だかわからない。

以下はロシア動員についての報道である。部分動員についてだ。

 ロイター電報(31日発)

  • 露国いよいよ戦頭に起ん

露都発電に曰く いまや英国艦隊がいずれもポートランドに帰航せんとするを見て非常なる印象を喚起したるが右は日本の保障と相待ち露国政府がいよいよ戦頭に起つの決心を確証するものたりと

  • 露国各地の動員

露国にては52の地方諸県に於いて動員を行いつつあり

ベルリン電報(30日発)

  • 更に軍事的行動

露国側の否定するにも拘わらず同国政府は一部の動員より更に大なる軍事的行動をなし大軍は汽車及びボルガ河を汽船にて西部国境に急行中なりと伝へらる


  • 調停頓挫 局面進展せず

墺塞事件その後の情報を綜合するに英国外相の提議せる調停案は墺匈国これを喜ばずとの理由の下に独逸の賛同躊躇となり露国の希望たる露墺両国直接交渉の案は是亦墺匈国の容るる処ならざるも関係上数日来行われつつありたる調停運動は一頓挫をきたし外交的交渉は殆ど行詰りの姿となりたるが墺匈国の軍事行動は敏活ならざるも漸次進みつつあるに対し露国は既に4個軍団の動員を行ふ等態度頗る強硬なるものあり 局面の展開如何は測知すべからず 最も危険の状態にありと雖も欧州の如く国際関係複雑なる間に於いて利害関係の頗る重大なる本問題の如くを解決するの容易ならざるは当然のことにして従来の例に関するも常に形勢窮迫して初めて活路を得るの有様なるに考えふるも行詰まりの状態数日の後或いは却って一道の光明を見出すの望なきに非ず 要するにここ両三日の形勢は最も注目に値ひすべしと某外交官は語れり

最後の調停頓挫以下の記事は東京日日新聞に現れた1914年7月危機の唯一の観測記事である。恐ろしいばかりの悪文であることはさておき、外務省からのリークを基にしたものと考えられる。この時日本の本野駐ペテルブルグ大使は、問題解決の渦中におりサゾーノフ外相らと会談を重ねていた。記事の元は本野大使の公電が太宗を占めているとみられその情報を得る立場にあった欧州局長以上の人間から聴取したものだろう。

パレオログ日記

だが見通しは完全にはずれている。

このケースに限らず外務省・マスコミは湾岸戦争に至るまで戦争勃発の予想を違えている。この主因は軍事知識の欠落のためである。上の記事のロシアが4個軍団を動員を行ふは、4個軍の誤りである。すなわちロシア部分動員はオーストリア=ハンガリー向けでガリシアに相対したものだ。4個軍団と4個軍では兵力に4倍の差が生じる。これは予想を立てる上で決定的なミスとなる。

欧州の戦局予想は全て外務省がたてていた。すなわち陸軍省や参謀本部は周辺有事のみを問題にし、精緻な作戦計画をたてるが欧州には関心を示さない。この戦略(戦局への対応)と政略(外交)の分離はすぐの将来、大日本帝国に致命的な打撃を与える。

左は同時に掲載されたドイツ東部国境の要塞概況図である。某外交官が記者に呈示したものだろう。独国大要塞として、ケーニヒスベルグ・グラウデンツ・トルンが挙げられている。これは大きな相違ではない。

ところがロシア側及びオーストリアの防禦設備については誤るか、または記載がない。

ロシアの要塞の位置が間違えている。ウィルバレンは独露国境上の町で要塞ではないが、位置が南にずれている。オストロレンカとロムシャの配置が逆である。またワルシャワ(ウ)付近に3個の要塞(保塁)が見えるが実際はノボゲオルギエウスクとプルツスクの二つでかつ位置が間違えている。

おそらくペテルブルグにいた駐在武官は完全な配置をつかんでいたと思われるが、外務省に伝える必要はないと考えたのだろう。

この互いに情報を融通しない体質が大局を誤らせることに繋がっていく。

そして某外交官はドイツ東部国境を問題にするが、西部国境についてはこの時に至っても問題にしていない。露仏同盟の軍事協定とシュリーフェンプランのいずれかまたは両方を知らなかったのだろう。これは看過できない問題である。すなわちこの外交官は第1次大戦についての国策を決定する枢要にいたことは間違いなく、実際上は日本の意思決定機構の部分であったのだから。


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