ボスの功業
ジーグフリード陣地というのはドイツの若者ならみな知っている名前だ。ジーグフリード線に撤退中、空中戦はもちろん激しかった。我々は敵が、撤退した所を占拠するのは許したわけだが、空中を占拠するのは許すわけにはいかなかった。
ベルケが訓練した追跡飛行隊はイギリス飛行隊の面倒をよくみていた。イギリス隊は制空権争奪の戦いではよくやっていたが、空中機動戦のために、慎重にそれを捨ててもよいと思ったようだ。
フリードリッヒ・カール王子が祖国のために一身を犠牲にしたのはまさにその時だった。
ベルケ追跡飛行隊が敵機捜索中、ボス中尉が空中の決闘でイギリス人を倒したのだった。だその時ボスは、地上に降りざるを得なかった。場所は両塹壕線の中間地点すなわち無人地帯だった。この時まさに我が軍は撤退中だが、敵もまだ占領するに至っていなかった。ときおり英独のパトロール隊が来る程度だった。
イギリスの戦闘機がちょうどその位置に不時着したという訳だ。たぶんイギリス人はこの土地がもうイギリスのものだと思ったのだろう。そしてそれには理由もあった。
ボスの考えは違った。躊躇することなく、イギリス機のそばに着陸した。非常な速度をもって、ボスは機関銃とその他役にたつものを自分の機に運び込んだ。そしてマッチを取り出し機体に火をつけた。たちまち炎につつまれた。イギリス人はあらゆる地点から、ボスの機に殺到したが、一瞬早く機は舞い上がった。ボスはゆっくりとイギリス兵に手を振り微笑んだ。
初めての1日2機撃墜
1917年4月2日は寒さが緩んだ日だった。しかし私の部屋からは、はっきりと響き渡る、連合国の恐ろしいドラム射撃の音が聞こえていた。
まだベッドのなかにいたとき突然従卒が入ってきて叫んだ。「イギリス兵がここに来ています。」まだ眠かったが、窓の外を見るとたしかに、友人たちが、飛行場のうえを舞っていた。ベッドを飛び出すや、すぐ飛行服に着替えた。
リヒトホーフェン飛行中隊
私の愛機の赤い鳥はすでに引き出されていた。すぐに飛行の準備が整うはずだ。上着をつかんで外に出た。
私が最後に飛び立った。僚機はすでに空中にいた。ちょと獲物を逃すのではないかと不安になった。遠くから僚機が戦うのを見ているだけかもしれない。すると突然、でしゃばりな敵機が、私をめがけて急降下してきた。接近するのにまかせ巴戦を開始した。敵は背面飛行をしたりあらゆる技を使ってきた。敵は二人乗り用の追撃機だった。
だがすぐに技量はこちらの方がうえで、逃がしはしないと確信した。巴戦の合間に、我々2機しか戦っていないことがわかった。勝利というものは、冷静で射撃にすぐれそして危機の際、明晰な頭脳を持っている方に従うものだ。短時間のうちに射撃することなく敵を下方に追い詰めることができた。今前線から2kmほど後方にいる。
敵は着陸を余儀なくされる、と考えた。だが間違えていた。突然地面から数ヤードも離れていないところから、水平に脱出を試みた。それはしかし不可能だ。再び攻撃姿勢に転換したが、真下にある村落の家の屋根に衝突するのではないかと恐れるくらいだった。イギリス兵は最後まで抵抗することを止めなかった。最後の瞬間には愛機のエンジンに弾丸が命中したのではないかと思った。しかしそこまでだった。敵は村落の一角に最高速で激突した。
もう出来ることはなにもない。これはとてつもない勇気といえるのかもしれない。敵は最後まで戦った。しかし私の意見では、敵は勇気というより頑固さを示しただけだ。
これは情熱と無分別を分ける一つの例かもしれない。いずれにしても、機体の喪失は免れなかっただろう。だが敵は無分別の代償を命で支払ったのだ。
今朝の赤い機体のできに満足して帰途についた。宿舎に戻ったが、まだ空中にいて戻っていない同志もいた。朝食をとっていたときに再び会ったが、たいへんに驚いていた。32機目の撃墜記録を話していたら、若い少尉は機体に数発被弾したときの情況を話した。会話ははずみ、次の戦闘に備えるのに好都合だった。それから顔を洗いに行ったが、前日は全く洗うひまがなかったことを思い出した。
ベルケ飛行中隊のボス中尉の面会をうけた。ボスは前日23機の撃墜記録を作ったところだった。ボスは記録では私につぐ存在で現在最大のライバルということになる。
ボスの帰るための飛行に途中までついて行くことにした。前線まで寄り道をしたが、突然天気が悪化し、獲物をみつけるのは不可能となった。
眼下には厚い雲がたちこめていた。ボスはこの辺りの地形を知らず、不安になってきたようだ。アラスの上空で弟と出会った。弟は私の中隊に属するが道に迷ったようだ。弟も私たちに加わることになった。もちろん弟は私の機体の色ですぐに私だと判別できたのだ。
突然敵の飛行中隊が現れた。これで33機目の記録だという考えがひらめいた。9機の編隊で、優勢と思ったのかもしれない。イギリス人は一般に自分の陣地の上で戦うのをあまり好まなかった。飛行機の色を変えた方がよいかなという考えが浮かんだが、なんとか好位置につけることができた。飛行機の性能で重要なのがスピードにあることは疑いない。
敵の編隊に接近し、最後尾の機にねらいをつけた。大いなる喜びだったが敵はこの挑戦を受けてきた。そして残りの敵機が遠ざかるのを見てますます喜んだ。これで単機同士の巴戦にもちこめる。
戦いは朝と同じだった。敵もなかなかだった。戦いの仕方を知っていてとくに射撃は正確だった。しかし射撃そのものは予想の範囲を越えることはなかった。
気流によって両機ともドイツ軍陣営上空の方に流された。敵も予想通りの簡単にはすまないと思ったのだろう。突然頭を下げ雲の中に突入した。しかし逃がすような私ではない。
同時に雲に突入し、その下に出た。幸運なことに敵により接近していた。弾丸を発射した。少なくともエンジンに命中したとみえ、白いベンジンの蒸気が一条引くのがみえた。エンジンが止まるまでに着陸しなければならないだろう。
敵は頑固だった。負けを認めようとしなかった。高度は900フィートまで落ちた。朝の敵と同じように守ろうとした。着陸するまで戦った。そして確認するため30フィートまで下がった。敵はどうしたと思う?
機関銃をはずして打ってきたのだ。そして何発か私の機に命中した。
あとでこの事をボスと話したら、地上の敵でも打つ、と言った。実際のところ降伏していないのだから、そうすべきだったかもしれない。敵はすくなくとも射殺されなかった幸運のなかの一人だった。
これで別の章にうつる。全体として他愛もない話である。ここに登場する私=リヒトホーフェン・ボス・ベルケ・リヒトホーフェン弟はいずれもドイツで有名なエースパイロットだった。
リヒトホーフェン
リヒトホーフェンはマンフレッド・フォン・リヒトホーフェン(Manfred von Richthofen)で、1892年に本当に男爵家で生まれた。(イギリスを除くヨーロッパでは爵位をもつ貴族の正当に出産された男子は全て代々爵位を名乗ることが許された。このため、爵位の名乗り自体は珍しいものではない。またvonは貴族の証明だが、爵位をもたずとも許された。実際は一定の年次で将校を務めると許されたので、軍人家系ではもつことが通例だった。このためvonをもち爵位をもたないのはユンカーの代表とも言える。すなわち下級貴族で軍人家系の意味である。) リヒトホーフェンは爵位をもつユンカーだった。
西プロイセンのバールシュタットの家族の所有する領地で生まれた。士官学校卒業後、騎兵将校となり、開戦時は下級将校として西部戦線で斥候任務についていた。1915年5月航空隊勤務を志願認められた。
最初の撃墜記録は1916年9月17日にあげたものである。それ以降記録を80機まで伸ばし、ドイツ国内で英雄となった。またその機体の赤も有名となり、その飛行中隊とともに連合国軍にも知れ渡った。
リヒトホーフェンは敵を迷彩で欺き、敵機をより早く発見するより、威嚇しかつ敵を引きつける方が有利と判断したのだろう。リヒトホーフェンの活躍は1917年度中が最も佳境で、1918年に入ると、ドイツ軍当局はむしろリヒトホーフェンの出撃を抑えるようになった。これは令名があまりに高くなったため、撃墜された場合の国民の戦意の喪失を懸念したものだった。
フォッカーDr−1
しかしリヒトホーフェンはこの当局の方針に抵抗を続けた。1918年4月21日、カナダ人のRAF(イギリス空軍)飛行士、ロイ・ブラウンに撃墜され戦死した。
機体はイギリス軍地区に落ち、イギリス軍は栄誉礼をもって葬った。
ただし撃墜直後から、地上砲火が命中したとの説を地上にいたオーストラリア兵部隊が主張し、現在に於いても論争が続いている。ただロイ・ブラウンが後尾につけ射撃を加えたのは確実であり、その反面身体に命中した弾丸は地上砲火のものとされる。真実は確かめることは至難だが、ロイ・ブラウンが上方から地上近くに追い、オーストリア兵のおそらく重機関銃による射撃が命中したものだろう。ただライフルなどによる第3者による弾丸命中の可能性も棄てきれない。

Gibbons,F., The Red Knight of Germany: Baron von Richthofen,
Germany's Great War Airman, London, 1932
Norman
Franks and H.H. Hauprich(tr.), The Red Air Fighter by Manfred
von Richthofen, London, 1990
デール・ディトラー レッド・バロン 撃墜王最後の日 (訳)南郷 洋一郎 フジ出版社 1978
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