ソ連とドイツの二重スパイ、ゾルゲの日本に与えた最大の影響は、駐日オットードイツ大使らドイツ人経由蒋介石に洩らしたた情報である。蒋はゾルゲ情報により、支那事変開始を決定した形跡がある。
ところが陸海軍は国府軍暗号を解読していた。陸軍内情報の出元は近衛首相周辺であると疑った。近衛ブレーンである尾崎秀実、犬養健、西園寺公一らが疑われた。杉山陸相は近衛に軍事情報を伝えるのを忌避し、私的外交についても憲兵によって取り締まった。近衛は終生、杉山を憎んだが自分の「口の軽さ」も反省すべきだった。
リヒャルト・ゾルゲは1895年ロシアのバクーで生まれた。父はドイツ人石油技師でロシア人の現地妻をもうけ、リヒャルト・ゾルゲはその子である。ゾルゲもまた日本でスパイ活動中に現地妻をもうけている。ただこの時は重婚だった。また大伯父はアメリカに移民、そこで共産主義クラブの役員をして第1インターナショナルアメリカ支部の創設者だった。またマルクス・エンゲルスとも知り合いと言う。この大伯父はアメリカ社会に受け入れられることなく、貧窮のうち死亡した。
リヒャルト ゾルゲ
高校生で第1次大戦に遭遇、志願してキンダーモルト(無垢なる子供の死)軍団の近衛予備第3野砲連隊に入隊した。第1次イープル戦に参加した。1914年11月イープル北方ディクスムーデで歴史に残る激戦に遭遇し軽傷を負った。この野砲連隊はフランス軍の機銃ポストを突破した際全滅に近い被害を受けた。
ゾルゲが生還できたのは幸運と言うしかない。その後、ベルリン大学に入学し医学を志す。しかし再度召集となり、ベルリン予備第53擲弾兵連隊に入隊した。その後この連隊は東部戦線のリンシンゲン集団に属してプリペット沼沢地正面にいた。第1次ナロッチ湖の戦いでまた軽傷を負う。
その後ガリシアで受けた負傷は重傷で、足を切断しかけたと言う。このため生涯跛足をひいた。1916年11月ベルリン大学に復学した。1918年キール大学に移動。そこで水兵の反乱に参加した。1919年ハンブルグ大学に移動。そこで政治経済学博士号を得る。同年12月ドイツ共産党に入党。党員番号878番で設立直後とわかる。
その後党の専属として活動。1924年フランクフルトでソ連の秘密党員と出会う。モスクワ行きを勧められ、そのまま帰化ソ連市民権を得た。そしてソ連共産党に入党。党員番号49927番。1927年コミンテルン所属(共産党国際部)となり、デンマーク、スェーデンで活躍。1929年フランクフルトへ行く。日本でのスパイ活動のカバーを得るためだった。
この頃赤軍第4部との関係が生じたらしい。フランクフルトツァイトゥングの特派員の肩書きを得る。この新聞は現在でもあるが、ヒトラーの最も有名な伝記作家でのちにアメリカに亡命したコンラート・ハイデンやスメドレーも属していた。多分、共産党に浸透されていたのだろう。
1930年1月上海に渡航。この頃赤軍第4部ベルジンの配下だった。身分はエージェントで、日本軍の活動の監視が主たる任務だった。この頃ソ連のスパイ網は多方面に亘っているが、KGBが最も有力でスターリンの支持を得ていた。赤軍第4部は主として軍事関係の分析が主任務だった。ゾルゲはなんらかの理由で情報部の本線からはずされたのだろう。このベルジンも1937年に粛清された。
上海ではフランス租界のジョフル街に居を構えた。ここはロシア人街で白系ロシア人の経営する商店が軒を連ねていた。アメリカ人ジャーナリスト、スメドレー(ニューデイーラーだが中国共産党と親しかった。)の紹介で朝日新聞記者尾崎秀実と知りあう。これは外国人記者クラブでの出来事らしい。第1次上海事変に遭遇、日本軍の装備を通報。
1932年ウラジオ経由でモスクワに帰る。ドイツに立ち寄りゲッペルスと面会したと言う。
ゾルゲスパイ事件は非常に後味の悪いものがある。以上のようにゾルゲは共産党またはコミンテルンの政治運動関係ではなく軍事情報に限定されたスパイだった。当然ゾルゲはソ連市民として納得したのかもしれないが、一方でドイツにも有害ではない。
日独関係は1936年11月の防共協定成立までは友好的でなかった。なぜならば中国軍(国民)はドイツ国防軍の軍事顧問団により指導されていた。そして装備はソ連から賄われていたから、日本は独ソ双方の敵だった。ゾルゲは日本人を同じ人間とみなしておらず軽蔑していたようだ。ゾルゲは最後まで独ソだけによる国際主義共産運動のみが世界救済できるものと確信しており、それの賛辞が死の直前の言葉だった。最後まで内陸ヨーロッパ人だったのだろう。またゾルゲは大アジア主義の日本人から、「全ての日本人はアジアで最も優れている民族だと確信している。」と聞かされたらしく、不満を述べている。
この状態で、共産主義運動に組織的に関与せず金銭でなく日本側に協力者が現れることは普通は難しい。
尾崎秀実(1901−1944)東大卒。『朝日新聞』記者。
退社後近衛内閣嘱託。ゾルゲ事件により処刑された。細川隆元(『朝日新聞』政治部長)は「尾崎は朝日新聞ではぼくの2年下で入社し、ぼくら若い連中で読書会というのをやっておったんです。彼はどちらかというと左がかっておったが、日本を革命しようというマルキシズムの信念からゾルゲと接触したわけではない。彼がゾルゲと仲良くなったのは、上海でだろうが、女遊びの金が欲しかったためだ。……私はテレビで二度、彼は金欲しさにゾルゲとくっついたと言ったが、彼を尊敬している弟さんからも、何の抗議もない」と酷評した。
1933年再度日本に来航。この時尾崎は意図を知っていたかは別にして通報者となった。1935年モスクワに帰る。ベルジンと打合せ。1935年三度び来航。帝国ホテルに居を構え、その後麻布永坂町に下宿した。ゾルゲはドイツの雑誌にもよく寄稿しておりソ連からの手当ても加わり生活資金は潤沢だった。
この頃、ドイツ大使館に勤務していたエルビン・ウィケッルトは「ゾルゲは大言壮語するのが好きだった。…無私の共産党幹部のつましい灰色の生活をしようとしたことは1度もなかった。彼が果たして無階級社会で幸せを感じられたか大きな疑問だ。…女嫌いではなかった。かなりもてたことも事実だ。彼はチャンスを逃すような男ではなかった。」と書き残しており、その面は東京で目だったらしい。
女性関係は関係者の発言に従うしかないが、それでも色魔と呼ぶに相応しい乱脈ぶりである。有名なのは中国共産党を賛美するあのスメドレーとの関係があったことである。スメドレーは自分の体重の2倍はある巨漢(女)であり本当に魅力を感じたのだろうか。また当時東京にいたドイツ人女性全部50名のうち半数と関係があったと言われ、大使夫人を筆頭に上のほうからの夫人とできていたと言う。ウィッケルトの証言は、摘発後のドイツ人社会の混乱を指している。
また小さな家屋が立ち並ぶ東京の町並みと夏の気候は嗜好にあわなかったようだ。
ゾルゲはソ連共産党との関係で少なからず困難に突き当たったことは確実である。それに加えて1929年頃から開始された血なまぐさい粛清の情報を得ていたはずだ。またゾルゲは疑いなくドイツのヒトラー運動や日本の軍事独裁に批判的だった。しかしその同じ人間がなぜスターリンに奉仕できたのだろうか。スターリンによりイスラム教徒地区の人口は激減し沿海州にいた朝鮮人は中央アジアに強制移住させられた。そしてあれだけ極東ロシアにいた中国人は第2次大戦勃発時には姿を消した。それがゾルゲが最も愛した国のした事だった。
1941年、逮捕。1944年処刑。最後の言葉は「し残した事はない。」だった。
こうして20世紀で最も成功したスパイは刑場の露と消え、ゾルゲには1967年、ソ連邦英雄の称号が与えられた。そして皮肉なことに生涯を通じて憎んだ日本にいまなお墓を残す。
この事件で特異なのはゾルゲではない。この種の共産主義者によるスパイ事件(国際主義を信じる関係からソ連はスパイを得やすかった。イギリスのキルビー事件が代表的だろう。)はこれ以前も以降も全世界で多発した。ただし有能なスパイは戦間期、共産主義運動に影響を受けた人物に限られ、1960年代には急速に退潮に向かった。このこととソ連の軍事技術の後退とは関係があるのかもしれない。
またナチス(NSDAP)党というのはザルのような組織で誰でも入党できた。ゾルゲも1933年NSDAPに入党した。党員番号2751466番。ドイツの防諜の弱さは定評のある所。とくにワイマール期に警察が機能せず、ゾルゲのように明らかな大物でもほとんどチェックを受けなかった。
これはアメリカも同様でゾルゲの与党の宮城与徳はアメリカ共産党員で日本に公然と入国した。アメリカの対ソ連の防諜関係が整備されるのは原爆技術を内報したとされるローゼンバーグ事件以降である。ドイツは日本からのゾルゲ逮捕の通報を受け、外務省(駐日大使オットーはゾルゲの友人で信任状を昭和天皇に提出する時ゾルゲを帯同させた。同じ第1次大戦の戦傷者で親近感が湧いたのではないか、と言う説がある。)はむしろ日本側に抗議した。
オットーはもともとヒトラー政敵のシュライヒャーの副官だった。ところが外務次官ワイツゼッカー(本人は過激な反スラブ・反ユダヤ主義者。息子は戦後西ドイツの大統領で戦後処理を例にあげ一人前に日本を批判しているが、父親の反スラブが反日本になっただけのようにも見える。)はヒトラーに巧みに取入り、その与党のオットーを駐日大使までにした。ヒトラーはこの時分リッペントロップのバランサーとしてワイツゼッカーに期待したらしい。この事件でワイツゼッカーの果たした役割ははっきりしないが、一貫して親ソ連に近い存在であり何か気づいていた可能性は否定できない。
更に1937年のスターリン大粛清(始め、軍人のうちの親独人物に標的をあてた。)とヒトラー(国防軍の親ソ人脈を嫌った。)は何か関係があるともみられ、この頃の独ソ軍事部門の諜報活動が協力しているようにも見える。ベルジンらも親ドイツで粛清されている。
ドイツ外務省は日本人が取引材料のためナチス党員を拘束したと言い張った。このあたりにドイツ第三帝国の独善的体質が出ている。やはり同盟国として信頼できない体質、すなわち善意がないのだろう。しかし、ヒムラーはゲシュタポを総動員してゾルゲの背後関係を調査、1920年代の活動歴が暴かれた。この事件により外相のリッペントロップの勢威は落ちたと言う。
ゾルゲスパイ事件の特異性はむしろ日本側の協力者だ。尾崎はソ連または日本共産党に入党していない。そこがひどく特異だ。党の運動や金銭ではなく国際主義を実行できる(自国情報を他国に漏洩する。)人間は少ない。
尾崎自身の死の直前での手紙では、友人への愛を優先させたと言う。だが、友人への愛を祖国への愛や家族への愛より優先させたというのは分かりにくい。一方ゾルゲは何よりも社会主義祖国への愛を優先させた。こういった愛の感覚と別に人間は義務の感覚ももつ。国家機密を漏洩しないことは普通の国民にとり義務ではないだろうか。たとえその考えが国家主義的であっても。
あるいは日本の新聞によくある取材原への不当なまでの追従が本質かもしれない。
またゾルゲ情報によりスターリンが日本の南進を知り、シベリア狙撃兵軍団を東送しモスクワ前面でヒトラーを阻止したとされるが過大評価だろう。実際にはスターリンは極東に大戦中40個師団を継続して配置していた。これは関東軍のいずれの時期をも上回る。
また、ゾルゲは国際共産主義運動に献身的でその政治的信条でこのスパイ活動を行ったとする見方が主流だが本当だろうか。あるいは、ドイツあるいはソ連への国家主義的側面の方が強かったのではないか。またスパイと言うのものは自分の情報がどう使われたかには興味を示さないのが普通で、通常はその対価のみに注目する。ゾルゲもその例に洩れないだろう。要するに金銭と肉欲が主流だったのだ。
新しい教科書を作る会という運動がある。従来マルクス主義に影響されていた日本の義務教育の教科書を、より重要な史実にまたは連続性のある史実(後世に影響のあった事件など)を多く記載すること自体は意義がある。
また検定否認論(昔のマルクス主義者または社会民主主義者に多い)が存在するが、行政ができる範囲で史実のチェックを行うことはある程度必要だろう。
義務教育で史実として神話を教えたり、事実を誤認して史実とすることはやはり修正されなければならない。
ところが新しい教科書を作る会として出版されている本の中にいかにも重大な事実誤認が多い。これはどうしたことだろうか。とくにマルクス主義者の意図的な事実の捏造をそのまま史実としている。ゾルゲ事件の項目でゾルゲはコミンテルンから派遣された、と書いている。これは近時のロシアに情報公開で赤軍第4部に属していたことは明白な事実だ。日本のマルクス主義者がゾルゲの雇い先が赤軍では尾崎は日本の軍事機密を漏洩したことになり単純な対敵通報となってしまい具合が悪く、共産主義の大義に従ったのだと主張したかっただけである。
また、ゾルゲが尾崎を通して近衛に南進論を勧め、それが日本の太平洋戦争開始の契機の一部になったとも言う。これも尾崎と近衛を買いかぶりすぎだろう。1941年では軍事作戦に文民は見解を聞くことは出来ても、左右することはできない状態だった。
ゾルゲの問題で大きなものは、その道徳的退廃である。これは同時期一緒にいたドイツ人がみな指摘している。つまり情報獲得のためには、あらゆる手段をためらった風がない。ドイツ情報を得るために日本の情報を売ったことがあるはずだ。こういったことは取り上げない。
ゾルゲの最後の言葉「やり残した事はない」、と言うのは金銭と女性関係が含まれているのではないか。いずれにしても新しい教科書を作ろうとすれば今までの歪められた史実を正すことが重要で非マルクス主義で研究している人々につきかかる事ではあるまい。
日本の右翼思想家が、論壇でなぜマルクス主義者に戦後敗れたのか、それは日本のマルクス主義者の学問レベルが極めて高くまた語学などの基礎的学力にも優れたからだ。それを簡単に論破できると考えるのは甘いといわざるを得ない。
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Deakin, F.W.and Storry, G.R., The Case of Richad Sorge,
London, 1966
セルゲイ・ゴリャコフ/ウラジミー・パニゾフスキー 「ゾルゲ」世界を変えた男 寺谷弘壬訳 パシフィカ 1980
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