旧軍は陸軍大学の教科書として「統帥要綱」及びその解説として「統帥参考」を発行した。統帥要綱は軍事機密とされ、終戦時全て焼却された。ただ1970年代に入り、「天皇と統帥」の項目を除いて復刻された。除かれた項目は当時からみても、また今日から見ても相当に悪質な内容だったのだろう。
統帥要綱と統帥参考は遅くとも1928年頃までに皇道派の鈴木率道により成立したと考えられる。ただ名前に反し皇道派の面々は国家主義であるが、生きている天皇はないがしろにする傾向があり、要綱のなかに軍隊の忠誠の関係も含めて天皇に触れた箇所はない。
皇道派の多くは第1次大戦中観戦武官として、フランスまたはロシアに派遣されていた。このためドイツとオーストリア関係の情報取得は戦後となった。ただこの両国とも開戦責任が問われたため、事実については脚色する傾向があった。参考では多くの戦史上の実例があげられているが、その殆どは第1次大戦のものである。これは、1928年と言う時点からはやむを得ない。
ただ不思議なことに、大半は1914年度中の出来事に限定されている。すなわち、マルヌ会戦・タンネンベルグ包囲殲滅戦・ガリシア緒戦である。これは、1915年以降の戦いの戦例を実際に装備や編制(例えば毒ガス)に活かしたため高度の軍機とし公開しなかったのだろう。
そして、その中でガリシア緒戦は非常なスペースを与えられている。しかも必ずしも正鵠を得ていないものが数多くある。これはなぜだろうか?多少例をあげてみよう。
23:統帥者の意思は、外に対するのと内に対するのとを問わず、完全に自主自由を発揮せざるべからず。(統帥者の意思は誰にも拘束されない。)
殊に出鱈目な条項を引いているのではないかと誤解されるかもしれないが、統帥参考は全編このように読んで明らかに軍人官僚の傲慢さと思われるものに満ちている。これは方面軍司令官または陸軍参謀総長は誰にも拘束されず、責任も持たないと表明しているものだ。
これ程までに思い上がった文書はまず他国にも見られない。ドイツ帝国では各級司令官は直接、皇帝に拘束され方面軍司令官は皇帝の代理である参謀総長に拘束された。当然それを参考にした明治憲法でも全軍の司令官である天皇とその補佐である参謀総長または軍令部総長に拘束される。当然ドイツでは皇帝とその代理は全て人事も掌握した。
この項の例として、1914年のガリシアにおけるオーストリア軍は、司令官(参謀総長)のコンラートが自由意志を拘束されたため、作戦に失敗した、と述べる。理由は説明されていない。しかしオーストリア公式戦記は鉄道官吏の無能が原因としており、旧軍もそれを踏襲したのだろう。真実はコンラートが指示をコロコロ変えたせいだが。
ガリシア緒戦の作戦計画
27:人は各々意思の自由を有し、その立場を異にするをもって、統帥者と被統帥者の意思は一致せざること少なからず。かくの如き場合にありては、統帥は一貫せる方針を乱しやすく、不徹底に陥り、多くの錯誤を生ずるおそれありて、統帥の危機ここに胚胎すること多し。
統帥者は断乎として自己の意思を強要し、その実行を厳重に監視するか、あるいは快く、許し得べき範囲内において被統帥者の意思を尊重し、大なる雅量をもってその遂行を援助するを要す。
それでは互いに自由な意思をもつ各級司令官や参謀の意見が対立したらどうなるのか?この項では恐るべき事に、上級司令官が譲るべき、つまり雅量を示すべきだとしている。あくまで下級を説得せねばならず、矛盾した命令を出すことはできないのだ。この辺に旧軍の退廃と日本の官僚制の宿痾が現れている。
とくに日独露の制度だと、司令官は参謀を選ぶことができない。これではアクの強い参謀がいると、それに引きずられてしまう。むしろ司令官が政治任命である英米では、参謀も選べるから、この種の司令部内の対立は起きない。しかしドイツでも対立は起きたが日本程極端なものはない。日本式では人事考課でしか部下を掣肘できないことになる。
鈴木率道
この統帥参考の作者鈴木率道は、国全体を考えることができない役人ボケした男だった。
この項の例として次のものをあげる。「1914年8月のレンベルグの会戦において、コンラートは第3軍をもって東方よりするロシア軍の攻勢を阻止し、その間に主力をもって北方に攻勢をとる考えであったが、第3軍司令官ブルーダーマンの切望により、その攻勢を認めたため、結局優勢なるロシア軍に対し、全正面に離心的攻勢をとる結果に陥って、失敗した。」
これではブルーダーマンの要求を雅量をもって容れたコンラートを弁護しているのか、責任を問うているのかわからない。しかし2倍の大軍に単騎で向かおうした暴虎馮河の類を止められない参謀総長とは何だろうか?
またレンベルグは無血開城で、会戦はなく1914年8月のツロタリパの戦いの誤用だろう。レンベルグは9月3日に失陥している。鈴木はフランス語系統の人間でドイツ語は読めず、おそらくオーストリア公式戦記(私家版は1922年、誤りが多い)に偏したのだろう。
コンラートとブルーダーマンの暴走
40:正面作戦は通常大なる成果を獲得するに適せず。故に、外線又は内線作戦を構成するにあたりては、彼我の連絡線、実力、敵軍の特性に鑑み、勉めてその独特の長所を発揮する如く考案をたつるを可とす。外線作戦を計画するにあたりては、つねに先制主導権を拡張し、強者の法則を敵に強制して、速やかに決戦を促す如くし、内線作戦の計画においては、機動の自由を確保し、自ら戦機を作成して、適切にこれを捕捉利用する如く、着意するを要す。
全編このような悪文である。外線作戦は自己の勢力圏外で軍を動かすことに他ならない。すなわち攻勢を意図している。これに対抗するのが内戦作戦だが、当然攻勢移転(逆襲)をかけるのが目的だから、これも潜在的には攻勢を意図している。旧軍は包囲作戦しか教科書上認めない。正面作戦とはその反語である。
また攻勢を取る方がイニシアチブ(先制主導権)をとるのは当たり前だから、この項は何を言いたいのかよくわからない。だんだん作戦の具体論になると、よくわからなくなるのが、この統帥参考の特色でもある。
ガリシアの関係では、珍しくロシア側に立った例が引かれている。「1914年8月中旬、ロシア南西正面軍(南西軍と同じ;ロシア人はFrontと呼んだため直訳したのだろう。)においても戦略展開に大修正を加えようという意見が起こった。オーストリア軍が予想に反し、サン河西方地域に有力な兵団を集結しているのを確認したからである。しかし。参謀総長(参謀長が正しい)アレクセエフは敵情如何にかかわらず現在の戦略展開の態勢をもって第一会戦を行うと主張し、決心を動揺させなかったため、混乱を起こすことがなかった。」
この見解は独特のもので類書に例を見ない。普通アレクセイエフは北方集団の作戦を主導し、大本営のヤヌシュケビッチ=ダニロフが東方よりする第3軍と第8軍に重点を置いたという見方が主流である。ただ途中でアレクセイエフが全体作戦の面倒も見出しており、この話には何かの真実がある。アレクセイエフは参謀長で司令官のイワノフと仲が悪く、前項の参考ではないが、相矛盾する命令を各軍団に出していた。この辺りは余り知られていない。おそらくコンラート話と異なり、日本の観戦武官が直接聴取したものがソースなのだろう。
またイワノフはニコライ二世に信任が厚かったがそれだけで、このような大軍を率いる器量は初めからない。すなわちアレクセイエフが主導した作戦であることは確実である。このアレクセイエフの考えは後述したい。
46:統帥の冷静慎重と秩序ある節度とは、兵団の大なるに従い、いよいよ必要なり。
大兵団の指揮官は軽率に重大なる決心をなすことを特に厳戒するとともに、決心の変更は最も慎重なる考慮のもとに行わざるべからず。
決心の内容は状況により異なるも、大兵団の統帥における大決心は「何時何処に決戦を求むるかまたは決戦を避くるか」の一に帰すべし。つねにこの大主眼を明確にするを要す。
大兵団統帥に関する決心は作戦の転機に適応すべきものにして、小刻みに行うべきものにあらず。これに反し、小部隊指揮に関する決心は比較的小刻みに行わるるを通常とす。
統帥を決心(Decision:判断)に要約すれば、このような論旨になるのかもしれない。指揮官の判断は「いつ、どこで」に要約されること、そのうちでも「いつ」に集約されることは各国の軍事教範にあることだが、これにはあくまでも戦争開始の決断は含まれないことに注意すべきだ。
作戦上必要だからといって軍人官僚が中立国と勝手に戦争を始めることを容認する国は日・独を除いて近世史上存在しない。またドイツより日本の方が程度が甚だしい。
ガリシアの次の例が参考にされている。
「1914年9月、オーストリアの内戦作戦が危殆に瀕し、グロデック・ラワルスカ両会戦の運命も測り知れないようになったとき、参謀総長コンラートはオーストリアの運命を決する重大なときであると判断し、9月10日、自ら総司令官殿下及び総司令部付皇太子を奉じ、作戦主任参謀をともなって、主決戦方面たるレンベルグ付近の戦場に至り、親しく戦場の実情を視察し、さらにこの方面の責任者たる第3軍司令官と意見を交換してから、同日夕、プセルミスル(レンベルグ西方90Km)の総司令部に帰還し、翌11日に至り、初めて退却命令を下達した。大軍統帥の荘重的確を期した用意は見事である。」
そして、コンラートにドイツ軍を指揮させたいとの声がドイツ参謀本部に湧き上がった、と講談のようなことを言う。このコンラートの芝居がかった行動は事実発生した。フリードリッヒ大公とカール皇太子を連れて、レンベルグ(既に占領されていた。)ラワルスカ(当日会戦が発生した。)グロデックではなく、サン川支流のウェレスチーチャ川の防衛線を9月10日視察しただけである。しかもコンラートが前線近くまで訪れたのはこれが初めてで最後だった。
レンベルグの失陥
ラワルスカで勝利したロシア軍は熱心にオーストリア軍を追撃したわけではない。これは多分に、第3軍司令官のルツスキーの性格によるものだ。これはオーストリア兵にとり好運だった。そして戦いが敗北に終わったことも明白だった。すなわち退却命令を出そうが出すまいがオーストリア軍は既に全軍が壊走状態に陥っていた。
これがなぜ退却命令の好判断とされるのか不明である。あるいは戦場に赴こうとしない昭和天皇にたいする大逆的意図があるのだろうか。また軍司令官の判断をあらゆる事(君主の判断も含む)に優先させるべき、という思想は楠正成の湊川の戦いも参考に出されている。
これは京都防衛を主張した後醍醐天皇が軍事的には愚かであり、京都を捨てても山地での防衛戦にかけるべきだとした、楠の判断が正しかったとするものだ。中世の国内紛争の場合、勝利した側、勢いがある側に武士が大量に従軍したがることがあるようで、天皇の判断が正しかったのか楠木が正しかったのか、現在でもIFをつけねばならず判断は難しい。
後醍醐天皇と楠の判断の中に、武士がどちらに味方をするかが含まれており純(?)軍事的なものだけでない。軍事は敵・味方の識別と自軍の量・装備・士気において政治と関係し、本質的に切り離せない。根底には軍事的なことに天皇を含む公家は口出しすべきでない、政党人や選挙で選ばれた人々は意見を言うな、と言う見解があるのだろう。
また近世の国家間の戦いでは裏切りなど生じない。また国内紛争を除く国家間の戦いで民間人は極めて無力である。すなわち、中世の事跡や中国の古典、孫子などは本質的なところで参考にならない。にもかかわらず楠のケースをあげるのは、天皇の命令より自分達の判断が優先すると言う思想があるからだろう。
旧軍のコンラート賛美はどこに原因があるのか難しい。ドイツ軍事学への賞賛もあるかもしれない。しかし老帝に予防戦争を説き、否決されるとスジを通した態度をとり、また若年の新皇帝に反旗を翻した経歴に日本の官僚は幾ばくかの痛快さを感じたのだろう。
89:集中の手段は時代とともに変化す。
ナポレオン時代までの集中は主として行軍によりて行われ、多大の日時を費して緩慢に進行せり。故に主将はこの間敵情を得るに従い、逐次集中の新部署を行う余裕を有したり。
その後、運輸交通機関の発達は集中を迅速にし、敵情を正確に知り得る時期には、集中はすでに大いに進捗し、又は完了するにいたる。さらに、機械力による輸送は技術的、組織的なるをもって、硬直にして柔軟性に乏しく、状況に変化ありたる場合においても、最初定めたる方向に集中を続行せざるべからざること多し。
「1914年夏、オーストリア軍が最初セルビア戦線に集中輸送を開始した第2軍を、中途でガリチェン戦場に転送しようとしたが、実行できず、計画どおり、いったんセルビア戦線に輸送し終わった後、改めて反転させた。第2軍は両戦場のいずれにも使用できるように計画してあったにもかかわらず、集中輸送の変更はついにできなかったのである。」
以上のように例をあげて説明している。なお、50.以降は技術的な問題となる。
オーストリア総動員の失敗
このオーストリア総動員の失敗は、この国固有の問題である。機械力による輸送が硬直性または柔軟性の欠如をもたらすとは思えない。この機械力を鉄道と置き換えたとしてもである。このように旧軍の教科書的見方は(中央同盟諸国について)調査不足と無批判の従属を示す。だがこのような技術的なところは軽視していたようにも思える。ドイツの軍事学について教科書では確かに尊敬あたはざる記述を行っているが、これも顕教にすぎず、自ら信念としているものは違い、実際やっていることも違う。
たとえば関特演で動員した北方向け装備の師団をドシドシ南方転用するなど、陸軍は柔軟性一杯だった。日本陸軍の集中は外線作戦を目論む作戦軍であれば船舶を使うのは自明だから、このような欧州陸軍国の教訓は無意味である。その程度のことはもちろん承知で対策を考えていた。
ここは昭和陸軍を理解するうえで重要なポイントになっている。すなわち、顕教の部分は独断専行の是認、統帥権の絶対を主張しているが、密教の部分では相当緻密な第1次大戦の分析を行っており、それ自体は第一級のものであり、そこから演繹された結論を信念としている。ただ不立文字で活字とはならない。
すなわちこれはあくまで教科書とその例にすぎず実際には欧州へ出た観戦武官が真実の姿を陸大学生に伝えたのだろう。
それでも、こういった優等生官僚的やり方によって創造性や企業家精神をもつことはできない。
第1次大戦で4年間塹壕生活をおくりショウペンハウエルのみを座右の銘としていたボヘミアの伍長ことヒトラーを上回ることができたかである。もちろんこれは陸戦に限定した話である。
135:内線作戦軍の会戦準備において、特に考慮すべきは、戦略機動の自由を確保するとともに、外線における敵の戦略機動の整調を打破して、その連繋を破壊するため、速やかに作戦要点の占領とその編成防備に努め、主力を機動態勢に配置し、かつ、我が作戦枢軸の確保と、運輸、交通、連絡の施設整備のため必要なる手段を講じ、要すれば所要兵団の二重使用を準備するにあり。
例として次があげられる。
「1914年夏のオーストリア軍のガリチェンにおける内線作戦は、レンベルグを失ったことにより致命的打撃を受けた。」
この項の例は46.とやや矛盾する。ここは実はフランス陸軍教則とほぼ同様である。すなわちイイトコ取りをしていることがわかる。都市はたとえ防禦施設がなくとも交通の中心であり、それをムザムザ明渡すのは、抵抗が不可能と認識されたときで、成功が疑わしい作戦のため失っては意味がない。これは結果論ではない。
136.有限の兵力を最も経済的に使用し、所望の時期と場所とにおいて優勢を発揮せんがためには、すでに会戦準備において、兵力の二重使用を要することにあり。総兵数において必ずしも優勢を期し得ざる作戦軍において特に然り。
例として次があげられる。
「1914年8月ガリチェン方面のオーストリア軍も二重使用の目的をもってヨセフ・フェルディナンド兵団を編成し、後に東方正面に転用する計画をたてたが、状況の不明、内線作戦軍の特殊心理等のため、運用に錯誤を生じ、戦機に投ずることができなかった。」
この例は戦況を分析すればすぐわかる過誤に基づいている。ヨセフ・フェルディナンド兵団(第14軍団)は元々第3軍(ブルーダーマン)に属していたが、コマロウ会戦を予想し臨時に第4軍(アウフェンブルグ)と共同作戦を実施することになった。この決定は8月23日であり、すぐさま14軍団は北上した。
ところが8月25日、ブルダーマンは露第3軍(ルツスキー)と露第8軍(ブルシロフ)のレンベルグの接近を聞いて、コンラートの承諾を得て、ツロタリパ川に飛び出した。これが27.のケースである。敗北してレンベルグに逃げ帰ったが、それは8月28日の出来事である。コマロウ会戦は8月26日であるから、この時戻すことは可能だった。
しかしコンラートは46.のケースで起きた燦然と輝く芸術的作戦のため、レンベルグを意図的に放棄した。そして第14軍団は露第5軍への抑えとして戦場に放置され全滅の悲運に見舞われた。コンラートは状況をよく知っていたし、一方の内線軍、第3軍・第2軍はグロデックで善戦した。要するにコンラートの愚かな作戦がなければ戦線をレンベルグ前面で維持することは可能だったのだ。
143:内線に作戦する軍は機に応じて会戦機動をを律せざるべからざるをもって、外線作戦のそれに比し。機動比較的小刻みになるを免れず。然れども、一度戦機を発見するや、脱兎の如く敵に殺到し敵よりも早く決戦方面に優勢なる兵力を集結し、疾風迅雷の勢いをもって決戦を断行せざるべからず。すなわち、内線作戦においては、時の利用は決定的価値を有するものなることを銘心するを要す。
内線作戦軍は、主決戦方面においては、なし得るかぎり殲滅的部署をとること必要にして、状況許すかぎり、戦場包囲、繞回等を断行するに努めざるべからず。
「コマロウ会戦におけるオーストリア軍の統帥には多くの欠陥があり、とくにロシア第5軍を撃退するのに1週間を費やし、しかも、これに徹底的損害を与えることができなかったために、後日の禍根を残した。」
コマロウの戦い
とまたガリシア緒戦の例をあげる。ただ、ここに書かれていることは首肯できるものである。ただ原因は内線作戦軍は敵よりも早く動けることに起因している。これは第1次大戦の最大の戦訓である。すなわち、通常自国内の鉄道を利用できる内線作戦軍は敵の予想しない場所に早期に出現でき決戦を強いることになる。
ただ、この現象を理論化するに当たり、旧来のドイツ軍事学と折衷する方法を選んだようだ。フランス軍事学でこれは戦略予備の使用法であって、包囲や突破という戦術は結果としての索敵情報分析にすぎない。つまり側面をあけている敵軍の前進があれば、側面または後方に回り込み退路をたてばよいので、問題はむしろ戦略予備をいかに抽出するか、戦機をいかに捉えるかにある。
これは基本的にドイツ軍事学には欠けている側面でもある。
ところがコマロウ会戦のオーストリア軍は実はロシア領内で戦っており、また平押しに押している状況だった。つまり普通では外線作戦である。ところがコンラートは第3軍から第14軍団(ヨゼフ・フェルディナンド大公)を抽出し右翼で繞回運動をとらせた。つまり第14軍団は戦略予備として機能している。この面をさして内線作戦と言っているのだろう。
また例示していないが、この時ワルシャワから露第9軍を招致し内線作戦を成功させたのは実はロシア軍である。これはアレクセイエフの好判断だ。いずれにしても、統帥参考の書き方は単純なドイツ追随ではない。
しかし、視点を変えて、もしサムソノフの露第2軍がヒンデンブルグの独第8軍に包囲殲滅されず、つまり前進を急がずかつ露第9軍の援兵を得ることができれば、東プロイセンを占領できた公算が強い。
つまり獲得するものが東プロイセンという不動産か、ガリシア緒戦でロシア軍が得たオーストリア常備軍の破砕とどちらがロシアにとり勝っていたとなる。簡単に結論は出ない。また決戦方面に戦略予備を相対的に遅くなってもより決定的な時期に投入できた方が勝ちだと言うことにもなる。
このように統帥参考は随所にドイツ軍事学を基礎にしながらも、第1次大戦の戦訓を巧みにとりいれている。軍事学の文書に残されかつ実際の戦闘指揮経験がない者たちが作ったもののなかでは秀逸である。ただ、それは政治面を含まない軍事技術上のことである。
統帥参考・綱領は不思議な書物で、現在でも旧軍関係者により盲目的に信仰されている。
参考は全部で320項からなるが、当時陸大の受験者はこれを暗記させられたと言う。愚かなことである。またその通過者が、陸軍を牛耳ったのは紛れもない事実である。海大はもっと甚だしい。
これだけでも、科挙を思い出させるが日本陸軍の方は古代中国や他国と異なり、忠誠対象を問題にしていない。宗教という要素を除いても、君主や大統領またはその象徴の国旗への直接の忠誠を捨象しては、国民や国家を防衛しそれを代表する人の命令に従うという軍の根本的な責務に疎くなるのは当然だろう。
また、とくに左派の人々は国軍、すなわち非営利の団体かつ国家予算で賄われていれば、国民に害を与えることに躊躇しないことは考えにくいと思うかもしれない。この書物はそういった信念をもってはいけない事の証明でもある。
一般に国家や国民に忠誠意識をもたない、公益法人・非営利団体は極めて危険な組織である。すこし前の郵政がなにをしていたか思い出して欲しい。郵便局員は赤茶けた紙で包んで紐をかけ、マジックか墨で宛名を書かねば小包を受け付けないと言い、受け付けた後、地べたにわざと打ちつけるような取り扱いをして平然としていたではないか。国民に忠誠をもたないで試験で選ばれた役人・官僚とはそういったものだ。
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統帥綱領 大橋武夫 建帛社 1982
Generalstab der Oesterreich, Ergaenzungsheft, Vienna,
1933
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