1910年予算は別名「人民予算」(People's Budget)と呼ばれた。アスキス内閣の下、ロイド=ジョージ蔵相(Chancellor
of Exchequer)とチャーチル商工相(President of Board of Trade)が進めた。
この予算でイギリスは国家予算として初めて社会保障費を計上した。それまでに恐ろしいことに社会保障といった考え方はなかった。1911年のイギリス(イングランドとウェールズの合計)人口は、3600万人であったが、1910年からの10年間に150万人が移住した。国民が国外に脱出する希望をもつ国は決してよい国ではない。
1907年暮れに株式暴落があり、1908年からの失業率は、以前の2倍にまで上っていた。アスキスは「飢餓と貧困からの脱出」を唱え、まず増税をセットとして訴えた。
増税
- 所得税5%から6%。超過税として3000ポンドを超える年収については3%追加。
- タバコ・ウィスキー・揮発油への新たな物品税。
- 土地売却へのキャピタル・ゲイン課税。売却金への1%課税または実現利益の20%。リースした場合の終了時までの収益にたいして10%課税。
- 鉱区税10%
- 土地相続税の増額
社会保障
1908年に老齢年金がすでに開始されていた。内容は70歳以上の老齢者にたいして週5シリングが支給されるというものであった。5シリングとは1/4ポンドに相当した(月8ドル程度。従って16円程度である。明治日本における巡査の初任給が18円)。当時のイギリスの平均的労働者の収入の1/4に相当した。
ただし、週10シリング以上の収入がある者は除外された。また救貧法の対象となっている人間は除外された。救貧法の原則は貧窮者を救貧院に収容することであり、財政は地方自治体が負担した。受給者の大半は女性であったとされ、10万以上が受給資格を得て、郵便局で受け取ることになった。政府の負担見積もりは600万ポンドであったが、じっさいには1300万ポンドの負担が生じた。
この老齢年金には拠出制度がなかったため、政府負担が大きくなった。1909年建艦論争のときドレッドノート1隻の予算が300万ポンドであったことを考慮すれば小さい数字ではなかった。
予算の裏づけによって、1911年施行を目標として国民保険法(National Insurance Act)も上程された。内容は失業保険と健康保険の二つであり、雇用者(雇い主)拠出と被雇用者拠出半々を柱とした。この点はビスマルクの社会保険を真似たものであった。
国民保険が実施されたときのポスター
メイドが「私の体に切手を貼らねばいけませんか」と尋ね、主人が卒倒している。拠出金の納付方法は、郵便局にいき納付書にゴム印を捺して(スタンプして)もらうことだった。メイド業は指定業種に入るのか、スタンプ(複数形の場合、切手という意味があった)とは何かわからないので、皮肉ったものである。
失業保険はチャーチルが決定したもので、強制・職業安定所(就労意志を確かめるものとされた)・無条件1年の支給を特徴とした。政府補助は初めから予定されていた。この内容は現行の日本の雇用保険よりも、職安役人の裁量排除と支給年限が長い(現在のイギリスでは3年)の点で、はるかに優れている。対象は循環的失業が予想される業種の250万人であった。
健康保険はロイド=ジョージが熱心だったもので、対象も1200万人の全被雇用者(家族や雇い主は含まれない)であり、国営・強制であることが特徴であった。健康保険医の指定や毎週雇い主が給与天引きの上納付する必要があるなど煩雑な事務が発生した。アスキス政府は健康保険の方が政府負担が少ないとみたようであった。
ただし運営に当っては予想外の出来事が起きた。政府が予想していたのは、すでに民間保険会社の生命保険(これに医療給付が含まれていた)加入者150万人との競合だけであった。
ところが反発は農業事業主と労働者から起きた。都会の労働者に比べて、農業労働者はより健康であり、年に何回も行かない病院での支払いの保障など必要ないというのであった。次は医者からで、治療の水準が法律案にあった「再就労できるまでの病気回復」では、何をいっているのかわからない、という批判であった。
ドイツや日本に導入された組合健保より公権力の介入という点で、社会主義的色彩が強いのと、医者の観点から治療法が縛られてしまうという致命的欠陥があった。医療は標準化が難しい。
上院の拒否
自由党は、新自由主義をもって人民予算可決を上院に働きかけたが、1909年11月、拒否権を行使した。これによって国体(constitution)問題が発生した。採決は350対75で、「地方から見たことのない時代遅れの上院議員」(Backwoodsmen)が集まったという。
ロイド=ジョージは「上院がバルフォア氏の手先になりはてた」と発言し、アスキスは「国体上の危機」であると上院を非難した。下院は予算や徴税手段についての立法に拒否権はないとした。
アスキスは1910年1月、下院を解散し総選挙を実施した。
1910年総選挙
結果は保守党が大きく議席を伸ばし、自由党は減らした。1906年選挙における反動とみなされ、自由党の勝利で終わった。
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自由党 |
274 |
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保守党 |
272 |
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アイルランド国民党 |
82 |
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労働党 |
40 |
選挙技術上では、与党が自分の得意とする問題で議会を解散するという手段を用いたことが特筆できる。また保守党の議席奪還はイングランドが中心であって、イギリスの地域対立が鮮明化した。
アスキスは選挙後内閣をあまり変えなかった。イギリスは第一次大戦をこの議会で飛び込むことになり、また次の総選挙は、1918年「クーポン」選挙であった。
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