オトラント堰襲撃戦

オトラント堰襲撃戦

オトラント堰襲撃戦

オトラント堰襲撃戦

オトラント堰襲撃戦

オトラント堰とはイタリーが参戦直後からオーストリアUボートのアドリア海から地中海への進出を阻止する目的でオトラント海峡に作られた堰のことでイタリーは終戦まで1917年の冬を除きその維持に成功した。

堰は最大幅が40マイルあり漁船や小船を大索とネットでつなぎ、要所に機雷を設置したものである。この維持のため爆雷を装備した常時130隻の掃海艇と30隻のモーターボートがパトロールを担当していた。ただ海底までは到達していないので、潜水艦を完璧に食い止めることはできなかった。オーストリア海軍は、荒天となる冬季を除いて1915年2月から終戦まで延べ25回以上にわたり、この堰を破壊するため出撃した。

そのうち大きな交戦となったのは1917年5月の海戦でこれを特別にオトラント海峡海戦と呼ぶ。また1918年6月、オーストリアの弩級戦艦セント・イシュトバーンがイタリーの水雷艇に撃沈されたのも特筆される事件だろう。

セントイシュトバーンの喪失

オトラント海峡海戦

1917年5月14/15日、オーストリア第1巡洋戦隊司令ホルティは今回こそはオトラント堰を徹底的に破壊しようと出撃を決意した。

第1巡洋戦隊は3隻の新鋭軽巡洋艦、ノバラ・ヘルゴランド・サイダを主力とし2隻の駆逐艦および数隻の水雷艇を従えていた。艦隊の基地はダルマシア最南端のカッタロにあり、二重帝国にとりオトラント堰に最も近くに位置していた。

ホルティ(Miklos Horthy de Nagybanya)

カッタロを出港し堰に向かう途中、弾薬船と護衛の駆逐艦を発見し両方とも撃沈した。午前3時半堰に到着、索をつなぐ小艦艇への攻撃を開始した。わずか2時間の間に30隻の係留施設と14隻の漁船を沈めた。これはホルティの目標とする戦果に十分だった。そして5時半帰途についた。

しかし、ビリンデシにはこのオーストリア第1巡洋戦隊を目の仇とする英伊仏合同艦隊が控えていた。この合同艦隊はイギリス巡洋艦ダートマス・ブリストル及び4隻のイタリー駆逐艦および砲艦アキラと小艦艇から構成されていた。イギリスの2隻はオーストリアの巡洋艦よりサイズが大きく従って主砲も優っていた。

7月15日7時15分両艦隊は出会った。合同艦隊は砲戦で勝利できるはずだった。だがまず出会い頭にアキラが撃沈された。そして合同艦隊が追いつく形の同航戦となったがイタリーの駆逐艦2隻は蒸気があがらず落伍した。そしてブリストルも理由は不明だがスピードが十分出なかった。結局追撃することができたのはダートマスと駆逐艦の2隻に過ぎなかった。

そしてダートマスの砲弾がノバラに命中し、艦は動きを止めた。しかしこの時点でポラを出撃したオーストリア主力艦隊が現れ、交戦は打ち切られた。しかもダートマスは帰途U25に雷撃され大破した。そして随伴した駆逐艦は触雷し沈没した。

この戦い以降イタリー海軍は堰の夜間パトロールの休止を余儀なくされた。秋に入ると荒天が続き、オトラント堰は係留する船舶が失われ放棄された。結果秋から冬にかけ最も地中海でUボートの跳梁が激しくなった。帝国海軍はこの時駆逐艦を派遣し地中海警備に当たっていた。この時期が被害も含め最も試練が大きかったとされる。1918年1月だけで連合国の商船54隻が失われた。連合国がオトラント堰の復旧を決めたのは1918年2月3日である。

ホルティは砲撃戦の最中砲弾の破片が当たり重傷を負った。しかしこのオーストリア海軍水上艦の大勝利は国民の士気を高めホルティは英雄視されるに至った。そしてあまりにも令名が高くなり1918年3月には多くの提督を退け、少将の身分で二重帝国海軍総司令官の地位に抜擢された。


ノバラ


この海戦における被弾情況図で直撃弾45発、死者14名重傷者24名と左に書かれている。
なお命中弾は艦橋に集中しており、相当の接近戦だったとわかる。

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