ドイツ大本営
ドイツ帝国憲法では開戦後、陸海軍の統帥は大元帥たる皇帝の大権と定められていた。
大元帥の任務執行機関として、陸軍にたいしてはプロイセン野戦軍参謀総長、海軍にたいしてはドイツ海軍軍令部総長が存在する。陸海軍の共同統帥にかかわる事項は、参謀総長の意見が優先する。
皇帝は戦時に野戦軍のために大本営(Oberste Herresleitung OHL)を設置し、参謀総長に皇帝の名をもって作戦命令を発する権限を与えた。
ただし内政・外交・軍政には及ばない。このことは小モルトケ、ファルケンハインの時代は守られていた。ヒンデンブルグ・ルーデンドルフに至って大本営が内政に関与するに至ったといえる。一つにはウィルヘルム二世が大本営のみに依存したことが大きい。
オーストリアには一方でK.u.K.Armee-Oberkommandoという最高統帥部があったが、ヒンデンブルグ登場まで共同作戦が順調だったとは言えない。実際にはブルシロフ攻勢によりオーストリア陸軍が事実上崩壊した時、ドイツ大本営に権能が集約されてしまったと言ってよい。
他の同盟国トルコとブルガリアとの関係も良好といえない。1918年9月ブルガリアのフェルディナンド国王は作戦についてルーデンドルフと打ち合わせざるを得ず、連合国のサロニカ攻勢で援軍を頼みルーデンドルフに口汚く断られたというのが好例だろう。トルコのエンベルも派遣されたゼークトと良好ではなかったと言われる。またトルコに派遣された将官は自動的に星が一つあがるのが慣例とされ、このことがトルコの軍人を傷つけたともいう。
ベルギーのアルベール国王はベルギー軍と隣接するBEFの各級司令官と仲がよく、戦後に至っても交友が続いたといわれ、また国王であるが司令官として同等に振舞った。こうしてみると同盟国同士の連携は連合国の方が上だったようだ。どこかにドイツ軍人が上下意識を持ちこむところがあったのだろう。
同盟国のブルガリアとトルコの戦意喪失が1918年9月起き、中央同盟諸国の統帥の欠陥が破局を招いたと言えなくもない。
大本営の組織は簡素で、参謀総長のもとに以下の課長が補佐するだけである。
(人事は1914・8−1916.9)
作戦課長 タッペン大佐
政務課長 ドンメス大佐−バルテルウェルフェル大佐
人事・庶務課長 ファベック中佐−ティショウイッツ中佐
通信課長 ヘンチュ中佐−ラウハ中佐
諜報課長 ニコライ少佐
兵站総監(参謀次長)シュタイン中将−フォイツレッツ少将−ホーエンボルン少将−ローリングホーフェン中将
兵站総監参謀長 ツォルネル少将
野戦経理長官 ショーレル少将
野戦弾薬長官 ジーゲル中将
航空軍参謀長兼司令官 トムゼン少佐
野戦鉄道長官 グレーナー大佐
歩兵将官 ラウテル大将
技術及び工兵将官 クラーエル大将
野戦衛生長官 シェルニング博士
このように目的は組織として作戦のみに集中することにある。いわば参謀本部の原型である総司令官の野戦軍の運用を補佐するといった性格が色濃くでている。
平時の作戦計画は戦略に近いが、戦時となれば戦略にもとづいて軍を配置することが主たる任務で、これであれば戦争遂行上の権限は絶大であるが、各級野戦軍司令官の判断が決定的で何も組織として参謀本部が必要なのかという疑問も生じる。ドイツのように野戦軍の参謀長に相当の権限委譲がなされている場合、不必要ではないかという印象がある。ベルリンの片隅で皇帝と宰相の判断の補佐をしていれば十分なのではないか。第2次大戦では皇帝がヒトラーに代わったがそうなった。
もっとも戦争責任で皇帝との間にワンクッション置くことに意義があったのかもしれない。また戦略(東か西か、どの地点での攻勢か)などが決まればあとは各軍の調整が最大任務となる。そして各軍のうえに機関を設置すると問題が確実に生じる。
1915年のゴルリッツ突破戦の際の東部軍(ヒンデンブルグ−ルーデンドルフ)とOHLの対立が典型例だろう。第2次大戦では日本を除いて各国の参謀本部は軍政本部の下に置かれ、更に軍政本部自体が政治家の指導に完全に服する形となった。君主制の崩壊が背景にあるのかもしれないが、軍人に戦略を任せると失敗に陥りやすいという反省もあるのだろう。
Tappen, Gen. G., Jusqu'a la Marne en 1914 im Documents
allemands sur la bataille de la Marne,(tr.) Paris, 1930
Bauer, M., Der Grosse Krieg in Feld und Heimat, Tuebingen,
1921
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