第2次南京事件
1913年、国民党第2革命軍が惨憺たる敗北を喫すると、袁世凱政府の将軍だった張勲の軍隊が南京に乱入し虐殺、強姦、略奪をほしいままにした。事件は1913年8月31日から始まり、その後1ヶ月以上続き数千人におよぶ死者がでた。
このなかで日本人商店も襲われ、少なくとも10数名が殺害された。これら商店は日章旗を掲げたにもかかわらず、襲撃をうけたため日本国内の世論は激昂した。
これにたいし、外相の牧野伸顕は、
「日本の商人が、日章旗を掲げて、支那人と違うことを示しながら惨殺されたのは、日本に対してもいかにも無法だが、日露戦争当時、支那人が日章旗を用いて難をさけた前例があり、暴兵は二度おなじ手にだまされまいとしたのかも知れないから、幾分は諒恕すべき点がある。」
と談話を出した。これは何度読んでも訳がわからぬ談話だが、外務大臣として無法は認めたのだろう。とすれば諒恕したところで、対策は講じられなければならない。やはり即刻、公開の方法をとって袁世凱政府に民間人死者にたいする賠償を要求すべきではないか。
牧野伸顕
ところが松井事務次官は次の説明を行った。
「日本人に対する虐殺は、日本人であるから殺されたのかどうかは明確でない。この事件のために陸軍が増兵するとか、示威を行うとかは、外務省の関知しないことだ。」
ここでは下僚の分際で、外相が一旦認めたことを勝手に否定し、あまつさえ関知しない陸軍の統帥事項に言及するという、役人根性丸出しの責任逃れを始めた。
この次に省内一の支那通、阿部守太郎政務局長は収まらない世論に反撃した。
「今度の事件は、それほど重大には考えていない。日本政府に直ちに問責のための軍を派遣すべしという論は、早計である。」
重大に考えると問責のために軍を派遣するのだろうか。本質はアメリカでアメリカ軍人に日本の民間人が殺されたのと変わりはない。通常の国際法にもとづいた処理をすればよいのだ。ところが話しが大陸での事件となると、何故か支那通が現れ、違うルールの適用を要求する。
南京事件(第2次)の外交的決着
これは日中国交回復以降の現在にもあてはまるように見える。大陸の中国人にビザを大量に発行した以降の日本国内の治安悪化をどう考えたらよいのか。なぜ観光客誘致を中国相手のみに図るのか。貿易収支は一貫して日本の赤字であり中国から輸入されるもので日本が絶対に必要とするものはないではないか。そして中国国内には日本のコピー商品が氾濫し外務省に取り締まりを要求しても中国語の勉強に忙しいと言われるばかりだ。
外務省の省益優先外交は他省庁との連繋を難しくさせる。明治の元勲は年老い、若い試験優等生は国益・国民益を理解せず、省内の小手先でしのごうとする。世界平和については考えが及ばない。そして他省庁とくに陸海軍と疎遠な関係となった。
支那通はこの時点で大陸での治安確保が日本単独での軍事手段によるしかないという前提で判断をしていた。ヨーロッパ外交派の牧野らはあるいは英米仏との協調が得策と思っていたのかもしれないが。
ところが国内にも孫文派(統一派)を支持する勢力があり、しかも奇妙なことに同時に超国家主義者でもあった。彼等は国民のなかで少数であったが、以降テロ・買収などの手段により勢力を拡大し、外交官や参謀将校にも影響力をもった。そして大アジア主義者に成長して行く。
幣原喜重郎の中国複数心臓論(第3次南京事件)
9月5日、阿部政務局長は岡田満(18歳)と宮本千代吉(22歳)の二人の下手人によって刀剣をもって暗殺された。
阿部政務局長暗殺事件
暴徒は外務省に抗議した。この暴徒は黒竜会などが組織しており、とても自然発生したとは言えない。もちろ反西欧の意識や大アジア主義の影響もあったのだろう。ただ中国大陸への派兵を要求しているが、外務大臣に派兵提案権があったかどうかそれが疑問である。
外交と軍事の極端な分離が早くも現れた。本来はこのような小さい戦争(居留民保護のための派兵)に即応できる体制があれば良いのだが、帝国陸軍は、部分動員し奉勅命令がなければ一切動けない。つまり大きい戦争のためのみ用意されていた。第1次大戦中、海軍陸戦隊が整備されたがこれとて動かすことは容易ではない。つまり首相が現役軍人または影響力を残す予備役軍人でなければ内閣が軍に作戦発動を要求できないという変則状態に陥った。そして、この事態に誰も気づかなかった。
例外は外国からの要請である。これとても第3次南京事件で外務省は自ら崩してしまった。
外務省はこの本質的なこと、即ち戦争と外交は不可分だと言う説明を怠り軍事問題について理解することなく1945年まで自分の殻に閉じこもった。
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南京事件の外交的決着
阿部政務局長暗殺事件