二重政府は成立するか
吉野作造は、1922年(大正11年)2月、『東京朝日新聞』に「帷幄上奏論」を発表した。
「国民は多年帷幄上奏をもって、いわゆる二重政府なる日本独特の政治的疾患の根源となし、これによって専横を恣にする軍閥の跋扈を憎んでいた。―中略―
陸海軍大臣は一種特別の地位を保ち、参謀本部海軍軍令部と相連なって軍事に関する専門機関を形づくり、全く内閣の牽制の外にある。国防用兵のことは国務大臣としての陸海軍大臣の輔弼を経たといえればそれで憲法上の要件を具備したわけだが、輔弼は各大臣の連帯責任とし、一般政府の権限に包含せねばならぬという政治的要求からすれば即ち軍事はいわゆる政府各大臣の輔弼の外にあるといってもいい訳になる。
換言すれば輔弼によらざるものがあるゆえに、人民が制度の上で凡ての政治的行動に与ることができない訳になる。政府の輔弼以外に、別個の国権発動の源泉を認めることになるから、いわゆる二重政府の非難も起こる。
この論文は、大岡育造(衆議院議長、明治前期でもっとも新聞社会面を賑わせた花井お梅事件[待合を営む「毒婦」花井お梅が明治20年、雇い人峯吉を殺害した事件]の弁護を引きうけ、人権派弁護士であった)の「明治憲法下では帷幄上奏なるものがあり、総理大臣もこれに関与できず、随意に国庫負担を増加させることができるとすれば、列強は日本の平和主義を疑うであろう」という議会における質問に触発されたとされる。
統帥権をめぐる議論は吉野作造が「二重政府」批判、すなわち参謀本部と文民政府の二つが日本にあると論難したことから始まる。吉野の批判は明治憲法の法理を理解せず、単なるジャーナリスト的批判を与えただけである。
ただし、この誤った議論が軍人に「二重政府」が本当に存在すると思わせた。昭和軍人の暴走=政治干与はこのマスコミの無責任な言論から生じたともいえるのである。
そもそも軍隊とは、政府の保持がなければ存在できない。国軍とは国法によって規制され国費によって賄われ、国民が信頼する国民軍である。元来、国軍は行政府の一部であって、政府と分離すれば、立ち行かなくなる。
陸海軍が国政3権に介入したり、支配しようとすれば、じっさいに実行した軍人が「政治家」になるだけであって、他の行政・司法・議会について責任をもつしかなくなる。
昭和軍人が統帥権の独立=二重政府を叫ぶことが、究極的に外交や議会を支配することにつながったことは、この結果であった。手段はクーデターによるか「サーベルをがちゃつかせる」(永田鉄山)によるしかなかった。つまり、平時における統帥権の独立は明治憲法の法理からの逸脱であった。
明治憲法下の統帥権独立は、法理上、戦時に限られた
帝国憲法(明治憲法)第11条
「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」
第12条
「天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム」
以上が戦前猛威を振るったとされる「統帥権」について憲法条項の全てである。ただし、後述の通り、第12条は統帥権について述べたものではない。
これではいわゆる統帥部(参謀本部・軍令部)がどのように天皇を補佐するのかは明文化されていない。これは国務各大臣が天皇を輔弼することが明文で示されているのに比べ憲法上の扱いが低い感は免れない。
この憲法11条の解釈は「軍令部・参謀本部は帷幄の中(有事における軍事作戦上のこと)にあって陛下の大権に参画するもので、軍令部・参謀本部の意見は政府はただ参考として重要視すればいいのであって、何らの決定権はない」と美濃部達吉は西園寺の求めに応じ回答している。
つまり平時における編制・常備兵額を軍令部・参謀本部が決定に参画できる権能を有することはない。そして、憲法11条と12条は直接関係がない。
憲法第12条はあくまでも内閣が議会と離れて、編制および常備兵額を定めることができるとしたものだ。これは当然のことでもし軍令部・参謀本部が常備兵額(艦隊の構成)などを決定することができれば予算についても自ら決めることができ議会の権能は失われてしまう。つまり憲法を停止すると同義である。このような乱暴な議論はドイツ・オーストリアなど立憲君主制を標榜する国家でも生じることはなかった。憲法12条がなぜ明治憲法に入ったかと言えば、予算が否決されたさいに天皇の個人財産により支出することで兵力を一時的にせよ維持するという考えがあったようだ。この項目は他国の憲法にはあまりないと思われる。
ロンドン軍縮会議に伴う統帥権干犯問題は、直接には法務官僚の平沼騏一郎が権力欲から海軍に迎合し表に出たものだが、理論的には北一輝ら社会主義者と官僚・軍官僚がこの当然の法理をネジ負げた。驚くべきことに議会でも政友会総裁の鈴木喜三郎が義弟の鳩山一郎と組んで、平沼や軍令部に迎合した。鳩山という人物は金銭にも汚く、育ちがよい家庭を作れたとは思えない。
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それでは各種政令等ではどうだろうか。
軍令参謀本部条例では第2条が関係する。
「参謀総長ハ陸軍大将若シクハ陸軍中将ヲ以テ親補シ帷幄ノ軍務ニ参画シ国防及用兵ニ関スル計画ヲ掌リ参謀本部ヲ統轄ス」
これによれば天皇に意見を表明しまたその命令を受けることができるのは参謀総長に限定される。参謀総長はこの権能を通して実際の統帥を実行するのが普通である。ドイツ(第二帝政)では参謀総長は参謀本部と野戦軍すべての人事を総覧し、作戦計画も参謀総長の名前で命令される。ところが日本では人事は陸軍省(大臣・教育総監)が掌握し、戦時の作戦計画とりわけ戦闘序列の発令は天皇の命令(勅令)によるものとされた。
これでは参謀総長の権限は著しく限定されたものとなる(参謀総長の統帥上の命令も天皇から了解を得た動員・開進計画の範囲を越えると奉勅命令「勅命にもとづいた参謀総長の命令」が必要だった。ただ作戦計画は野戦軍司令官が命令するのが建前である。そして動員・開進計画は陸軍予備経費を越えると臨時予算となり議会の承認も必要である。すなわち戦前の軍事行動は参謀総長が独走したものではなく、必ず議会の承認があったことを忘れてはならない。実際参謀総長や参謀本部次長が好戦的であった形跡はあまりない。そして衆議院は男子のみに限定された普通選挙が昭和以降の選挙では実施されていた)。
更に内閣官制では第7条が関係する。
「事の軍機軍令ニ係ワリ奏上スルモノハ天皇ノ旨ニヨリ之ヲ内閣ニ下付セラルルノ件ヲ除ク外陸軍大臣海軍大臣ヨリ内閣総理大臣ニ報告スヘシ」
悪文で何をいいたいのかよくわからない。意図的にそうしたのだろう。これの解釈は戦時における作戦は参謀総長が天皇に直接報告することがあるが、それ以外は陸軍大臣を通して首相に直ちに報告し、また戦時の作戦についても天皇への報告後直ちに首相に報告する意味だとされる。
この解釈を条文から推定できるのは相当に役所言葉に精通するか、またはこの条項を利用して何か企むものしかいないだろう。ただこの規定に先立つ太政官達内閣職権からはこのようにしか解釈できない。
すなわち参謀総長は陸軍大臣を通じて戦時でも作戦を首相に報告せねばならないのだ。ところが参謀本部は自分の職掌のみを考え作戦遂行に不利のなる意見を首相から言われるのを避け、また首相は陸相や外相すら指導できない状態に陥っていた。すなわち首相が内閣官制にもとづき断乎として陸相に作戦を知らせるよう要求すれば可能だった。つまり戦時の統帥権の独立すら日本には完全には存在していなかった。
ロンドン条約に端を発した統帥権干犯問題は北一輝の造語自体の強さから出たものである。加藤寛治、末次信正の主張は常備兵額(=艦隊)は内閣と独立して軍令部長が決定すべきものだ、というもので、当時の法理全般の解釈とは異なり、当時の言論界でも受け入れられなかった。
そして、陸軍大学の教科書である『統帥参考』や『統帥綱領』の中の統帥権独立は軍令で決められた解釈を越えるものであって、これ自体も異常の説である。そもそも、この二つは軍事機密とされ陸大卒業生や受験生にしか読まれない性格のもので、周知を目的とする法令とは異なる。また素直に『統帥参考』、『統帥綱領』を信じれば天皇の命令にすら従う必要がなくなる。
全体として統帥権の解釈については、軍令や内閣官制の漢字から来る異様な響き(統帥・軍機・軍令・帷幄など)と曖昧さが、単純な混乱を招いたにすぎず、内閣が断乎として法制上の連続性を維持すれば回避できたと思われる。
俗流統帥論
統帥権は戦時における作戦の秘匿から生じた法理であるにもかかわらず、統帥部強いては軍参謀部、師団参謀部が内閣または上級司令部と独立して軍事作戦を計画・実行できると俗流軍人が思い始めたのは満州事変がきっかけである。
それまでは、政治が統帥に屈することはまずなかった。1928年4月、第二次山東出兵が発動されたが、田中義一首相は第一次山東出兵が空振りに終わったため及び腰であり、4月19日、天津軍のうち3個中隊(小泉大隊)だけ派遣した。ところが済南情勢はにわかに悪化し、第6師団全部を派遣しても追いつかない形勢となった。この急変をうけて、陸軍内で会議がもたれた(出席者:陸相白川義則、次官畑英太郎、参謀総長鈴木荘六、参謀次長南次郎、作戦部長荒木貞夫)。
この会議での出兵強硬論者は荒木貞夫であった。だが、畑は荒木に向かって「君は二言目には統帥、統帥というが、だいたい政治の前には統帥もヘチマもないではないか」と政治の優位を説いた。これは当然であろう。これにたいし荒木は「あなたも軍人ではないか。すでに軍事参議官も集まって、軍としての出兵を決定したのに、政府の反対で、これが蹂躙されてよいのか、こんなことをしていると、憲法の軽視となり、その波及するところ、ついに不測の事態をおこすであろう」と畑に食って掛かった。
このとき、統帥部はこのように内閣に弱かったのである。
だが、張作霖爆殺事件、満州事変(1931年)と進むと、独断専行も統帥権と関係があるように論じられた。いわば緊急避難行為をもって、クーデターが合理化されるようになったのである。そして、大阪ではゴーストップ事件(1933年6月)というような軍刑法(軍律)に関連する事件までもが、統帥権と関係づけられて論じられた。
ゴーストップ事件
軍事問題について陸軍に全てを任せる首相、有事法制に熱心さを欠いた議会がむしろ問題で、憲法の条項や陸軍の体質より、軍事問題から逃げ回ろうとする社会そのものが問われるべきだろう。簡単にいえば、軍事作戦では法制と離れて司令官が独断専行せざるを得ない。
事前作戦計画でその任務を与えられていないとしても、友軍や自国の民間人が攻撃され全滅の危機にあるのをみて野戦軍司令官が放置することはいかなる角度からも許されない。つまり、時には事前の計画に反する行動を野戦軍司令官はとる必要がある。原始的には統帥権独立とは軍事作戦でしばしば起こるこういった緊急避難措置に対する免責規定にすぎず、そこから軍事作戦を内閣に報告しなくてよい、とする法理は出てこない。
東條英機の統帥権についての述懐
内閣法制局は、この俗流統帥論を否定することができず、太平洋戦争勃発のさいは、「戦争開始」について軍令参謀本部長が提案した。東條英機や近衛文麿が俗流統帥論を信じていたうえ、下僚も法体系を認識しながら、満州事変に染まり万能感にとりつかれた年代を説得できなかった。東條英機は、俗流統帥論によって発生した「統帥二元」にかえって苦しめられることになった。
俗流統帥権は、「軍事作戦を秘匿する」という本来の「統帥権独立」からの逸脱であった。この見解は吉野作造を淵源とするが、さらに発展させると美濃部達吉の論にいきつく。
元老の西園寺公望から解説を求められ、美濃部はこの明治憲法第十一条について次のように説明した。
「軍令部・参謀本部は帷幄の中(有事における軍事作戦中)にあって陛下の大権に参画するもので、軍令部・参謀本部の意見を政府はただ参考として重要視すればいいのであって、何らの決定権はない」
戦後になるとこの解説をもって統帥権独立論は成立しないかのようにとられることが多い。天皇機関説はともかくとして、美濃部の「大権=参考にすればよい説」は誤りではないだろうか?
美濃部の大権説に従うと無数の大権ができてしまう。曰く「統帥権」「軍政権」「教育権」「外交権」「財政権」であり、政府の各省・各局ごとにできてしまう。統帥権について憲法で一条を設けていることは、やはり他の「大権」とは違う意味があるのではないか。これが「作戦の秘匿」であろう。
官僚の任務分掌とは、自らの「組織」(局・課)の受け持ち範囲について決めるにすぎないにもかかわらず、「大権」論によって、組織のトップが自身の進退も含めて決定できるかのような錯覚を与えたのである。
荒木貞夫による「真崎教育総監辞任拒否論」や外務官僚による「外交大権論」はその誤りの直接の反映である。
俗流統帥権独立論の帰結
明治憲法の法体系では、統帥権の独立は存在しない。ところが、陸軍省部軍人は、統制派も皇道派も統帥権独立は存在し、二重政府論、すなわち平時においても内閣の決定に従わない軍令参謀本部の存在を標榜した。
そのうちでも陸軍大学を卒業した参謀将校(天保銭組)は、「専門家集団のみが国家の運命を左右する軍事を指導できる」と理由付け、参謀本部のみが難しい軍事に関与すべきと結論づけた。当然、参謀本部は内閣や司法、議会の干渉を受けない。
昭和5年、陸軍省の山脇正隆大佐は『統帥権について』という論文を書き「統帥の問題は戦争を基礎に考えねばならない。戦争は元来勝利の獲得をもって、先決唯一の目的とするものであって、統帥の良否は直ちに国家の興亡を決定する」と論じた。
これにたいして、2・26青年将校に代表される無天軍人は、軍人勅諭から敷衍される「上官の命令は天皇陛下の命令と思え」から来る現場の日本人的な「マトマリ意識」、すなわち部下に突撃を命令するさいの「命をオレに預けてくれ」の心情を重視した。「部隊をまとめる指揮官が優秀である」との「体育会的結合」がなにより重要であると発想する。
上官の命令そのものが神聖であり、その命令は部下の心情(例えば、農村の青年の辛苦)を慮らねばならず、さらにその上の「天皇陛下の命令」や「参謀本部の命令」「天保銭組の命令」は、自分と部下の心情に沿わねば無効と考える。
天保銭組=参謀将校の「専門家集団は干渉を受けない」論にしても、現実の戦争ではなく、将来の戦争に備えなければならないとすれば、平時における軍部独裁を合理化することになる。
統制派も皇道派も俗流統帥権独立論では一致しており、陸軍は内閣に従わないか、あるいはクーデターのよって陸軍独裁に突き進むことになった。
橘川学『嵐と戦う哲将荒木』荒木貞夫将軍伝記編纂刊行会 1955
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