1903年6月10日(この時セルビアはグレゴリオ暦を採用せず、ロシアを含むギリシャ正教の国々と同様にユリウス暦を採用していた。ユリウス暦では5月28日)、セルビアの首都ベオグラードで軍事クーデターが発生した。
この事件の背景は1900年7月の国王アレクサンダー・オブレノビッチとドラガ・マシーンの結婚式にさかのぼる。この結婚はドラガが再婚であることを除けば、国民が歓迎しなかったわけではない。そしてその年12月王妃が妊娠していると発表された。国民が喜んだことも言うまでもない。ところが、翌年3月その懐妊発表が突然取り消された。国民の間では、王妃が国王を欺くためこのようなデマを流したと信じられた。ことの真相は現在も不明である。
暗殺された国王アレクサンダー・オブレノビッチと王妃ドラガ
この事件があってすぐさまクーデターを企画したのはアピス(のちブラックハンド首領)ことドラグディン・ディミトリエビッチ中尉である。遅くとも1901年夏には同志を糾合する活動を開始した。
7人が集まり、9月、10月と2回国王の暗殺を計画したが、国王が現れないなどして失敗した。この陰謀加担者はこの段階で、オブレノビッチ家を廃しカラジョルジェ家のピーターを国王として迎えることを決めていた。
一方アレクサンダー国王は結婚後従来の守旧的政策を改め、急進派の政治家を恩赦・出獄させ急進党内閣の設立を容認した。ところが前国王の時代から冷え切っていた軍部との関係改善は簡単に行かなかった。実際歩兵の装備は劣悪でまた将校には常に数ヶ月の給与が未払いのままだった。
1902年一杯をかけてディミトリエビッチは組織の拡大に動いた。組織に加わる人間に事欠かなかったが、問題は秘密保持だった。ディミトリエビッチは秘密結社の長として驚くべき才能を発揮した。年末までに500人を越える支持者を集め、その人間の名前と連絡方法を一人で暗記していた。そして暴走を試みる人間を抑え、脱落する人間に穏便に去ることを許したのだった。参加する人間はピーター・ミシッチ第6連隊長(首都駐在)・前内務大臣など上層部にも拡大した。
そして革命的雰囲気はむしろ、アレクサンダー国王が醸成した。1902年3月王室親衛隊は平穏裡に行われていた学生デモに発砲した。二日後、国王は憲法を破棄し、政府と議会を解散させた。これは明らかな破局への道だった。
ディミトリエビッチは決起に向かって動き出した。すぐさま首都の(第6)歩兵連隊、騎兵・砲兵連隊、警察などすべてに決起趣意書が回され、また地方の各部隊にも同様に決起部隊を組織する手はずが整えられた。5月26日、翌々日に決起と決められた。
ドラガの前夫の兄弟が率いるディミトリエビッチを含む将校団28名がまず王宮を襲撃、門は近衛親衛隊長ピーター・ジブコビッチによって開けられ、王宮は第6歩兵連隊によって囲まれる計画だった。しかし親衛隊員が激しく抵抗し、ディミトリエビッチは銃弾3発を受け重症の怪我を負った。
しかし最終的に国王と王妃の暗殺に成功した。そして宮廷にいたオブレノビッチ家の廷臣と親族もすべて殺害され、クーデターは成功した。その後有名となるタンコシッチ少尉はこの時ドラガの二人の兄弟を射殺した。国王を射殺したのはミハイロ・リスティッチ大尉だった。
国王と王妃の殺害方法は極めて残虐だった。国王と王妃は寝室にいたが賊が乱入したとき寝返ったものを除き親衛隊員は全て殺害されていた。秘密の小部屋に逃れたとされるが捜索2時間の後発見された。そして賊は両者を全裸にしたうえ弾丸を浴びせた。そして死体を庭の池に投げ込んだが王妃は生きていて、池の橋の欄干に手を伸ばした。その手をサーベルで切断したという。この詳細はただちにヨーロッパ各国に報道されおおきなセンセーションを巻き起こした。(但しこれは報道にすぎず実際は国王が王宮から逃れようと、窓から外へ脱出しようとしてしきれず欄干にぶらさがった所を賊がつかんだ手を切断したと、現在のセルビアの歴史書は教える。もちろん真相ははっきりしない。遺体は葬儀なしでベオグラードの聖マルコ教会の地下に埋葬された。)
クーデターの成功のあと、ディミトリエビッチの手はずに従い権力の委譲は円滑に進んだ。軍部と必ずしも波長が会っていなかった議会多数派急進党がリーダーシップを取ることが認められ、憲法と議会が復旧された。そして筋書き通り、スイスにいたカラジョルジェ家の当主ピーターが新国王として迎えられた。
5日後、ロシアとオーストリア=ハンガリーが新国王を承認した。最後まで承認を渋ったのはイギリスだった。イギリスは大逆罪犯人の処罰をあくまで要求し、新国王の承認はなんと1906年6月のことだった。
ピーター新国王は、直接統治はなるべく避け、首相パシッチと参謀総長プトニックを重用した。これは賢い方法だった。またクーデター首謀者がディミトリエビッチであることは誰もが承知するところだったが、直後はミシッチなど上官をたてて、権力への意欲を示すことはなかった。もちろんピーター国王・パシッチ首相はディミトリエビッチを危険な人物だと認識はしていた。しかしディミトリエビッチの才能は組織の才と武力行使を伴う陰謀に片寄っており、政治能力は劣っていることを見抜いていた。相互に干渉することはなかった。
ディミトリエビッチを首謀者とする将校団は温存された。そして次の展開は1908年のボスニア危機まで持ち越された。
1905年から1906年の間、ディミトリエビッチ(アピス)はドイツに留学した。多分に5月クーデターのほとぼりをさます狙いがあったのだろう。また5月クーデターの時ディミトリエビッチは25歳に過ぎなかった。
この間、ドイツ陸軍参謀本部の情報部となんらかのつながりが出来たことは確実である。ドイツはこの時(ボスニア危機の前)バルカン政策を保持していなかった。オーストリアは豚輸入の関税引上げなど、対セルビア制裁を行っていたが、ドイツはむしろセルビアからの輸入を増やすなど相反する政策を実施した。
またディミトリエビッチは議会主義おそらく共和制支持かつ親ドイツ=反ロシア的な主張をその後展開した。ただこれら政治的な主張を行動原理とはしなかった。
またセルビア拡大論者だったが、セルビア人はボスニア・ヘルツェゴビナ両州など多くの地域で少数派だった。これはセルビア人が二重帝国内軍事地域に屯田兵として移住していった歴史があるためだ。つまり大セルビアを軍事力で実現するか、クロアチア人などと協同して南ユーゴ民族統合(ユーゴ・スラビア運動)するかの分かれが生じる。ディミトリエビッチはこれについての見解を明快にしていない。当然ブラック・ハンドの主張もここは明快でない。
つまり政治的に曖昧だった。このような軍人はどこの国にも多い。ディミトリエビッチがなぜセルビア軍部で圧倒的な勢力をもち得たのか、今もって謎とされる。
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このクーデターは中堅将校が引き起こしたという点でヨーロッパでは極めて稀なケースだった。そしてクーデター首謀者が権力に恬淡とし、以降文民政府の意向に従った点でも珍しい。ただディミトリエビッチを中心とする中堅将校グループの結束は固く、ヨーロッパで800万人の死者を出す大惨事を引き起こすまで秘密結社として残存する。
それでも、5月クーデターから数年は近世セルビア史上平和な時だった。しかし危機はあまり遅くなくやって来た。
ボスニア危機
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