マフディの戦争

マフディの戦争は北スーダンに突如出現した国家主義者にして回教指導者マフディの活躍の物語である。この戦争は19世紀の植民地戦争(帝国主義戦争)のうち最も規模が大きくまた長期に亘った戦いだった。

イギリスとエジプト・スーダンの関係

19世紀後半、ビクトリア女王時代のイギリスは最も成功した帝国主義国として語られる。しかし実際には植民地の経済性が問われる時代でもあった。すなわち、植民地を保有すると本国やその国民に利益となると当然考えられたのはその直前までであり、自由党とりわけグラドストンは、植民地保有に不可避な小さな戦争へ対処するコストを明確にしようとした。

当時でも大規模に熱帯植民地を保有するポルトガルと19世紀末までに熱帯植民地を全て失い西サハラの砂漠地帯しか植民地を持たないスペインとどちらが繁栄していたかは自明だったのだ。すなわちヨーロッパの繁栄は産業革命の結果であり、植民地保有のためではない。

しかしイギリスの綿工業の輸出市場を支えるインドの重要性はグラドストンも認めたが、そこに至るインドへの道から遠ざかる地域について熱心ではなくなった。自国民の移民地であるカナダ・オーストラリア・ニュージーランド・ケープ植民地についても自治を推し進めた。

インドへの道で最重要な地点はスエズ運河(1869年開通)だった。その後背地はエジプトだが、ここはオスマン帝国の版図だった。イギリスとトルコの関係は良好で、クリミア戦争、露土戦争と常にオスマン帝国を応援した。これはロシアとの対抗を考えたもので、インドを脅かす潜在敵とみなした。ただ自由党はオスマン帝国を「ヨーロッパの病人」とみなし、その近代化・民主制の遅れに批判的でもあった。

エジプトはオスマン帝国の土侯(トルコに属する太守:ケーディブ)国という性格であり、これ自体をイギリスは変更しようとしなかった。そしてエジプト土侯はオスマン帝国から派遣されるのが建前だった。ただ実際は世襲されていた。それを認めイギリスは副土侯または各地総督として軍人を派遣したにすぎなかった。もちろん土侯の下には常備軍があり、エジプト軍と呼ばれていた。しかしイギリスの関与はアレキサンドリアに駐留する海軍を除けば限定的なもので、財政の監督が主なものだった。また各地総督はオスマン帝国が任命権者だったが、しばしばヨーロッパ人が招かれて任命されており、イギリス人が全部を占めていたわけではない。

ところが1881年エジプト軍の一部が反英暴動を起こし、イギリスは陸軍部隊を派遣し鎮圧した。それ以降、エジプト軍は濃厚にイギリス軍の監督下に置かれるようになった。ただしイギリスがエジプトを完全植民地化するのは第1次大戦中のことである。

スーダンへはエジプトから更に土侯が派遣されていた。首都のハルツームに滞在しナイルを利用した交易に関税を課し、塩税を取り立てることが仕事だった。

マフディ

マフディとはムハンマド・アハマド(Muhammad Ahmad 1844-1885)で、ダンクラー(Dunqulah)の船大工の息子として生まれた。ムハンマドは回教のなかのサマニヤー(Sammaniyah)教団に学び、厳格な修行を実行した者として頭角を現した。

1880年ごろサマニヤー教団の主席神学者となった。ムハンマドの説教は次第に多くの聴衆を集めるようになり、マフディ(Al Mahdi al Muntazar)と自称するようになった。マフディとは正しい道への導者の意味で、マホメットの後継者とされるカリフより高位にあるとする。すなわちオスマン帝国の首長より自分は上位にあると主張した。そして内容は激烈な反トルコ・反エジプト主義でスーダンの独立を訴えるものだった。

この意味でイスラム原理主義の特徴の汎イスラム運動とは異なり、国家主義的でありよりスーダンの民衆を引きつけるものとなった。この時代のアフリカの暴動指導者のものと比較してマフディの主張は普遍性があり、時代が異なれば独立の英雄たりえたと思われる。

ただ、分離・独立運動の主張に多く見られるが復古的な要素も孕んでいる。例えばマホメット時代への回帰、厳格な禁酒、女性の社会からの隔離などである。

マフディがこの反トルコのジハード(聖戦)を呼びかけた後も、ハルツームの土侯政府は何ら対策を講じることがなく、宗教過激派とみなしただけだったようだ。

しかし、マフディの呼びかけに応えたアンサルと呼ばれる追随者は、各地で徴税請負人を襲撃した。土侯政府はたまらずマフディ捕縛に乗り出した。

マフディとアンサルは奥地のコルダファン地方に逃れ、ダルフル地方からの来援者と併せ、より大集団に膨れ上がった。

ハルツーム土侯政府は1882年春、エジプトからの応援を併せ7千人の討伐軍を組織し、コルダファンに向かった。

しかし途中のアルウバイイードで邀撃され、不測の敗北を喫した。そしてアンサルは4ヶ月の包囲の後、町を陥落させたばかりでなく途中8千人の救援部隊をも敗北させた。アンサルは3万人に膨れ上がり、ダルフル全域を占拠するに至った。

この結果、ハルツーム・カッサラ・サンナル・サワキンに駐留していたエジプト軍は周囲と連絡が断たれる形勢となった。

本国のイギリス政府は、事態をよく掌握していた。直ちにエジプト土侯にスーダン全域からの撤退を勧めた。そして太平天国の乱の際、常勝軍を率いて戦い支那ゴードンと呼ばれたゴードンを撤退のための指揮官に任命しハルツームに派遣することにした。


マフディの戦争(2:ゴードンの派遣に続く)
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