ジョフルは隠れて喜んだことだろうが、イギリス軍はサロニカからも背を向け再度西部戦線、ソンムに向かうことになった。今日に至るまでベルダンの戦いはこの地上で戦われたものとして、最も血腥いものとしてランクされている。損害は双方合計で100万人以上となった。これはドイツがベルダンを攻略しようとして発生したものではない。既に失敗したとわかっており、実際上停滞に瀕していたドイツの攻勢をたかだか弱らせるだけの目的で発生した。
5月ジョフルは「ドイツはベルダンで負けた」と言った。もしドイツ軍を拒止している残っている保塁の周辺で戦おうとするなら、我々は弱っているフランス軍の増援に向かえばよい。戦闘地区に派遣するか、フランス軍の受け持ち区域を引き受ければよい。
またソンム戦はロシアを救うことにもならなかった。この巨大国はドイツの大砲に追われ最早無秩序の状態に向かっていた。その時海鳴りの響きが聞こえていたのだ。これはソンムの砲声によるものではない。既に難聴となっていた我々の耳には聞こえず、そして曖昧にしかもの事を見ることができず、ロシアに近づきつつある破局に気づくことがなかった。それゆえにそれを防ぐことができなかった。ソンムで使用された3分の1ほどの大砲と弾薬が別の川、ドニエプルに到着すればロシアは大勝利を得ることができ、そして戦後革命が起きたとしても違った形をとっただろう。
一方ソンム戦はドイツ陸軍のその原型をなした将校と兵士を殺害することにより、それを滅ぼしたと主張されることがある。ソンム戦は1914年と1915年に募集された志願兵によって戦われた。これらの人々は最良のまた選ばれた若年層から成っていた。将校の大部分はパブリックスクールまたは大学から来ていた。40万人以上の我々の若人が単純な正面攻撃で倒れ、下級将校の戦死者は想像を絶する数となった。イギリス公式戦記は第1次攻撃について次のように記す。
連合王国とアイルランドの最良の若者の破滅的な損失によっても最小の土地を奪うことしかできなかった。
そして公式戦記は全体の戦いについて英軍が果たした効果について次のように要約している。
装備や戦術について改善されることは今後もあるかもしれない。しかしこの時示されたフランスにおけるイギリス軍の訓練・士気・統制に及ぶことはあるまい。そして将校と兵士の質と精神の気高さも及ぶことはないだろう。損害は重大なだけでなく取り返しが不可能なものだった。
もしドイツがアメリカと喧嘩をするような愚行をしてその力のある国民を戦争に引きずり込むことがなければ、また別の巨人、ロシアを脱落させることに成功した以上、ソンム戦が我々にとり何か長期的に役立ったということはなくむしろ敗戦の原因となっただろう。公式戦記に記載のあることだが、ポアンカレがこの大戦で生まれた偉大な兵士フォシュがソンム戦に反対だと言ったことを伝えていることに、全く驚かない。たまたまこの発言があったときのことだが、バルフォアはこの攻勢作戦をフランス参謀本部から聞き、私に次のような感想を述べた。
フランスは兵士の欠乏に直面している。にもかかわらず更に減らすようなことを仕出かそうとしている。
この時バルフォアはフランス人にこれは間違いだと直言するつもりがあったのだ。