ジャロビ突入

ナジムディンは本拠をモーマンド部族の中心地ジャロビに置いた。モーマンドはインド・アフガニスタン国境にまたがり、イギリス人にとり前人未踏の秘境だった。

マルカンド野戦軍とモーマンド野戦軍は1897年9月27日、バザルガイで合流し、1万2000の大軍となってベドマナイ峠に向かった。そこでは部族軍の頑強な抵抗線にぶつかった。ここからは従軍記者ミルズの報告に従おう。

行けども行けども、埃っぽい尾根が続く。全くの不毛地帯で眺めるだけで気分が塞がれる。これではミルクと蜂蜜のしたたるジャロビと言う噂は根も葉もないと思う。しかしこの疑いは突然晴れた。ある峠を越えると、灰色の山、埃に覆われた平野の景色は一変し、違った光景が現れた。

これまでヨーロッパ人に開かれることがなかった景色が眼前にあった。谷間は大きく広がっており、遠くの尾根がかすかに眺められる。右側を遮る尾根は低く、栗と松の巨木で覆われていた。谷間中央には幾重にも玉蜀黍畑が重なり、そして緑の林のある一隅にジャロビ村があった。ここにハッダの神学者の住処があるに違いない。

峠をくだった時、突然あたかも神への冒涜を怒るかのように山の頂きを黒い雲が覆い、そして雷鳴がとどろいた。平和な村を不気味な予兆が走るかのようだった。しかしイギリス軍はたじろくことなく前進した。村の入り口にある物見やぐらを倒し、更に家屋に火をかけようとした。そこに突然5人の剣士が現れ、部隊に切りかかった。しかし第20パンジャブ歩兵大隊はひるまず射殺した。誰もこの剣士の目的はわからなかったが、高貴なる犠牲といった所だろう。

前に内報があったハッダの神学者の隠れ家に至る道を工兵隊が発見した。道を進むと狭い谷戸にぶつかった。そこで両側から激しい銃火が浴びせられた。数秒のうちに何名かが倒れた。第3山砲中隊が呼ばれた。尾根に隠れている敵に砲火を浴びせ、第20パンジャブがその掩護のもと谷戸への前進を開始した。そして谷戸の中央まで山砲を前進させ、前方を火の海にした。こうして遠征の目的は達成された。

3時30分、夜間行動を避けるためジャロビ渓谷からの撤退が命令された。ブラッド将軍は奇襲を警戒し、後衛を念入りに配置5時半までに計画された野営地まで後退した。翌日も再度村に侵入し、貯蔵されていた全ての穀物を焼却、更に武器・金銭・秣を強奪し罰金の支払い保証として人質を連れ帰ることにした。そして背面の山地までの土地を測量し、地図にない道を新たに確認し、全ての任務を終えた。全部隊はあまり早くない速度で発起点までの行軍を開始した。

かなり残酷な植民地戦争の実際が表現されている。この戦いでイギリス軍はハッダの神学者ことナジムディンを取り逃がしている。その後、ハッダ(ジャララバード近郊)の神学校に戻り生をまっとうしたと言う。現在でもナジムディンはアフガニスタンの英雄(インドまたはパキスタンの独立ではなく)として尊敬を集めている。

なおチャーチルもこのジャロビ突入戦に参加していた。チャーチルはロンドンから連隊(Queen's Own Hussar No4)インド本部のあるバンガロールに帰着、連隊長の許可を受け鉄道でナシルまで250マイルの単線鉄道で5日かけ赴いた。ここまでロンドンから25日の旅だった。ナシルからバザルカイまでは60マイルあり乗合馬車をつないだと言う。以下はチャーチルの記述である。

チャーチル騎兵少尉、25歳の時

(ベドマナイ)峠に11時についた。あたりに敵影はない。一緒にいるのはイギリス人将校とインド人歩兵80余名だけだ。15分ばかりすると中隊長があがって来て友軍との連絡が断たれてここは危ないから一応引き上げるという。そして大部分の兵と山を下っていった。

10分くらいたつと、あちこちの岩の間からパッパッと白煙をあげて敵が射撃を始めた。ボロを着た敵が岩から岩へ飛び交い、キーキーと甲高い奇声をあげて次第に近寄って来て乱射した。5・6名が地に伏せたが遅かった。辛くも無事だったが、将校1名と兵2人が即死した。麓から連絡のため昇ってきた大隊副官が狙撃され倒れた。

そして近くの土民の家から数名の部族兵が白刃を閃かせて襲ってきた。とっさに拳銃をとって応戦したが1発目2発目ともに命中しなかったが、敵兵は岩陰に逃げた。そのすきに走って味方の陣地に駆け込むことができた。

チャーチルはこの戦いでもちろん白兵戦に参加したことになる。第1次大戦当初、参戦国の大臣の役職にあって白兵戦の経験があったのはチャーチルとトルコのエンベル・パシャだけだろうと言われる。

この戦いは後世でいうゲリラ戦に当る。イギリス軍はチャーチルの記述によれば縦隊行軍で進み、後方から攻撃を受けている。おそらく部族兵は高地に陣取るからそれだけでも不利である。またイギリス軍は1日毎野営地を確保しつつ前進せねばならず、部隊からはずれた兵士が野宿すると敵兵からではなく寒さにより死亡する公算が強い。イギリス軍は本格編制とはなっていないが、1個師団を動員した。これに対しパシュトゥーン人主力のモーマンド部族兵力はおよそ1000人に達しない。地形障害、気候、小火器を利用できれば少数のライフルを持った兵は、大国の軍に対抗し得る好例だろう。ただしこの方法で大都市を制圧することは不可能である。


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