日系アメリカ人とヒトラーの山荘


日系アメリカ人は現在30万人アメリカに居住すると言われるが、大部分はハワイにいてアメリカ本土に住む人々はワシントン州とカリフォルニア州を除いて少ない。全米の人口の0.2%であり、日本人が世界の人口の3%を占めることを考えれば不釣合いに少ない。ただ中南米やオーストラリアなど移民対象国のどこでも日本人は少ない。

本土への日系アメリカ人は1882年の中国人移民禁止法のため、急増したという説があるがはっきりしない。統計ではハワイから米本土への移住が明らかでない。またその後排日移民法が加州で通過したのは事実だが、それによって物理的危害を加えられた事実はあまりない。

もちろん、新聞やまた商店で排日の看板を出した白人はいた。だがその種のいやがらせはアメリカ移住の歴史でもあり、アイルランド・イタリー・ポーランドと黒人を除いても全ての人種に加えられている。ただ物理的な危害は黒人のみを対象としたようだ。

また1924年の移民制限法(これが日本人のみ対象としたかは疑わしい。この頃、ホームステッドと呼ばれる農業移民に与える土地がなくなり制限したのが建前だった。北ダゴダ州とか僻地に農地はあったが、寒冷地で北欧移民だけが開拓可能とみなされた。現在でも中心のミネアポリスには北欧出身者が多い。)により、日本人に労働許可はおりなくなり、事実上門戸は閉ざされた。ただ注意すべきはアメリカの移民政策について外交ルートで断然抗議を行ったのは日本だけだったことである。

そしてこの問題がなぜ日本でクローズアップされたかはっきりしない。現在の法務省の入管行政も同じだが、入国管理は内政でありまた貿易や投資とは関係がないから外交案件とはなりにくい。現在の日本の入管行政に外交ルートで断然抗議する国は存在するのだろうか。

つまり移民にたいして普通本国は決して暖かくない。

また重大なのは日本人は多分に出稼ぎでアメリカに行った形跡が強く(もちろんそうでない人もいた。)本国にたいする忠誠(当時は天皇にたいする忠誠)を失わなかった。

しかし、二世を持つ家庭は子供が18歳になると国籍の選定をアメリカ法により求められた。これは現在と逆である。すなわち当時の日本は二重国籍を認めていたが、アメリカは認めていなかった。現在日本は二重国籍を認めていないが、反面元日本人の帰化条件は甘いようにみえる。

はっきりしているのは、当時アメリカにいた日本人は他の国の人々、圧政を逃れて、または飢餓と貧困を逃れて、とは異なっていた。

ところが、アメリカは日本と同じく二回の世界大戦を経験した。そして国民に他の国より異常に国家への忠誠を求める国となった。この忠誠(プレッジアリージャンス)問題は現在のアメリカの教育の中心問題でもある。

1920年代にはいり二世をもつ家庭が「アメリカ忠誠協会」を西海岸の諸州で結成した。しかしこの時でも大多数の日本人は日本への忠誠を失わず参加しなかった。

1930年代は小康状態だが1936年の日独伊防共協定が全てを変えた。この協定に参加したことは第1次大戦の連合国から日本・イタリーが離脱し新たに世界を分割するかに見えた。

1941年12月太平洋戦争が開始されるとルーズベルトは今日ではアメリカ憲法に違反しているとされる日系アメリカ人隔離法に1942年2月署名した。日系人の苦悩が始まった。強制収容所にいた11万日系人の約30%は日本への忠誠を棄て、よりよいアメリカ人になることを決意した。

ハワイの日系人と合わせ、第442連隊(戦闘団、通常の米連隊規模の4個大隊5000人より少なく3個大隊が基本だった。当初志願兵のため補充が困難と予想されたが実際には完全に充足された。また第522野砲大隊と第232工兵中隊を随伴した。反面兵站部隊、偵察中隊はない。野砲と工兵を保有したことは既に相当に教育程度が高かったことが認められていたのだろう。)が編成された。

ヒトラーの山荘、ベルグホフ

しかし442連隊は欧州で大活躍した。フランス南部を転戦しボスゲス山地(仏語ボージュ独語ボグーゼン)の激戦でテキサス連隊を救出さらにミュンヘンに一番乗りをはたした。そして第522野砲大隊は第5師団に編成(編合)され、ヒトラーの山荘のあるベルヒテスガデンに先頭となって突入した。

但し当時のアメリカ軍の編制で先頭にたつ、または威力偵察を行うのは空挺師団と騎兵師団で実際に先頭となったのは第101空挺師団であり1945年5月4日のことだった。また空挺師団は味方の進行路が確認できたらすぐ撤退し、地点を確保することはしない。野砲大隊は通常機械化師団に随伴するが砲を運搬することはない。運搬は師団に随伴する輜重部隊の仕事である。1大隊4個野砲中隊で、砲1門当たり6人で日本軍と同じである。1個中隊は野砲7門をもつ。1個大隊全員で250人前後である。

アメリカ軍は機甲師団の他、歩兵師団もタンクを保有し、また機械化師団やトラック化師団に編制を変えていた。このため第552野砲大隊もタンクやトラックの上に乗りライフルをかついで前進した。

その時、ドイツ国防軍はすでに戦闘意欲がなく武装SSのみが抵抗した情況にあったが、ゲッペルスはバイエリッシュ・アルプスに最後の大隊(バタリオン)を保有していて徹底抗戦すると宣伝したため、全力をあげた突入作戦だった。

こうして日系アメリカ人は欧州戦線でその最終場面まで戦った。

ベルヒテスガデンに突入する第552野砲大隊兵士

ライフ誌を飾ったヒトラー山荘の大窓を覗く米兵。右は日系人

第552野砲大隊兵士

現在、ベルヒテスガデンにヒトラーの痕跡は、イーグルズネスト(鷲の巣)しかない。ベルグホフはSSによって終戦時焼却され1947年米軍の手によって解体除去された。

現在の鷲の巣。

ムッソリーニ寄贈の暖炉に座るエファブラウン

同じ部屋を訪問したアイゼンハワー

更に、エファブラウンとアイゼンハワーの足元の注目して欲しい。敷かれた絨毯は昭和天皇がヒトラーに寄贈したものである。重量300キログラムを越える絹製の高級なものだ。

1950年頃米軍将校によって粉々に切られ略奪された。

そして442連隊の兵士は休暇で帰国しても行くところは収容所だった。日本との戦争が終わるまで収容所は残り、そして解散となったあともあくまでアメリカへの忠誠を拒否、混乱の続く日本へ自ら帰国した人々は30%に達した。

トルーマン大統領は「あなたがたは人種的偏見と敵国と両方に勝利した。」とエールをおくった。しかし収容所に集められたとき没収された資産は小額の定額しか保障されず、またなによりも貴重な時間が失われた。

ある日系復員兵士は1946年に除隊となりネバダ州の砂漠の強制収容所から釈放された両親とコロラド州のデンバーで落ち会おうとした。コロラド州は日系人に最も好意的な州であり、西海岸諸州から逃れ移り住もうとする日系人が多かった。反面カリフォルニア州は反日土地訴訟が連邦裁で違憲とされたにもかかわらず、1950年まで上訴を繰り返した。時間をつぶそうと、その兵士は安レストランに入った。アメリカ軍の規則によれば除隊となっても兵士は自宅までの帰途軍服の着用を許される。

兵士の胸にはヨーロッパ戦線で得た銀星勲章が輝いていた。しかしレストランに入るや否や店の主人は、「日本人は出て行け」と怒鳴った。兵士は黙って立ち去ろうとした。その時、店のなかにいた元兵士がその主人に事情を説明した。あわてた主人は後を追い懸命に詫びた。その兵士は「あまり気にするな」と答えたと言う。アメリカでは除隊兵士がレストランで食事した際周囲の人は、酒や軽食をおごるのが普通である。

一体太平洋戦争直前の段階で、アメリカにいる日系人・日本人25万人の運命を日本の為政者は考慮に入れたのだろうか。

1987年レーガン大統領は戦中の日系アメリカ人の取り扱いをわびる市民平等権条例に署名した。この条例は上下両院の圧倒的支持を受けた。そして1990年10月、ブッシュ大統領は大戦中に被害を受けた日系アメリカ人(日本国籍の人々も含む。)とその親族に手紙をおくった。

「金銭や言葉が失われた年月を取り戻し傷ましい記憶を拭い去ることはできません。そしてもちろん不正をただそうする国家の決意や個人の権利を表現することもできません。しかし我々は正義にたいして明確な見地にたったうえ、第2次大戦中の日系アメリカ人に重大な不正義がなされたことを知りました。

賠償と心からの謝罪を行う法律を施行するに当たり、あなたがたの同志のアメリカ人は自由、平等、正義の歴史的理想を深く再確認しました。あなたとご家族がより良い将来があることを祈ります。」

こうして日系アメリカ人の戦いは終わった。この日系人の戦いは何を意味しているのだろうか?歴代アメリカ政府は日系人を特別扱いしたのだろうか?日本人と日系人はアメリカ政府に特別扱いを要求したのだろうか?

いずれの疑問もイエスのようだ。現在日系アメリカ人の出身民族別の一人当たり所得はドイツ系、ユダヤ系を2位・3位に従え1位だと言う。これもあるいは第2次大戦中の出来事を逆バネした努力の結果だろう。ただアメリカ政府は誤りを復旧する力があること、海外に出稼ぎにせよ移民にせよ日本を出た人々が、アメリカに忠誠を誓ったにせよあるいは日本に忠誠を誓ったにせよ立派な人達だったことを素直に認める必要がある。



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