ジェームソン蜂起とクルーガー電報事件


ボーア人(ボーアとはオランダ語で農民)は、1652年からケープ植民地に入植した、オランダ、ユグノー、ドイツ系の住民であって、熱心なプロテスタント教徒(多くは、オランダ改革協会派)であった。信仰は人類を二分するもので、善なる者とそうでない者とに分け、教派に属しない人々を救われない人々とみなした。このとき、ケープ一帯はオランダ東インド会社の統治下に置かれていた。

ナポレオン戦争の最中の1806年、イギリスはオランダと敵対し、無血でケープ一帯の施政権を握った。そのときボーア人はイギリス統治を好まなかったが、敵対したわけではない。ところが1828年、人種平等法が施行されると、ボーア人は奴隷制維持を固執した。さらに1834年、奴隷解放令が実施されると、ボーア人は受け入れることができなかったが、イギリス軍に抗することもできず、北方に移動を開始した。これは「大移動」 "Great Trek"と呼ばれ、1936年に始まったが、総勢1万人が参加した。初めナタルにナタル共和国を建国したが、イギリスは許さず、1943年、ナタルを併合した。

ボーア人はさらに北方の高原に移り、トランバールとオレンジ自由国を建国した。イギリス人もサン河条約(1852年)とオレンジ河条約(1854年)で独立を認めた。ボーア人は本意の通り農業を生業とした。

1870年代、キンバリーにダイタモンド原石、ウィットウォータースラント(ヨハネスブルグを含む地域)に金鉱が相次いで発見された。金鉱を目掛けて、全世界からトランスバールに白人山師が集まった。彼らはウィトランダー"Uitlander""Outlander"と呼ばれた。

ただ、南アの金鉱は非常に深い所にあり、かつ低品位であった。鉱量2トンにたいして1グラム(現在価格で3千円程度)程度なのである。鉱石を掘り出し、浮遊選鉱にかけ、精錬するためには莫大な資本が必要である。さらに非鉄金属鉱山の常であるが、鉱脈は複雑であって、ある鉱区の鉱量は掘ってみるまで正確にはわからなかった。

一匹狼の山師は資本を集める段になるとたちまち行き詰った。

このころトランバールの指導者はポール・クルーガー"Paul Kruger"であった。堂々した体躯をもち、賢明であり、信心深く、ボーア人をよくまとめた。1960年代のボーア人社会は、貧しいながらもカリスマ的な指導者をもつ小さな農業共同体であった。だが、農業を得意としたボーア人は、こういった鉱山事業を営める技術力はなく資本もなかった。

鉱山企業は次第にイギリス資本に集約され、ウィトランダーは機械操作をする工場労働者になっていった。そして、ケープ植民地首相(民選であり別にケークタウンに官選の高等弁務官がいた)セシル・ローズは、政治家であるとともに、鉱山を経営する資本家であった。ローズは金とダイアモンドの鉱床がなぜかケープになく、トランバールとオレンジ自由国にあることに不満をもった。そして両国の輸出入がポルトガル領モザンビークのデラゴア湾経由であるため、度々ポルトガル本国政府に苦情を申し立てた。

こうしてクルーガーとローズは相対立する間柄となっていった。

一方、クルーガーは税収を鉱山会社に依存すべきだと決心した。トランスバールの納税の90%は鉱区税とウィトランダーの所得税により賄われた。ところがウィトランダーに選挙権を与えない政策をとり、さらに市民権を居住14年以上の者の限定する入管方針をとった。すでに成人男子の人口ではボーア人が3万人、ウィトランダーが6万人という逆転現象が生じていた。ウィトランダーの間に隠然たる不満が出てきたのをみて、ローズは人口で優位にたちイギリス人が多くを占めるウィトランダーが反乱を起せば、簡単にクルーガー政権を打倒できると考えた。

ただ、ウィトランダーとは寄せ集めの外国人であって、意見をまとめることは難しい。さらにいえば、トランスバールを英国領にすることを望んでいなかったか、興味がなかった。治外法権のようなものをもち、ヨハネスブルグが上海租界のようなものであれば十分だったのである。

クルーガーも、ドイツと協調してイギリス人と戦うことを公言した。ドイツ士官を軍隊の訓練のため招請し、当時最新式のモーゼル小銃をドイツからデラゴア湾経由で輸入した。そして「もし、一旦緩急のことがあればドイツ軍が駆けつけてくる」と予言した。

ヨハネスブルグへの侵入

ローズはクルーガーを「除去」し、トランスバールとオレンジ自由国をイギリスの施政権下に収めねばならないと決心した。ウィトランダーを扇動し、ピツァニ地峡(マフェキングと向かい合い、現在の地名はタリブロック)に私兵を集結しつつあった友人ジェームソンに「もし必要であれば国境を越えろ」と命令した。

ジェームソン(Sir Leander Starr Jameson, 1853-1917)
エジンバラで、劇作家の12番目の子供として生まれた。ロンドンの医学大学を優秀な成績で卒業した。だが、1878年過労に倒れ、南アフリカに転地療養に向った。そしてキンバリーに住み着き、名医との評判を得た。そのときの患者には、クルーガーやローズがいた。そして1888年、マタベレ王の知己も得て、それがローズの英国南アフリカ会社設立に寄与した。1890年、英国南アフリカ会社がマショナランド征服を試みると、ジェームソンは医学を捨て、その外征に参加した。1893年の第一次マタベラ戦争では、もっとも枢要な作戦に関与した。

ジェームソン襲撃事件で収監されたが、5ヵ月後釈放され、再度南アフリカに向った。1903年、ジェームソンはケープ植民地の急進党党首となった。1904年の選挙に勝利し、4年間首相となった。そのあと、南アフリカ保守党に改組し1912年まで党首を続けた。1911年には准男爵が授けられ、1912年イギリスに戻った。

遺体はジンバブエのブラワヨにあるグラナイトヒルに埋葬された。

このときジェームソンは、マタベレランド総督であり、マタベレランド騎馬警察400人を動員した。残り200人はケープ植民地から駆り集められた。小銃のほか6丁の機関銃、3門の軽砲も装備していた。

ジェームソンにはヨハネスブルグにおける革命が中途半端になっていることが知らされた。しかし、集めた600人の士気は十分ではなく、10数人には勝手に「脱走」し始めた。ローズから「急げ」という命令をうけると、1895年12月29日、ジェームソンはいわれるまま、国境を突破した。12月中旬には、集中から開進までを終了しており、じっさいのところケープ植民地に戻ることは「費用」「体面」からいって難しい。

一方、ウィトランダー密謀者はヨハネスブルグで計画を練っていた。ところが、こういった動きは全て、クルーガーにつかまれていた。じつは11月から、ヨハネスブルグにおける「革命」の噂でケープ植民地はもちきりであり、新奇性はないに等しい状態であった。

ウィトランダー密謀者が命をかけてまで、武器を手にする意志があったかがそもそも疑問である。クリスマスの12月25日、密謀者は当面、革命を見合わせ、競馬会終了まで無期延期することを決めた。

1896年1月1日、ジェームソン隊がヨハネスブルグまであと20マイルのクルーガースドルプ"Krugersdorp"に接近すると、トランバール軍は塹壕をつくり待ち構えていた。そこで射撃戦となり、5人が「戦死」した。夜に入り側面に回り込もうとドームコップ"Doomkop"に達したが、そこでもクロージェ将軍が率いる部隊が待ち構えていた。戦いは数時間続いたが30人が失われ、1月2日、ジェームソンはたまらず「降伏」した。

裁判・議会特別委員会

クルーガーは侵入者をいったんプレトリアに収監したが、すぐに釈放した。ジェームソンと5人の共犯者はロンドンの高等法院に送還された。ローズはケープ植民地首相を退任させられた。ただ、ローズは教唆犯として法廷の取調べに応じることを約束した。ローズの弁護士ホークスレイ"Bourchier Hawksley"は、ローズとロンドンのエージェント、ラザフォード・ハリスの間の電報の公開を拒否しながら、「植民省は南アフリカにおける事件について影響を与えた」と示唆した。そして「フェアフィールドがローズに『急げ』」と、これまた何かいった可能性についても論及した。

一方ジェームソンは、ロンドンの新聞や社交界でもてはやされ、ジェームソン蜂起はまるで勝利のようにみなされた。裁判は7月20日から始まった。アイルランド人にして自由党系裁判長ラッセル・オブ・キロオウエン卿は懲役15ヶ月をジェームソンに宣告した。ジェームソンは4ヵ月間、ホロウェイ監獄に収監されそのあと仮釈放された。

クルーガーはヨハネスブルグの密謀者4人を逮捕し、略式裁判で死刑を宣告した。これはイギリス国内で憤激を引き起こした。クルーガーとケープ植民地政府の間で、刑の軽減と賠償金の交渉も並行した。結局、英国南アフリカ会社は、4名釈放のための罰金を含み100万ポンド近く支払うことで妥結した。

それより早く裁判とは別に、事件究明のため議会特別委員会が設けられた。イギリス政界とこの事件の関わりを調査するためであった。とりわけジョセフ・チェンバレン植民相と事件との関連が問題となった。

この間、ジェームソンとローズは沈黙を守った。チェンバレンは「1985年12月26日、『ピツァニ地峡にローズの軍隊が集結中であり、またヨハネスブスグで蜂起が計画中であるが、いつであるかはわからない』と首相に報告した」「12月31日、バーミンガムで越境が開始されたときき、『もしこれが成功すれば私は破滅だ。ロンドンにいって止めさせねばならない』といった」と証言した。

6月、チェンバレンは退任を首相に申し出た。だがソールズベリーは慰留した。内閣の支柱を失うことを恐れたためだとされる。特別委員会は、ローズにローズ・ハリス間の電報提出を要求したが、断乎たる拒絶にあった。ソールズベリー首相もそれを容認した。

野党自由党のハーコート党首も、ローズを悪漢に仕立てたてたことに成功したのをみて、矛を収めた。新聞はチェンバレンをジェームソン蜂起を止めようとした政治家として賞賛し、クルーガーの頑固な態度にむしろ批判的だった。事件の謎は、これからあとの50年間、ミステリーとして残った。

真相

50余年が経過した1951年(イギリスの公文書公開についての50年ルールを意識したとみられる)、南アフリカのボーア人歴史家バンダーポエル"van der Poel"によって『ジェームソン蜂起』"Jameson Raid"Oxford, Clarendon Pressが世に出た。この本は従来のこの事件の見方を一変させた。

ローズベリー(The Earl of Rosebery,Archibald Philip Primrose, 1847-1929)
スコットランド系貴族に生まれ、イートン卒業、オックスフォード中退。中退の理由は馬主となり学則に反したためである。グラドストンに認められ政界に入った。外相経験を2回経たのち、首相となった。直接にはビクトリア女王の希望があったためとされる。

ローズベリーは学生のとき人生の目的が3つあると語っている。一つは金持ちの一人娘と結婚すること、二つ目はダービー馬の馬主になること、三つ目は首相になることであった。ローズベリーはこの順番にしたがって全部実現させた。結婚相手は当時全世界第1の女金持ちといわれたハナ・ロスチャイルドである。ダービー馬の馬主については3度なっている。46歳でなったとはいえ、1年半しか続かなかった首相職はもっとも失敗であったのかもしれない。

首相退職後は、自由党主流と意見を異にし、ボーア戦争支持にまわった。このため政治からは遠ざかった。その後、ほとんどのヨーロッパ各国語をものにし、世界中を旅行した。演説は感動させるものがあるといわれ、著作は大ピットの伝記を始め幾多にわたる。ビクトリア時代の多芸の天才である。

そこでは、バウアーという人物が死後内部告発をした。当時のイギリスの植民地統治機構は複雑で、ケープ植民地の首都ケープ・タウンには、ローズが首相をつとめる植民地政府の他、イギリス政府直轄の高等弁務官事務所があった。この高等弁務官事務所は植民省の管轄下に置かれたが、通信は全て外務省経由で行なわれた。外務省が軍隊を除くあらゆる政府出先との通信を独占していたためである。

このとき、高等弁務官はロビンソン"Sir Hercules Robinson"で、自由党政府の時代に任命された。バウアーはその下僚として事務的側面を円滑にするためロビンソンを補佐することが命ぜられた。そして、植民省の次官はフェアフィールドである。

バウアーはまずヨハネスブルグにおける「革命」はローズベリー内閣のとき承認されていたとする。だが、クルーガーのウィトランダーにたいする差別はイギリスとして容認できることではなく、ローズベリー首相がウィトランダーの反乱についての情報を得たとしても、聞き置く、または賛成することは無理のあることではない。

そして選挙の結果、ローズベリー内閣は1895年7月に総辞職している。この選挙は1892年と同じく自由党は分裂選挙となった。台風の目はチェンバレンの率いる自由統一党(リベラル・ユニオニスト)であって、保守党と合同選挙を戦い、自由党を打ち破ったのである。首相となったソールズベリーは、選挙で一番功績があったチェンバレンに閣内ポストを自由に選ばせた。そしてチェンバレンは自らの意志で植民相を選んだ。

これが契機となってローズは、ヨハネスブルグの革命に加えて、ジェームソン部隊を侵入させることを計画した。これは本国政府の承認がなければ、決定的な国際法違反、したがって英国法の反逆罪(私的に軍隊を動かすこと)を構成する。そこでローズは、ロビンソン経由でチェンバレンの承認を得ようとした。

この場合、ベチュアナランドからヨハネスブルグに侵入することは必須である。ローズは英国南アフリカ会社がピツァニ地峡の統治権を得ることを、1895年10月に認めさせている。鉄道敷地にあたる土地という名目(じっさいに当該鉄道は完成し、現在も運行中であるが)をたてたが、ローズの真の目的をチェンバレンが知らないとは考えられない。

じっさいロビンソンはバウアーに「あなたと私は、この嫌らしいローズとバウアーの陰謀を知らなければ知らないほどいい。私は何も知らないよ」といい、同時にピツァニ地峡への軍隊の集中を可能にするよう命令した。さらにチェンバレンは10月2日にロビンソンに「ヨハネスブルグの革命について外部からの助力がある場合とない場合について見解を知らせる」よう手紙を書いている。この手紙の「外部からの助力」とは、ピツァニ地峡に集中しつつあったジェームソン隊を指すことは明らかであり、チェンバレンは保護国とはいえ独立国への侵入を容認していたのである。

12月中旬、フェアフィールドは南ア高等弁務官事務所からヨハネスブルグにおける革命が実現しそうもないという報告をうけた。早速チェンバレンに知らせると、「ベネズエラ問題(英領ギアナとベネズエラの国境紛争にアメリカがモンロー宣言を盾に介入した)があるので急げ」と返事があった。

フェアフィールドは直ちに、外務省のグレイとマクガイアーに「急げ」という内容の電報をローズおロビンソンにおくった。12月20日、両者はこの電報をめぐって話し合っている。バウアーはローズに軽挙を諫めたが、「それじゃ君は上司に反抗する気かね」といわれてしまった。時間的経緯から、このグレイ・マクガイアー電報が、ジェームソンをして越境を決意させたことは疑いない。すなわちチェンバレンがジェームソンに引き金を引くよう命令したのだ。

議会特別委員会にグレイ・マクガイアー電報が示されることはなく、またローズはバウアーに「ここから離れて電報を洩らすことがあったら、君はロビンソンを刑務所におくることになる。そして君の行為について偽証するだろう。ロビンソンはチェンバレンの受けがいい。二人は手を握って正しいことをやったまでだ、というだろう」といって脅迫している。じつは、ローズもチェンバレンから、(暴露すれば)英国南アフリカ会社の認可を取り消すと脅されていたのである。

この事件の真相とは、ことの全てが植民相チェンバレンの主導のもとに行なわれたことである。

クルーガー電報事件

クルーガーがジェームソン部隊を降伏させた1896年1月2日のドームコップの戦闘の翌日、独帝ウィルヘルム二世はクルーガーに電報をおくっている。

私はあなたとあなたの国民が、友好国の助力なしに、自助努力で祖国に侵入した平和を破壊する武装集団に抗して成功したことにお祝いを申し上げます。外部からの攻撃から平和を回復し祖国の独立維持に成功しました。

ドイツの新聞はこの電報を絶賛した。ただ、読みようによっては将来の対英戦争に援兵をおくるとも読める。それにはドイツには海軍が必要である。イギリス人は猛反発した。ドイツ名の商店は打ち壊しにあい、ドイツ人水兵がロンドンで襲撃された。

ウィルヘルム二世はビクトリア女王の釈明を求める手紙に答えて「電報はイギリスまたはイギリス政府への対応としたものではない」と回答した。

事件の影響とチェンバレン

ジェームソン蜂起は小さな事件である。だが、イギリス人の心の中に深刻な打撃を与えた。イギリス人はウィトランダーを差別するボーア人が公正ではないと感じていた。そのうえ、ウィトランダーの人口はボーア人より多いのである。ヨハネスブルグにおける革命は当然成功できるものと誰もが予想した。

この当時のイギリス人は、これから起きる戦争が1848年の街頭革命や1870年の普仏戦争と大差がないと思っていた。だが、ボルトアクション式小銃を装備した軍隊にたいし、猟銃程度をもった民間人は到底対抗することはできない。ヨハネスブルグの革命で全てが終わると考えたローズベリーは甘かったというしかない。

だが、ローズベリーは大国が小国を侵略してはならないという道徳を破ろうとは夢想だにしていない。たんに街頭革命が成功すると思っただけである。ジェームソン蜂起はこれとまったく異なり、国際法を破っているのである。

現代人は誤解することが多いが、クルーガーは頑固な男であり、またボーア人による人種差別は道徳的に正しくない。クルーガーはジェームソン蜂起のあといっさいのイギリスとの妥協を拒み、オレンジ自由国と攻守同盟を結び、軍事力強化のみに専心するようになった。トランスバールがイギリスに対して道徳的優位にたちヨーロッパ諸国の支持そして派兵を確信しての行動である。

トランスバールにおけるウィトランダーに対する差別は、大英帝国の面子にかけて容認できるものではなかった。つまりジェームソン蜂起によって、イギリス人とボーア人の信頼関係は崩れ去り、外交は成立しなくなった。

この蜂起の4年後、ボーア人とイギリス人は全面戦争に入った。戦争は、イギリスがケープに派兵するのをみて、クルーガーが到着前にケープ植民地全土を占領しようとナタルに侵攻したことにより開始された。つまりトランスバールとオレンジ自由国の侵略行為であった。これがジェームソン蜂起の不幸な結末である。

ボーア戦争

ジェームソン蜂起の首謀者はチェンバレンであり、酷薄なところと下品なところを併せ持っていた。グラドストンは「ハーティントンとチェンバレンには違いがある。ハーティントンは紳士的に振舞うし、事実紳士だ。チェンバレンは語るに落ちる」と評している。ハーティントンとチェンバレンは同志で、自由党ユニオニストを名乗る集団をつくって自由党と袂を分かった。グラドストンはチェンバレンに従来のイギリス政治家にはみられない異質性を見逃さなかった。

チェンバレンはそれまでのイギリス政治家と異なり、極めてドイツ的な政治家であり、物質主義(=唯物論)の信奉者であった。イギリス人の思想なり精神なりが大英帝国をつくったのではなく、イギリス人の経済的利益のために大英帝国を維持・拡大する必要があると考えた。イギリスの統治に服することが原住民の幸福につながるという信念などなく、イギリス人の経済的利益を優先させたのである。それまでのチェンバレンは「改革」を掲げ、義務教育制度拡充・年金制度創設・労働時間短縮を唱えていた。これの延長線上で、外交も国益向上の側面のみで捉えたのである。

このチェンバレンの主張、すなわち自由党ユニオニストの政策は国民に一定の支持を得た。1895年7月、自由党ユニオニストは保守党と連立し、ローズベリー内閣を倒し、再度ソールズベリー内閣が成立した。

ジェームソン蜂起やボーア戦争について、ボーア人が道徳的に優位にたっていたと考えることは誤りである。だが、これは重要なことではない。重要なことは大英帝国に正義があったかどうかである。

イギリスは19世紀前半まで、動機も何も問われない中の単純な領土拡大を行なった。そして19世紀中期に入ると方針を転換し、、グラドストンは国際法によって外国との紛争を解決しようとした。南北戦争のさい北部州に属した艦船を襲撃したが、アラバマ条約によって、膨大な賠償金を支払った。世界中が非法であると認めれば認めるしかないのである("securus judicat orbis terrarum")。

19世紀、海軍の存在により、イギリスは世界におけるリーダーの地位を占めた。だがそれは、経済覇権ではアメリカ、ヨーロッパの覇権ではドイツに脅かされる地位でもあった。世界帝国である大英帝国は、本来その道徳的優位を世界に示す必要があり、アメリカやドイツに靡く国をそれによって防ぎとめる必要があった。チェンバレンの政治思想は戦間期の鬼っ子、内政における社会主義、外政における国家主義に似ていた。だが、国家主義や社会主義は国際的リーダーの道徳には成りえないのである。

チェンバレン外交



早川崇『ジョセフ・チェンバレン』第一法規出版 1983
早川崇は労働相までつとめた党人派代議士であるが、イギリス政治史に関連して数冊を著す学究でもあった。だが"van der Poel"の著作を見落とし致命的な事実誤認を犯した。すでにペールの本は、イギリスの歴史雑誌において大きく取り上げられ済であっただけに残念なことである。史学について政治学から入った失敗であろう。
Schreuder, D and Butler, J (eds) - Sir Graham Bower's Secret History of the Jameson Raid and the South African Crisis, 1895-1902, Van Riebeek Society, 2002
van der Poel, J - The Jameson Raid, Oxford University Press, 1951

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