イタリー・オーストリアは三国同盟の一員だが、第1次大戦の前すでに同盟の実質は形骸化していた。問題の発端は、ロシアと同じくボスニア、ヘルツェゴビナ両州の1908年の合併だった。この時、イタリーは獲得を狙うトリエステ=フィウメ地区(キューステンラント)がオーストリアに奪われたと理解した。
ボスニア危機
そしてフランスとは古くからの領土問題、すなわちカンヌ・ニース地区、コルシカ島、トリポリタニア(リビア西部)を抱えていた。イタリーの三国同盟加入もそれが原因だが、争点は次第に落ち着いてきた。すなわちカンヌ・ニース地区(南プロバンス)はイタリー・フランス混住地区だが、その地区に住むイタリー語を喋る人々もフランス領となることを歓迎した。
ビットリオ・エマヌエル三世(King of Italy1869-1947)
コルシカもイタリー語を喋る人々は多数に昇るが、むしろ独立を望んだ。そして独立に失敗するとコルシカの分割は全く望まなかった。最後のトリポリタニアと仏領チュニスの線引きは、フランスの妥協で決着し、むしろイタリーは宗主権のあったトルコと1911年交戦状態に入った。(伊土戦争)この時、イタリーとフランスは、三国同盟にもかかわらず、独仏紛争または伊墺紛争の場合、双方とも中立を遵守するという秘密協約に入ったとされる。
1914年7月危機でもイタリーはオーストリア側にたつことはなく、セルビアとロシアへの宣戦布告をみて局外中立を宣言した。イタリーの中立の理由はオーストリアが同盟条約7条に違反しているというものだった。
同盟条約7条は、侵略行動による参戦義務はないとしたものだが、更にイタリーは最後通牒の交付に当たって、イタリーに何も連絡がなかったことも指摘した。
これにたいしてオーストリアの外相ベルヒトルトは弁明した。
「同盟7条による参戦義務はトルコ領土を対象とした(条文にはない。)もので条約の定める事前協議には抵触しない。更にロシアの動員が挑発行為でそれに伴った開戦だ。オーストリアが挑戦的態度に出たわけではない。オーストリアは最後通牒の交付について事前にイタリーの承認を得る義務は負わない。セルビアはロシアの侵略政策の爪牙として利用されたもので、イタリーは少なくとも同盟3条のよる援助義務は有する。」
オーストリアは第1次大戦後全ての外交文書および軍事文書を公開した。このためオーストリアの動きおよび発行した外交文書は現在でも見ることができるがイタリー側の反応は明確ではない。ただベルヒトルトはセルビアへの最後通牒交付について同盟国のイタリーに事前説明を全くしていないことが分かる。コンラートは同盟の存在にもかかわらずイタリーへの予防戦争を主張した位だから信頼関係はないにしても、事前に説明しても外交的な不利益はなくベルヒトルトの失策だろう。
ベルヒトルトの好意的中立の要求にたいし、イタリーは代償を要求した。ベルヒトルトは8月25日に交渉に応じることを約した。
10月15日イタリー外相サンジュリアーノが急死し、ソンニーノが後任となった。サンジュリアーノは親独派だったので中央同盟にとり打撃だった。イタリー国内では急進党と共和党が連合国にたっての参戦を要求、ソンニーノは意向を無視できずオーストリアに代償行為の商議を要求した。
ところがベルヒトルトは商議そのものを拒絶し両国関係は悪化した。ドイツは懸念を深め前首相のビューロウを特使としてローマに派遣、調停に入った。12月中旬ベルヒトルトはドイツの勧告に従い商議に応じることを決めた。
1915年1月、ベルヒトルトはブリアンと交代した。ブリアンは早速交渉に入ったが、イタリーは要求のうち領土については戦争終了を待たずに、交渉成立時に引き渡すべきという強硬な態度を示した。
ブリアンはドイツに強要され、イタリーの領土要求のうち南チロルのイタリー語地域について応じる姿勢をみせた。これは戦時とはいえ想像できない宥和的態度だ。そしてこの事態はセルビアへの最後通牒交付時にイタリーと協議さえすれば予想できることだ。いくらベルヒトルト外交とはいえ最早大国としての外交能力を有していないことがわかる。
ところがイタリーの世論はこれを聞いてむしろ激昂した。回答が小さいというのだ。イタリー政府は4月8日要求書を提出した。
- 1811年確定の国境に基づき、トレンチーノ(南チロル)全域の割譲
- ベルツ・ナブレシナを含むイソンゾ川上流および下流の譲渡
- イソンゾ川新国境に隣接するカポジストリア・ピラノを含むトリエステ地方の独立を認める。
- リッツ・レシナ・クルツォラ・ラゴスタ諸島の割譲
- この譲渡を即座に実行し、その地方出身の兵士を除隊させること。
- ベローナ・サセノ地方のイタリーの主権を認め、アルバニアに干渉しないこと
このような要求はまともな国家のすることではなく、オーストリアは回答を拒否した。イタリーは5月4日最後通牒類似の通告を送り。三国同盟から離脱した。
その間ビューロウの調停工作およびサランドラ首相の辞職、撤回劇など錯綜したが、5月20日議会下院は連合国にたっての参戦を促す決議を採択し、政府もそれに従った。イタリーは議会が開戦を決定した唯一の国となった。
この交渉は何を教えているか。理不尽な要求を内在しかつ国民が国家主義に熱狂している国家と隣接した場合、その国の武力に絶対に依存してはならないことだ。オーストリアの7月危機の対処がいかに失敗だったかこれでわかる。
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