カポレットー戦直前のイタリー軍
カポレットー戦直前のイタリー軍
カポレットー戦直前のイタリー軍
カポレットー戦直前のイタリー軍
カポレットー戦直前のイタリー軍

カポレットー戦でイタリー軍は大敗北を喫した。イタリー人は現在でも「それは大失敗だ」という時「それはカポレットー」だと言う。そして、イタリー人自身が敗北は、「兵が弱かった」「士気が低迷していた」ためだと説明したりする。

これは誤りである。カポレットー戦敗北の原因は兵士や国民性にあるのではない。イタリー陸軍参謀本部の「退嬰性」が原因である。すなわち、新戦術や地形に応じた策案を研究する姿勢に欠けていた。

山岳戦

防御方法について、イタリー陸軍参謀本部は柔軟防御戦術を理解しなかった。イソンゾ戦線も川沿いにありながら、実際は山岳戦である。山岳戦では、部隊の高地から低地へのシフト、低地から高地へのシフトが鍵を握る。

ところが、ヨーロッパ人は平原における戦いを戦闘方法の規準に置いた。平原における戦いでは、高地は常に戦略要地となる。高地は敵陣地を瞰制できるうえ、守備陣地としても、攻勢に出るさいの発起点としても有利である。高地を占拠すれば、そこを死守したくなる。死守することを固着防御戦術という。

ところが、高地や山が連綿としている場所では、固着防御はうまく行かない。なぜならば、高地の全周にある低地を敵に占領されたならば、高地に固着した部隊は包囲されたことになり、補給が断たれ、降伏せざるをえない。平原の戦いであれば、後方遮断に直面したことになり、連絡を回復する運動=解囲運動になる。ところが山岳戦だと、後方も山または高地であり、天然障害物である。簡単に解囲できないのだ。

つまり、山岳戦とは双方が天然の縦深陣地をかかえながら戦っているようなものである。

これがため、高地にいて周辺の低地を優勢な敵に占拠されるようであれば、機先を制して下山し、後方陣地に撤退する必要がある。そして、背後の高地には砲兵隊を配置し、低地に蝟集した敵を消耗させる必要がある。つまり、背後に数線の陣地を構築し、少数でも砲兵隊を配置できればよい。また高地の陣地は常に退却路を確保しておく必要がある。

山岳戦をやるには、柔軟防御を実施できるだけの指揮能力が必要である。当然ながら奇襲を避けるため事前索敵は重要であり、またパトロールや強行偵察も重大任務である。イタリー陸軍参謀本部は山岳戦の要諦を全く研究しようとしなかった。

イタリー陸軍参謀本部が要求したことは極めて単純だった。すなわち「逃げるな。現在地を死守しろ。最後の一兵まで持ち場で戦え」というものだった。

第11次イソンゾ戦

1917年のイタリー軍は兵員数220万人、26個軍団でフル編制の65個師団を保有しており、更にサロニカに1個師団派遣していた。この時、イギリス軍は西部戦線には62個師団しか配置しておらず、イタリー戦線のイタリー軍はそれより巨大だった。

装備も75ミリ以上の野砲・重砲を7000門もち、他にも迫撃砲を2000門保有していた。付言すれば、この規模は第二次大戦におけるイタリー軍より大きい。すなわちムッソリーニの軍隊は「500万陸軍」を呼号したにしては小さく、ピークでも150万人ほどの陸軍であった。

1917年10月のイタリー軍は、イタリーにとり空前絶後の大軍だった。

1916年8月17日、イタリー軍は第11次攻勢に出た。この戦いも、それより以前の10回の方法と全く変わることがなかった。つまり、大軍による「ひた押し」である。

攻勢はネロ山から、モンテルファコーネに至る80キロに及んだ。使用兵力は51個師団、124万6000人であり、3747門の大砲と1882門の迫撃砲が用いられた。対するオーストリア=ハンガリー軍の総兵力は58個師団にすぎず、それを東部戦線、バルカン戦線にも22個師団配置せざるを得ず、この時、イソンゾ川には23個師団しか配置できなかった。すなわち5:2の劣勢である。

オーストリアは、トルミノ=サンタルシア橋頭堡とエルマダ山を支とう点として戦った。とりわけエルマダ山はカルスト台地の突端にあり、戦略的要地だった。ここが奪われると、カルスト台地を奪われ、先にはトリエステやポラ、フィウメなどオーストリアの重要な海軍基地がある。

ネロ山山頂付近

このため、中間のネロ山周辺やバインシッツァ高原を奪われた。

イタリー軍の被害も甚大だった。戦死者4万6000人、負傷者12万人、1万6000人が捕虜となった。オーストリアの被害も死傷者8万5000人、3万1000人が捕虜となった。オーストリア軍はこの時すでに柔軟防御戦術をとっており、被害はイタリー軍の半分ほどに過ぎないが、量的劣勢にあることを考慮すれば、ジリ貧の観は免れない。

更に、エルマダ山の前方2キロまで、イタリー軍に肉薄され、両側を海側または山側を突破されかねない、不安定な位置に置かれた。オーストリア=ハンガリーがドイツに救援要請をおくったのには、このような背景があった。

ロシアでは、臨時革命政府は最早機能せず、崩壊寸前にあった。すなわち10月革命前夜(実際には11月)にあり、ルーデンドルフは東部戦線を縮小でき、翌年春、西部戦線で大攻勢に出ることを検討中だった。それまで時間の空きがある。そしてオーストリア軍もロシアから11個師団を戻した。イソンゾにいるオーストリア軍は六割方増強を果たしつつあった。しかし、それでもイタリー軍は量的優勢は変わらない。ではイタリー軍の防御はどのようなものだったか?

イタリー軍の防御

イタリー軍参謀本部は第11次イソンゾ戦が終了した段階で、オーストリア軍が反攻を準備していること、及びドイツ軍が増援部隊を派遣していることを察知した。

参謀総長カドルナは二回にわたって、第2軍(カペッロ)と第3軍(アオスタ公)に、防御姿勢をとることを命令した。しかし、イタリー参謀本部の命令はいつもの事だが具体性に欠けていた。

カペッロの第2軍の守備範囲はトルミノ=サンタルシア橋頭堡の以北である。イソンゾ川に沿って戦線は延びており、プレッツォーから北はユリスケ・アルプスの高山が聳え、軍隊の通行は困難である。そして第10次イソンゾ戦の結果、ネロ山を頂点として、イタリー軍は大きな橋頭堡を築いていた。ところが、プレッツォー周辺とトルミノ=サンタルシア橋頭堡はオーストラリア軍が死守しており、第11次イソンゾ戦でも奪取することができなかった。

橋頭堡は攻勢に出るさい拠点となる。これは当たり前である。

カペッロは参謀本部から防御姿勢されたならば、ネロ山周辺の防御を薄くし、プレッツォー周辺とトルミノ=サンタルシア橋頭堡正面の防御を厚くせねばならない。ところが、カペッロがやったことはこの反対だった。地形上、オーストリア軍がフリウリ=ベネト平原に踊りこむことを考えると、ルートはトルミノ=サンタルシア橋頭堡から、正面の低山を縫うように進み、チビタレを占領することを目論むと思しきことは、地図を見れば一目瞭然である。

トルミノ=サンタルシア橋頭堡の前面には1個大隊が縦深性のない陣地に篭り、そのうしろチビタレまでは1本道に常時1個小隊のパトロール部隊だけ配置していた。両側の山に防御施設はほとんど設けられていなかった。

つまりカペッロの防御フォーメーションとは、正面(ネロ山)をただ厚くすることだった。後方にある部隊すら前面にまわした。

防御失敗=戦略的大敗北

一般に攻勢に失敗しても、「ダメ元」すなわち土地は失われることがない。これは攻勢に出た場合、大きく消耗することを除けば、戦略的には失敗しないことを意味する。

だが、防御は異なる。一旦失敗すると地滑り的大敗北を招く。イタリー軍の防御の方法では、トルミノ=サンタルシア橋頭堡正面を突破することさえできれば、あとは総崩れとなる。すなわちチビタレまで進まれたならば、「真っ向突き破られた形」であり、ネロ山周辺とバインシッツァ高原に配置されたイタリー陸軍至高の主力部隊は背後が絶たれる。

イタリー軍大敗北の原因は、イタリー国民が弱いとか、左翼の擾乱工作によるのではない。単にイタリー陸軍参謀本部や参謀将校が怠け者で、新しい戦術思想、必要な措置を深く研究しようとしなかったことにある。


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