カポレットー戦とイタリーの教科書


カポレットー戦はイタリー人に深刻な打撃を与えた。このような一方的な敗戦はいずれの国においても同様だろう。次の文はイタリーの高校教科書(北部・保守)のこの戦いについての抜粋である。

カポレットー戦の開始

ロシアの崩壊、そしてそれに続く分離和平の模索、兵士の帰郷、ソビエトの結成は、ここイタリーにも一定の影響を与えた。ボルシェビズムに影響された人々は秘密裏に狡猾な宣伝を開始した。とくに工業地区では敗北主義が蔓延した。そして、社会主義者の平和プロパガンダはそれを受け入れようとする人々の耳に心地よく聞こえた。法王の平和覚書は平和がすぐそばまで来ているものと錯覚させた。この二つの流れはもちろん別なところから来ており、交じり合うことはないが、両方とも平和という方向に動いていることは共通していた。

8月に入ると、部分的にはこれらの観念に影響され、またごく普通の賃上げという動機からトリノでストライキが打たれた。扇情的な形をとることを防ぐあらゆる努力は失敗に終わり、突然暴力に訴える運動となった。政府は厳しい手段をとり弾圧することを決意した。かなり多数が死亡しそれ以上の人数が傷ついた。情況は危機的に見えた。いわゆる武装した労働者は逮捕され、前線に送られることになった。

それにより政府は、厳しい軍事的な調練を受け、少なくとも集会には参加できないものと予測したのだ。この仮説は後日、全く根拠がないことが判明する。

この訓練の場所は、カポレットー市近郊のネロ山が選ばれた。カポレットーはイソンゾ川の西岸にあるが、ネロ山の麓であり、そのうしろには高山が連なっていた。だが南に戻ると、少し離れて、オーストリア人が何としても手放そうとしないトルミノ・サンタルシア橋頭堡がイソンゾ川の西岸にあった。

現在のトルミノ市(スロベニア領トルミン)

左を流れる川がイソンゾ川。独墺軍はトルミノ市の背後のお椀型の高地の斜面に集結し、払暁攻撃に出発した。この辺りの住人の大半はスロベニア人であり、オーストリア軍に属していた。スロベニア人は山岳地帯に多く住み、地形を利しての射撃に精通していた。そして防寒着の着用やら馬による輸送にも習熟していた。イタリー兵は両方欠けていた。背後に見える雪山はユリスケ・アルプス

そこから数条の道路がカポレットーまで降りてきており、また更に内部に向かって山の斜面をつたって新しく建設された鉄道があり数マイル先にはウディーネ、総司令部の所在地、につながっていた。

悲劇の幕があがったときカポレットーは最初に奪われた町で、この戦い自体にその名前を冠せられることになったが、実際の攻撃は数条の線に沿い、この町で合流する形をとった。

この橋頭堡はオーストリア人にとり攻勢の発起点として良い場所だった。ネロ山とバインシッツァ川、サント山とカルソ川は簡単に正面攻撃で陥落する地点ではない。しかし側面がすべて突破されたとき防衛は困難だ。

英仏人は暫くの間、イソンゾ戦線に砲兵隊を派遣していた。英国人は100門以上、仏国人はその4分の3程度配備していた。カドルナは第11次攻勢の成功でバインシッツァ川とサンガブリエルの線は難攻不落と考え、英仏人は西部戦線でこれらの砲兵隊を必要とみなした。英国人は30門を除いて撤収し、仏国人は12門程度残しただけだった。

その同じ頃、ドイツはオーストリア支援のため、かなりの師団を送った。8個か9個と思われるが、すぐさま噂が広がり、22個師団が送られたとされた。そしてドイツ人はイタリー人が知らない新戦術をオーストリア人に教えた。そしてルーデンドルフ自身が足を運び、攻勢を促したのだった。

イタリー人は、オーストリア人、ハンガリー人そして南スラブ人と戦うことに慣れていた。しかしイタリー人は、それまでその国土のなかでドイツ人と向き合ったことはなかった。ドイツ人は組織、執拗さ、軍事技術の点で名声があった。そしてドイツ人はイタリーの知らない新軍事技術を保有していたのだ。これらは全てドイツ人有利に働いた。

独墺軍の攻勢が近いこと、またドイツ師団が存在することは知られており、イタリーに不安感が噂とあいまって巻き起こされていた。実際に攻勢が開始されたとき、とりわけ社会主義組織が敗北主義を組織的に宣伝していることもあって、不安は国内全部に拡大した。

しかしカドルナの報告は確信に満ちたものであり、ジャルディーノ国防相も10月24日国会で演説した。国軍はその核心まで健全であり、国民にイタリーの防衛は確実だと保証した。これは彼の処女演説ではあるが、これまでにない熱烈な支持演説を野党からも獲得した。かなりの数の演説のコピーが国中に配布された。まさにその夜、敵はカポレットーのわが軍の防衛線を突破したのだった。これは高尚で愛国的な演説の悲劇的なクライマックスだった。

現在知られている事実からすれば、カポレットーの重要さは自明のように見える。しかし事前には疑いなくそこは確実に防衛できると思われていた。不運なことに何かが間違えていたのだ。青天を走る電撃のように災難は襲いかかり、そしてその結果をもたらすことになった。

あらゆる説明がカポレットーの悲劇についてなされている。多くの理論のうちで、並べた場合矛盾するものが存在する。ただ、実際のところ複数の理論を結び合わせることにより、悲劇的な結末に導いた原因が説明できることになるだろう。その結末はあるいはイタリーを滅亡させ、また連合国の大義をも破砕する可能性があった。

その時のイタリー政府はもちろん原因の全てと、その組み合わせによる結論を多少は承知していた。しかし大きな疑問が、今の時代においても全て解明されるかはやはり疑問である。

またこれも確かなことだが、一般的に言われている理由が必ずしもそのクライマックスにおける事実と符合していないことである。確かなことはただ一つである。

イタリーがその情況とその必然的な運命について悟った時、全力を集中し、手の届くあらゆる力を動員し、打ちひしがれた魂のその残されたわずかなエネルギーを以って、至高の努力に向けてありたけの力を振りしぼったことである。

そして最悪の結末から逃れるべく努力し成功したことである。それは崇高な努力でありイタリーはその成功を誇る資格がある。なぜならば、イタリーの国民と国家の生存にとり、それは決定的なものであり、イタリー自身を救ったとともに連合国をも救ったことである。結果としてオーストリアの崩壊によって平和がより早く達成されたことである。

次にカポレットーの悲劇の原因について詳述したい。前例となる戦いは、情況が違うこともあり参考にすることはできない。

初めにそして最も重要なことは、その地域にいた兵士が疲れていたことである。絶え間ない作業と消耗する哨戒で疲れ果てていたのだ。毎月、毎冬、兵士たちは休暇も休憩もなく働かされていた。冬には雪、みぞれ、雨と泥、夏には太陽とほこり、そして作業・哨戒・小競り合いが続いた。兵士たちは戦った。高地、つぎも高地、山、また山を奪い取った。限りない勇気をもって、生命を犠牲にし、水のように血を流し、攻撃また攻撃を敢行した。そしてそれ以上に重要なのは次の事実だ。同志が数千の単位で倒れたあとでも一向にその目標に近づいた気がしなかったのだ。全く終わりのない戦いのように見えた。ところが実際は戦いが続いているときよりも、ない時の方が、やっかいだった。

兵士たちは疲れていた。そして飽きていたのだ。思い出すのは家畜に引かれて家に帰ったころの記憶だった。そしてそれを実行した兵士が多数でた。そして兵士は敵、フン賊…オーストリア人・ハンガリー人・クロアチア人をよく知っていた。敵も同じように感じているはずだと。捕虜や脱走兵がそう言っていた。前線の交歓会でもそう言った。一体いつ終わるんだ。食料は不足し、物価はあがり、配給は適切でない。どうして戦争を終わらせことができないのだ。どうして家に帰れないのだ、と。もし政府が了解すれば戦争を終了させることができると誰かが言っていた。坊主はそう考えている。社会主義者はそう言っている。本当に法王はローマでそう発言した。

不満をもった兵士は、ロシア人がしたように自分たちもするべきだと思い始めた。これ以上戦うことを拒絶し、戦争を止めようとした。

すでに見てきたようにトリノの武装労働者は一団となって、まだ暴動の余波が冷めやらぬなかカポレットー地区に教訓を与えられるために8月から送られてきた。

彼らは教訓を与えられるのではなく、逆に教訓を与えた。敗北主義である。ある者はソビエト主義の理論に深く感化されていた。彼らは戦争の継続と現体制の存続に反対していた。トリノでの暴動が何よりもそれを物語る。彼らは自分たちの新聞すら持参した。AVANTI(前進)は現在を痛烈に非難し未来の声だと自称する。そして戦争努力にたいする破壊行為を呼びかけていた。社会主義組織はその末端細胞に至るまで戦争の継続に資するあらゆる布令に反対することを呼びかけていた。

全ての陰謀が普通の兵士を混乱に導くべく仕掛けられた。兵士たちは、社会主義者と坊主は一致している、それだから正しいのではないかと判断し始めた。トリノの工場からきた武装労働者部隊は単に思想に染まっているのではなく実行に移そうとしていた。そして、ある程度本当に実行したのだ。機会があれば、この部隊は脱走した。最前線の兵士に誇張された不満を伝達した。そして場合によっては、防衛線の状態・砲の配置・電話交換施設などを敵に通報したのだ。

そして、最悪の事態は兵士が自分たちは不当に扱われているとみなし始めたことだ。自分たちは誰よりも最前線に長く置かれている、後方では配給は少なくとも前線よりも良い、良い宿舎、町、カフェー、そして女たちがあると。町に群がっている男たちは、うまく立ち回り、食事を一杯とり、そして塹壕の試練から免れていると。みなこれは前線の兵士を犠牲にしてのことだ。兵士たちはこれは不正義であり怒りに値すると感じた。兵士たちは虐待されているのだと、語り、不平をこぼし、書き、そして歌った。

これらの事をもちろん大本営ではつかんでいた。1ヶ月も前から首都ローマでも噂が広がっていた。ところが、イソンゾ戦線でも上流の山岳地帯ではイタリー兵の勇気が発揮されオーストリア兵を拠点また拠点と追い払っていたためか、この噂が流されることはなかった。しかし徐々に敗北主義について語られることが発生していた。

後になりカドルナは、兵士について不平を述べることを禁止する程、兵士に全幅の信頼を置いていたと言われる。事実部下の兵士について忠誠心が不足していると報告した将校はしばしば解任されたりリビヤに送られたり、あるいは転任させられたりしたようだ。この結果、多くの将校は譴責されたり、浮き上がるよりじっと自身の胸のうちにしまっておくことを好むようになった。

ただこれを証明するには新聞が言うように注意深い、時間をおった検証が必要だろう。失敗直後の報告は、確かに同時代のものだが、事件の後には変わりがなく十分な注意が必要だ。

また同時代史料のなかに、カポレットー突破の原因を兵士のなかにいた教会の派遣員の仕事だと評するものがある。疑いなく教会派遣員の間に深い、心からの平和の希求があった(…派遣員とは、軍隊付き神父と看護婦を指す)。このような信心深い人々が次のようなため息を洩らすことはあっただろう。即ち、俗界は、最終的な勝利に向けて苦しい戦いを続けているが、全ての魂を包み込む神聖なる父に問題の解決を委ねた方が良いのではないか、世界を破滅させている殺人に終止符を打つ方が良いのではないかと。

しかしながら、前線にいた神父や修道女に意図的な組織されたまたは計画的な反愛国的仕業があったとは信じられない。教会の派遣員の記録は極めてその反対である。そして、カトリックの神父と修道女程、長く前線にいて兵士と苦楽を共にして働く人々はいなかった。

もつれきった種々の理由のうち、実際に起きたことを説明するには軍事的な物理的な事実をもって突破がなぜ成功したかを明らかにする必要があるだろう。ドイツ人はフランスで前進が阻まれている前提で、もしイタリーに圧力をかけ、屈服させれば連合国の一陣が崩れることを確信していた。その方法はオーストリアに援助を与え、カドルナが営々と築き上げたイソンゾ川の左翼を圧倒しさることだった。

ルーデンドルフは実際に前線を訪れ、新しい方法を伝授した。すなわち第1線を突破し、移動する弾幕射撃のもとで、目的とする地帯を占拠し、後方からの増援部隊を阻止することである。そして、一帯は攻撃者によって事前にあらゆる地形、道路がつかまれていた。これを効果的に実行するため浸透戦術がとられた。この戦術は計画には従うが、独立した判断と個人的な思考ができるある一定量の兵員を必要とした。彼らがイタリー軍の前線を突破し、ある地点で制圧のためにグループや単位を編成し、情況が許せば一層の前進を果たしたのだった。

前進はイタリーの哨戒線を欺瞞する方法が用いられた。すなわち第1波の攻撃は、哨戒員にこれから、交歓会のための打ち合わせを実施するのだと信じ込ませることから始まった。この交歓会は持続的に実施されていたことは事実だ。このような事はあらゆる戦争で長期化した場合種々の理由で行われていた。

この方法により、選抜された部隊は事前のまた周到な指示にもとづいて砲台や戦略的に重要な地点に到着していた。その直後に経験が豊かな突撃隊が続いた。突撃隊はこれまで攻撃によく耐え、またしばしば反撃に出たイタリーの前線兵士を今度は必ず殲滅すると言う意気込みに燃えていた。

またオーストリア軍将校のなかには未回収のイタリーの地域に住むものがあり、完全なイタリー語を話した。暗闇のなかで彼らはイタリー語で兵士に後退命令を与え、オーストリアの成功に寄与することになった。

計画はすべての予想を越えた成功だった。

敗北主義に感染し、悲劇の第1幕で何人のイタリー兵がその義務を果たすことを怠ったのかは明らかでない。この非難に妥当する兵士がある師団では相当の部分に達するとも言われている。しかし、これらの兵士は連隊単位で集団に隔離されており、人数は多数ではなかったと言う報告もある。しかし、オーストリア軍の前進によって接触が激しい戦闘に転化しつつある時、この事態は好ましくない結果を生じた。またオーストリア軍が左右の側面を浸透し、より広範囲な幅をもって前進したとき絶望的にせよ阻止しようとしたイタリー軍を圧倒することになった。攻撃の激しさか戦術によるものか、攻撃側に運は傾いた。

オーストリア軍は裏切りによるものか、たまたまの幸運によるものかわからないが、イタリー軍の中央電話連絡所を占領し破壊した。それ以降は夜襲のなかイタリー軍の全ての部署に亘って命令系統が混乱することになり、命令そのものが伝達されない結果となった。


この教科書の描写で事実において誤りは存在しない。また国軍擁護の姿勢は敗軍を経験した国の方が強まるのかもしれない。

また原因の一部を社会主義者やカトリックに帰しているのは公平さを欠く感もある。ただ述べられていることが存在したことは事実だ。歴史の描写、とりわけ戦争の分析が困難なことがわかる。

実際には、イタリー軍の敗因は兵員の士気の問題ではなく、大規模な戦略予備を後方に保有せず、全軍を前線に万遍なく張ったことにある。


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