近代的浸透戦術
ブルシロフによって開始された歩兵による浸透戦術は、革命によりロシアが脱落したことを受けむしろ敵であるドイツ軍によって、より大規模に模倣された。
1917年、フーチェルのリガにおける突破でこの戦術は、司令官の名前を取り連合国によりフーチェル戦術と名づけられた。その後イタリー戦線のカポレットーにおける突破の成功は、塹壕戦を機動戦に変える切り札と思わせた。
これを最も深刻に受け止め、対策を考えたのはフランス軍だった。フランス軍の結論は縦深防禦ー攻勢移転だった。カイザー戦は巨視的にみると、ドイツ軍の浸透戦術とフランス軍の縦深防禦ー攻勢移転戦術のぶつかり合いで、フランス軍の戦術が優った結果となった。
歩兵戦術の進展
西部戦線、カナダ兵士の突撃訓練
Go over the Topのかけ声で塹壕から出撃する。
多くの場合大隊(750人)が横1線となり突撃した。
背嚢を背負っており運動性を無視していた。
ドイツ軍の突撃隊。カイザー戦第1次攻勢で実写されたもの。
肩から小銃を下げ、また食料などもズックの肩掛けで携帯している。
まだカバーをとりながら前進する方法はとられず、
手榴弾を持ち、先頭を追う形で立って突撃している。
日華事変上海攻防戦(1937)で大場鎮に突入する日本軍、第101師団。
突撃隊(分隊)はこの時12名を基準としたが
運動は横でなく縦でカバーをとりながら突撃している。
目標を砲撃で破壊することは故意に避けている。
もつのは背負い袋だけで、2日分の食料しか持たなかった。
ただ小銃は着剣し手で持っている。第1次大戦では、突撃隊による浸透作戦はまだ完成していない。とくにドイツ軍の1点突破による機動戦への持ち込みという目論みは、あらゆる点で失敗した。とくに直協部隊を第二線師団に任せた結果、突撃師団と間隙が生じ、どうしても5.6日後補給のため、停止せざるを得なくなる。すると、敵が第1線壕に集中していないと致命的な打撃を与えることができないうえ、防禦の弱い場所に突撃隊を集中させてしまう。そこを防御側の戦略予備にたたかれると、総崩れを引き起こす。それを防ぐには戦略予備の使用を制限する(目標を混乱させる)しかないが、わかりやすい方法は1点ではなく多点で前進することだ。
第1次大戦が終了すると、フランスはいち早く歩兵操典を改め、特定の歩兵部隊を10名前後の分隊での行動が可能となるよう改めた。
しかしこの方法を最も徹底的に取り入れたのは帝国陸軍だった。歩兵操典を改め傘型分隊攻撃法を歩兵戦術の中心とした。これは分隊を傘の形で構成し、頂点を軽機関銃または歩兵砲(水平射撃が可能な迫撃砲:対戦車砲を兼ねた)の射手・補助兵が占め、突撃兵は着剣して控え、前進するときは頂点を超越する。
また分隊長を担う下士官兵を養成し、実地での判断が可能な人材を揃えた。突撃隊はカバーをとりながら前進するのを基本とした。第1次大戦でも歩兵は突撃の際カバーをとらないわけではない。機関銃の弾幕射撃が浴びせられているとき、立っていられる兵士はいない。ところが命令が大隊単位であり、多くは機関銃ポスト(強化地点、トーチカ)を破壊占領せよの類の命令を受けていた。すると中堅将校はなんらかの形で兵をまとめ、強化地点に向かわせねばならない。そこで待ち受けている機関銃の餌食となった。
人間の心理として最も脅威を与える対象をまず破壊すべきだという考え方は受け入れやすい。ただこの方法ではなかなか強化地点ですら破壊できない。そして当時の軍事ドクトリンはまず強い方から攻めることは当然とされていた。旅順攻城戦でも乃木軍は最初は203高地でなく、最強の保塁から狙い失敗した。つまりこのドクトリンは実戦経験がないところから来る机上作戦的誤りである。
ところが弱い所を通過せよ、という命令は出しにくい。後方にいる参謀将校は弱い所がどこかわからないからだ。つまり現場の最前線にいる分隊長(突撃隊長;多くは下士官)の判断に委ねるしかない。防御側は塹壕内でローカルな戦力を移動させること容易だから、攻撃側もそれに応じてフォーメーションを変える必要がある。そして下士官の養成に努める必要がある。つまり戦闘の指揮が後方の参謀から現場の下士官に移行した。
この目的を達成するには長期間にわたる下士官クラスの全体的な指揮能力の底上げが必要である。これにはそれを許す社会の余裕と初等教育が絶対条件となる。第2次大戦で大国の軍隊とそうでない国の軍隊の戦闘結果の格差が極端に拡大したのはこのためだ。
文学表現という点で拙劣を通り越し無能な旧軍はこの攻撃方法を肉弾戦と名付けた。
上海の日本軍の第101師団は二線級だが、この時大隊単位で突撃部隊、直協部隊を分けていた。また補充兵や輜重兵をすぐ背後に置けたことにより連続攻撃が可能となった。ドイツ軍の編制は確かに革新的なものがあったが、日本軍にみられる徹底性がまだ欠けていた。
ただ日本軍はこのとき9個師団半(中国軍は実質55万人、日本軍の編制は4単位)にすぎず、第1次大戦のドイツ軍のカイザー攻勢第1次76個師団(3単位)という集中力には圧倒される。
また注意して欲しいのは、歩兵の携帯する武器は小銃と手榴弾が基本であり、それ以外は軽機関銃程度である。よく日本軍が自動小銃を開発しなかったことを以って遅れていると評するむきもあるがナンセンスである。第2次大戦でも自動小銃を配備したのはアメリカ軍だけで、またその陸軍は東西とも大活躍したわけではない。歩兵の武器として自動小銃はボルトアクション銃と比較し格段に優れていない。まず携行弾丸の量の問題がある。そして命中率や短銃身による銃剣の威力減、加熱の問題があり、実際自動小銃が第2次大戦や朝鮮動乱、ベトナム戦争で大活躍したわけではない。
すなわち小銃とは防禦の際、突撃して来る敵兵を倒すのが目的で、300メートルの射程であれば本来は命中率の向上を期したほうが、有効である。近距離で弾幕射撃をするのであれば、軽機関銃の方が効率がよい。自動射撃はあまり意味がない。狙撃を除けば、攻撃では小銃は槍の機能なのだ。その意味で自動小銃を別名突撃銃と呼ぶ国があった。
朝鮮動乱ではボルトアクション銃をもつトルコ兵が歩兵としてかなり優秀だと評価されている。トルコ軍伝統の近接塹壕作戦では狙いをつけられない自動小銃は有意義ではなかった。とくに一弾に集中する狙撃兵には歓迎されなかった。現在の自動小銃でもオートマチックに設定したときは、命中率は度外視することが基本である。これでは塹壕に潜む敵兵に有効ではない。またカバーをとらず立ち上がって腰ダメで乱射したところで奇襲でもなければ遠方からの正確な射撃の的である。
各国の小銃
近代的浸透戦術を無効にしたのは機甲師団を前面にたてた電撃作戦でありこれはフランス軍の防衛思想を全く旧弊なものとしてしまった。電撃戦はまた人的被害を画期的に減少させる。つまり砲の目標となる地点に人間を大量に置いてはならないというのが攻勢防御(縦深防御)や面防御の基本であり、勝敗の如何にかかわらず砲撃による被害を減少させた。第1次大戦の死傷者の75%は砲弾の破片によるもので、機関銃によらない銃創・毒ガス・銃剣による刺傷などは5%以下である。