ハンガリーが第一次大戦に熱心だったか、疑問は残る。開戦の時、首相だったティサはセルビアとの戦争にも消極的だった。それでも、東部戦線ではハンガリー兵は二重帝国の雑多な種族の寄り集まりの中で、もっとも果敢に戦った。
転機は西部戦線における戦局の悪化とともに訪れた。この時、二重帝国の軍隊は、軍団の数で26と、開戦時より、わずかに増えただけだが、装備などが減耗したわけではない。減耗したとすれば士気だったに違いない。
とりわけ、除隊となった兵士は帰郷とともに、反戦活動や独立運動に入るケースが多かった。これは二重帝国固有の問題ともいえる。ハンガリーにおいては、この傾向が厭戦気分となって現れた。
1918年10月初旬、ハンガリーのブタペストでコシュート主義者(独立主義者)と社会民主主義者が手を握り、カローリ政権が成立した。
カローリ、Mihaly
Adam Georg Nikolaus Graf Karolyi von Nagykarolyi (1875-1955)
ハンガリーの世襲貴族の家庭に生まれた。妻はアンドラーシの娘。第一次大戦前は独立党党首として、ティサや後任首相のと対立した。ただし、もっとも親密な友人はオーストリア外相ベルヒトルトだった。
首相に任命されると、社会民主党と連立政権を結成した。しかし、国民にフランスと緊密な関係をアッピールしたが、ビスク勧告のよって裏切られると、あっさり退陣した。
その後、ホルティが政権を掌握すると反逆罪にあたるとして、全財産を没収された。その後亡命生活を余儀なくされたが、第二次大戦中、故国に戻った。その後、ソ連に占領されたハンガリーで、幾許かの公職についた。
しかし、1949年再度亡命し、ニースで一生を終えた。
1918年10月31日の休戦協定成立時、二重帝国軍の主力は北イタリーのロンバルディアにいた。カローリは二重帝国の余命が長くないと察知し、ハンガリー兵で構成された軍団(HONVED)に直ちに本国に帰還することを命令した。
カローリは、ハンガリー軍が戦線を離脱しても、イタリー、英仏軍は追及しないだろうと予測したが、これは甘かった。ただ、イタリー戦線に関しては、この時点で二重帝国はイタリー軍に相当優位にたっており、カローリはむしろ西部戦線に振られることを嫌ったのかもしれない。
ともあれ、イタリー人がビットリオ・ベネトーの戦いと呼ぶ、イタリー軍「大勝利」でハンガリー軍団の大部は捕虜となった。
ビスク勧告
1918年が終わりに近づくと、チェコとルーマニアはハンガリーと国境改訂を要求し、軍隊をスロバキアとトランシルバニアに貼り付けた。1919年1月、カローリは共和国を宣言し自ら大統領となった。
カローリは自ら、フランス人の友人を多くもつといい、更にハンガリーは、二重帝国の敗北と直接関係がなく、連合国に自ら投じたと説明した。しかし、3月20日、連合軍ブタペスト駐在ビスク中佐は、ハンガリー軍に旧ハンガリー王国からの全面撤退を要求した。この要求はビスク勧告と呼ばれ、ほぼ現在のハンガリー国境線を決定した。
カローリはビスク勧告をきき絶望的となり、3月21日、「ハンガリーをプロレタリアの手にわたす」といって退陣を表明した。
ベラクーン
1918年11月4日、レーニンの肝いりで、モスクワのホテルにて、ハンガリー共産党が結成された。メンバーは戦争捕虜が中心で、元新聞記者のベラクーンが議長となった。
1919年2月までに共産党は党員数二万から三万に膨れ上がった。
ベラクーンは1月武装蜂起を扇動したが失敗、逮捕された。だが、カローリの退陣表明をうけハンガリー共産党(HKP)は社会民主党と連立を組み政権を奪取した。釈放されたベラクーンはハンガリー・ソビエト共和国の成立を宣言した。
HKPは「言論の自由」「結社の自由」「無料教育」「少数民族への言語・文化上の権利」を保証する憲法を公布した。そして僧侶を除く18歳以上の男女に参政権を与えた。しかし、行われた選挙は、候補者1名制のもので、全員HKPの推薦された者だった。
6月25日、ベラクーンはプロレタリアート独裁、主要産業・交通機関の国有化、銀行・製薬会社・文化施設の社会化、40.5ヘクタール以上の土地の解放を指令した。ただ、この時HKPを支持する国民はほとんどなく、期待は外敵からの防衛のみにあった。
ベラクーンはソビエト政府の介入と国際的な労働者の支持を期待したが、どちらも現実的なものではなかった。一方、反対派の取り締まりのため「革命法廷」を設置し、590人を即決で処刑した。更に、農村から穀物を強制的に徴発した。この「赤色テロル」はハンガリー社会を恐怖に落とし込んだ。
赤色テロル
ルーマニア軍の侵攻
一方、ベラクーンはビスク勧告を否認し、旧国境線を守る戦いをおこすべきだと主張した。ビスク勧告自体は、パリ講話会議において五ヶ国委員会など正規の手続きを経たものではなく、フランス軍とウィルソン(チェコスロバキアまたはチェコのマサリクに同情的だった)の合意ができたからにすぎない。
この時、もしハンガリーがチェコまたはスロバキア、ルーマニアの利害対立を利用できれば、ある程度の国土の維持が全く不可能だったわけではない。しかし、ベラクーンのとった策は、いずれの連合国にも受け入れがたいものだった。
ベラクーンはシュトルムフェルド=アウレール将軍にハンガリー赤軍の指揮をあずけた。赤軍はチェコ軍の撃退に成功した。さらにスロバキアに政治工作を行い、ブレショフにスロバキア国民評議会共和国を樹立した。
しかし、赤軍が北に向かった形勢をみてルーマニア軍は南のトランシスバニアから、ハンガリー領内に全面侵攻した。クーンは赤軍をルーマニア軍に振り向けようとしたが、大半の兵士は戦うことを拒絶した。クーンは8月1日、ウィーンに逃亡し、のちソ連に向かった。ルーマニア軍は、あちこちで略奪をはたらいたのち、8月5日、ブタペストを占領した。
ホルティの反攻
ベラクーンの共産政治に反対するホルティは、6月、数千人の二重帝国海軍兵などを率いて、南のセゲドに臨時政府を樹立した。ルーマニア軍により、ハンガリー赤軍は壊滅すると、セゲド政府軍とルーマニア軍の全面対決の情勢が生じた。
11月に入り、連合国10人委員会は、ルーマニアに撤兵を勧告した。ルーマニアはトランシルバニアの獲得を条件に撤兵した。ホルティ軍がブタペストに入城したのは11月16日のことだった。かつての二重帝国の第二の帝都、ブタペストは荒廃の極みだったといわれる。
1920年1月、普通選挙による総選挙が実施された。小地主党とキリスト教国民統一党による保守・中道のベトレン政権が成立した。ところが、王制復古をめぐり、両党は対立した。小地主党は連合国のうけいれる非ハプスブルグ王家(おそらくシシーの血統を引くベルギー王家からの王子)を主張し、キリスト教国民統一党はカール1世の復辟を主張した。
だがチェコスロバキアはハプスブルグ家の復活に反対し、1920年3月、議会は王国への復帰を宣言しホルティを摂政に任命した。
1920年6月、ハンガリーは国土の三分の二を失うことになる過酷なトリアノン条約に調印を余儀なくされた。この結果3百万人のマジャール人が国外に居住することになった。
だが、6ヵ月後、オーストリアとの国境問題が生じた。ブルゲンランド州のショブロンをめぐるもので、ショブロン市民がハンガリーへの帰属を求めて、武装蜂起して市内にたてこもったものだが、住民投票で帰属派が三分の二に達し、ショブロンはハンガリー領となった。
ハプスブルグ家のカール1世は、1921年4月と11月に帰国しようとしたが、ホルティとベトレンはこれを阻止した。議会も1921年11月ハプスブルグ退位決議を行い、カール1世の復位の道は断たれた。
ベトレン政権は、これから1931年まで続く。この間、特徴的だったのは白色テロである。共産主義者とカローリ主義者がその犠牲となった。ただし、社会民主党員は、その被害を受けず公民権の制限は全く受けなかった。これの理由は共産党員の大半、およびカローリ主義者の少数がユダヤ人だったためである。
ベラクーン時代、人民委員45名のうち32名までもがユダヤ人だった。これはロシアのボルシェビキ政権がユダヤ人の浸透をおそれ、意図的にロシアにいたユダヤ人を組織的にヨーロッパ各国に派遣した結果である。
一体、ボルシェビキの悪辣な政治と考えるべきなのか、それともユダヤ人共産主義者がオポチュニストにすぎたのだろうか?ハンガリーの1920年代は、オーストリアと同じく、自由が制限された独裁主義の時代とみなすことはできない。ポーランド、ユーゴスラビア、ルーマニア、チェコスロバキアではいずれも独裁者が支配し、また少数派の政治的発言権は制限されていた。オーストリアとハンガリーは、領土を削られた結果、ほぼドイツ人とマジャール人の国となった。つまり国民国家となり、それを原因として経済の発展も、残りの東ヨーロッパ諸国にたいして速かった。
領土が小さいほど、国民は自由が得られるという皮肉がここにもある。
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