タンネンベルグ包囲殲滅戦のあと、ヒンデンブルグの無謬性を示そうとする多くの伝説がドイツで現れた。
そして、伝説の中心は、サムソノフ軍をレネンカンプ軍と分断して全軍を当たらしめた軍略の着想をどのように得たかに占められた。
- ヒンデンブルグが子供の頃ノイマルクの領地に遊んだとき、そこの園丁はフリードリッヒ大王の軍にいたことがあった。園丁はフリードリッヒ大王の軍略について子供のヒンデンブルグの教えたというもの。
- ヒンデンブルグが1881年から1884年の間、ケーニヒスベルグの軍団の参謀として勤務していた頃、日々ロシア軍の来寇を想定し山河を跋渉し軍略を研究したというもの。
- ハノーバーからマリエンブルグの車中でルーデンドルフに着想を伝え停車場ごとに電文で指示を与えた。
これらは全てヒンデンブルグ自身によって否定されているが、謎は依然残っている。そもそも始めの着想はホフマンにあったことは事実のようだ。ただこれに誰が承認を与え実行させたかが不明なのだ。
この疑問について、ドイツの参謀教育が優れていて、誰が計画を作っても一緒だという極論もあるが、信じることはできない。
旧軍参謀本部はこの疑問を戦後、当時のドイツ大本営在籍者に尋ねた。しかし根本については解明できず、次のような概括的な説明を得ただけだった。(誰からとは記載されていないがシュタインからと思われる。)
- 小モルトケの当初案はサムソノフ軍の右翼(第6軍団)を側面攻撃できないか、というものだった。
- これはグンビネンから最も距離が近いことが理由だった。
- このアイデアをシュタイン中将を通して、第8軍司令部に8月21日に伝えた。
- すると第8軍から第1軍団が鉄道にケーニヒスベルグで乗車する計画だと伝えられた。目的地は西方グラウデンツ方面と。これでは全面退却になるので、ひとまず中止させた。
- この頃、シュタイン中将の提案を受け、サムソノフ軍右翼の攻撃方法を、第8軍司令部で検討を開始した。しかし距離が開きすぎ機が熟していないという判断が大勢を占めた。
- 8月21日夕刻、ホフマン中佐より、サムソノフ軍右翼ではなくて、左翼に攻撃をかけたらどうか、という提案があった。
- 同時刻、サムソノフ軍に直面しつつある第20軍団長ショルツより、予備第3師団と第1軍団を自身の軍団の左右に配置できないかという提案があった。
- このためには第1軍団のとりあえずの目的地をグラウデンツからドイッチェアイラウに、予備第3師団をドイッチェアイラウよりアレンシュタインに変更する必要がある。
- 8月22日、第8軍司令部では、ショルツの提案を全面的に受け入れる事で幕僚間で衆議一決し、かつ小モルトケの提案を受け、併せてサムソノフ軍右翼の攻撃に第17軍団と予備第1軍団を徒歩で向かわせることが提案された。
- コブレンツの大本営はこの案を承認した。
旧軍の記録はここで終了している。
これとは別に、プリトウィッツ第8軍司令官は小モルトケと連絡をとっており、すくなくともグンビネンの敗戦によってダンチッヒまでの撤退を要求した。これは8月20日と8月21日の二回あったと推定される。小モルトケは8月21日夜自動車をナミュールにいたルーデンドルフにさし回し、コブレンツに来るよう命令している。
するとこのときにプリトウィッツの革職を決意したものと思われる。従って小モルトケがプリトウィッツが撤退と援兵の承認を求めてきたので激怒しこの決意をしたのは疑いない。旧軍記録でみえるシュタインは兵站総監(参謀次長)で、プリトウィッツの下僚と連絡をつけるに好都合の人物とみられる。ドイツでは参謀総長と軍司令官は同格だ。またシュタインはヒンデンブルグをプリトウィッツの後任として推薦したことでも知られる。
シュタイン
問題は着想だが、オリジナルのアイデアが小モルトケおよびショルツが関係しているというのは旧軍の資料にしかみられない。ただし小モルトケのアイデアは第20軍団を除く第8軍全軍を以って徒歩でサムソノフ軍の右翼をつくというもので、奇襲性の確保が難しい。
またこのアイデアの承認は公式には8月23日午後ヒンデンブルグ・ルーデンドルフ着任後の命令だった。ところが実際の配置はすでに進行中だった。ここに謎がある。ルーデンドルフの行動は8月22日午後6時コブレンツの大本営到着、小モルトケと東プロイセン情勢の打ち合わせ、午後9時特別列車で出発、8月23日午前4時ハノーバー駅頭でヒンデンブルグと邂逅、午後2時マリエンブルグに到着した。
そしてフランソワの第1軍団はケーニヒスベルグ周辺で鉄道に8月21日乗車を開始した。フランソワの回想録によると、8月21日プリトウィッツから撤退を初めてきかされ、これになんとか思いとどまって欲しいと説得したというから目的地はグラウデンツだったのだろう。ところが21日は避難民が鉄道に殺到し乗車できず、22日になった。そしてこのときには目的地が変わりドイッチェアイラウになっていた。実際に第1陣が到着したのは23日だった。
ところがモルゲンの予備第3師団は21日にインステルブルグで鉄道に乗車、同日中にドイッチェアイラウではなくアレンシュタインで降車している。これは第20軍団支援の行動だ。
つまりプリトウィッツが午前中ダンチッヒ方面までの撤退を大本営に連絡したがほぼ同じ頃サムソノフ軍に当たるため予備第3師団は南部に集中を開始した。そしてトルン要塞兵を中心とする後備混成第5旅団も第20軍団の右翼につく行軍を開始している。
これを解くカギは後退に当たっての側面支援ではないか。すなわちもしプリトウィッツの指示通り後退したとしても、南部からサムソノフ軍が迫っているからその進行を阻止せねばそもそも撤退がなりたたない。このため後衛を第17軍団・予備第1軍団が担当し、側面を第20軍団を中心とする部隊が掩護する予定だったのではないか。
ショルツ
するといつ撤退からサムソノフ軍への集中に切り替えたのだろうか。これも切り替えるというより、南部増強を主張したショルツの意見が通ったのではないか。ショルツの第20軍団は孤軍でサムソノフ軍に当たる計画だったが、グンビネンで敗れた以上持久しても意味がなく全力でサムソノフ軍に当たるべきとショルツは考えたのではないか。すると旧軍の記述は概ね正しいことになる。
ウィラーベネットはこの間の事情について、ドイツの優秀な参謀教育のもとでは同じ境遇であれば参謀が同じ結論を出すと言うが買かぶりだろう。8月20日にホフマンが独断で命令を出し、あとの8月23日のルーデンドルフの命令とたまたま同じだったというが無理がある。そしてこの2日間第8軍司令部は大本営に連絡をしなかったと言う。これはいくら独断専行のドイツ軍とはいえあり得ないだろう。
バーバラタックマン(「8月の砲声」の作者)はルーデンドルフがホフマンの命令書を盗み見たというが、これはないことでもなくまた二人は知り合いだが、事実であればホフマンが公開するだろう。
ルーデンドルフが8月22日夕刻わずか3時間コブレンツで決断するまでは第8軍は大本営の意向に反し東プロイセン撤退で動いていたと思われる。ただしホフマンらの手で攻勢に転換できる手は打っていたのだろう。その意味ではルーデンドルフの短時間での情勢把握力は恐ろしいものがある。着想が豊かで、判断力も抜群の才子なのだろう。
小モルトケは8月22日午後6時、プリトウィッツとバルデルゼーの革職を第8軍司令部に連絡している。おそらくその深夜サムソノフ軍に全力で当たる命令を、大本営とルーデンドルフの名前で各軍団長に発したのだろう。マッケンゼンの第17軍団とベロウの予備第1軍団が南部に徒歩行軍を開始したのが8月23日未明なのはその傍証と思われる。
ただし両軍団ともロシア第1軍(レネンカンプ)と相対していたわけで、どのように悟られずに戦線離脱を果たしたのかははっきりしない。ただこの二つの軍団がルーデンドルフが動かし得る、最大の戦略予備部隊でしかも決定的な役割を果たした。ルーデンドルフの両軍団を決戦場面で投入する構想は、22日夕刻3時間で練られていたのではないか。
ショルツは大戦末期、バルカン軍司令官だったが仏軍デスパレの攻勢にあい、この時も増援をルーデンドルフに依頼した。しかしルーデンドルフはこれを拒絶、結果としてブルガリアが分離和平に走った。これがドイツ敗北の端緒となった。ショルツはルーデンドルフをその後生涯許すことはなかったという。
タンネンベルグ包囲殲滅戦は第1次大戦で戦略的に大きな地位をしめるものではない。マルヌ会戦におけるドイツの敗北=シュリーフェンプランの失敗、ガリシアでのオーストリアの敗北のほうが決定的だった。しかしこの戦いがなく東プロイセンがロシアに占領されたとなると大戦の帰趨が全く違ったものになったことも疑いない。
ドイツ政府は1914年の戦いで中央同盟にとり唯一の勝利のこの戦いを大きく国内で宣伝した。伝説の始まりはそこからだった。
タンネンベルグ戦直後にドイツで販売された葉書。
ゾルダウでロシアの騎兵旅団を撃破と説明がある。